東山文化の時代に,和風住宅である書院造という建築様式が起こります。この書院造は,禅寺から始まって将軍の邸宅にとり入れられ,やがて守護大名や上級武士,また公家の邸宅にもとり入れられました。
まず玄関があって,書院の間があります。この書院の間は畳敷きで,床の間や違い棚がありました。天井も張られ,襖(ふすま)や障子(しょうじ),壁などで部屋がしきられ,その前方に書院庭と呼ばれる庭があります。
これが次の安土・桃山時代になって大名の居館などに広く採用され,江戸時代になると大商人らの住宅にも用いられました。さらに明治以降も和様建築の基本様式として広く普及し,私たち庶民の住宅にも取り入れられて今日に至っています。住宅様式の違いは,建築史の上だけの問題ではありません。人々の生活も全て畳の上にすわることを基本に組み変えられていくのです。
襖が立てられることになって,それに絵を描くようになると,これまでの屏風のほかに大画面の絵がおこってきました。これが,雪舟らの水墨画や狩野派の絵を発達させることになったのは,いうまでもありません。
雪舟が備中国(岡山県)赤浜で生まれたのは応永27年(1420)のことです。ですが家柄ははっきりせず,幼名も判っていません。しかし,それなりの武家に生まれたと思われます。物心つくころには,生家からそう遠くない宝福寺という禅寺に入れられました。口べらしだったのでしょうか。しかし寺に入って絵を描くことを憶え,巧みな筆さばきに皆が感心したということです。
雪舟はその後,京都相国寺の鹿苑院(ろくおんいん)に移り,洪徳禅師(こうとくぜんじ)に師事します。洪徳禅師は芸術について理解が深く,雪舟にとってさらに幸いなことに,相国寺には水墨画の名匠として名高い如拙(じょせつ)や周文(しゅうぶん)がいたことです。絵を描くことが大好きで何とか絵師になりたいと思っていた雪舟にとって,如拙や周文の指導を受けることが出来たことは僥倖でした。
如拙は,将軍足利義持の命で,有名な「ひょうたんなまず」(作品名は「瓢鮎図(ひょうねんず)」)を描いています。周文も有名な「四季山水図」などを描きました。日本の水墨山水画の大成者である如拙や周文の技法を学び,雪舟は43歳のとき(寛正3年=1462),雪舟等楊(とうよう)と名乗ります。
その後,45歳のとき,雪舟は山口へ行き,大内教弘の保護を受けます。雪舟はこの地で大陸に渡る機会を待つのです。最早,国内に師とする人はいないからです。応仁元年(1467)その機会が訪れました。雪舟は,大内政弘が,将軍や細川勝元と共に貿易船を明に送ることになり,乗船をゆるされたのです。
明に上陸した雪舟は,北京に行って技法を学び,天童山に登って首座の役についたり,また多くの大作を描き,3年間滞明して日本に戻りました。しかし技法の上で雪舟が得るものはほとんどありませんでした。雪舟の絵は,明の画家たちをしのぐものでした。とはいえ大陸の風物を自分の目で見たことは,大きな成果でした。
帰国した雪舟は,応仁の乱をさけて大内氏を頼って山口に行きます。その後,豊後(ぶんご=大分県)に移り,文明13年(1481)には関東を旅して文明18年(1486),67歳のときに周防(すおう=山口)に帰り,代表作といわれる「山水長巻」を描きます。雪舟の名は全国に知られました。しかし雪舟は,中央の画壇に出ようとはせず,87歳の生涯を山口で終えました。
序文
プロローグ
私たちは過去から未来に向かって,今という時を生きています。ただ漠然と生きているわけではなく,よりよき未来を求めて考えながら歩いています。ですけれど,未来を考えるためには,今を知ることが必要です。そして,今を知るためには過去すなわち歴史を知らなければなりません。今という時は,先人たちが営々と築いてきた,そして今も築き続けている歴史の上に成り立っているからです。
「歴史を知らずして今を語ることなかれ。今を判らずして未来を語ることなかれ」
です。
それでは,今を知るために,そして未来を語るために歴史の森へ分け入ってみることにしましょう。とはいえ,これから語ろうとするのは,小むずかしい学術的な歴史ではありません。教科書などで語られる歴史とは一味ちがった「へえー。そうなの」という,おもしろく興味深い話です。どうぞ気軽におつき合いください。
高橋ちはや
著者紹介
高橋千劔破(たかはし・ちはや)
1943年東京生まれ。立教大学日本文学科卒業後,人物往来社入社。 月刊『歴史読本』編集長,同社取締役編集局長を経て,執筆活動に入る。 2001年,『花鳥風月の日本史』(河出文庫)で尾崎秀樹記念「大衆文学研究賞」受賞。 著書に『歴史を動かした女たち』『歴史を動かした男たち』(中公文庫), 『江戸の旅人』(集英社文庫),『名山の日本史』『名山の文化史』『名山の民族史』 『江戸の食彩 春夏秋冬』(河出書房新社)など多数。日本ペンクラブ理事。
最近の投稿
「狂雲集」を著した一休宗純
「一休」というのは,煩悩(ぼんのう)と悟りのはざまで「ひとやすみ」をする,という意です。一休はまさにそのはざまの中で,天衣無縫な人生を貫きました。少年時代の頓智(とんち),長じてからはユーモラスで洒脱(しゃだつ)な人物像が定着しています。そうした一休のイメージは,江戸時代初期の寛文8年(1668)に刊行された仮名草子の『一休咄(いっきゅうばなし)』などによって作られました。
実際の一休は,反骨精神を貫き,自由奔放に生きた室町時代の禅僧です。自ら「狂雲子」と号しました。
一休が生まれたのは応永元年(1394),洛西嵯峨野(京都市郊外)の民家でした。父は後小松(ごこまつ)天皇,母は藤氏(とうし。藤原一族)です。とはいえ,時の天皇の皇子として,殿中の華やかな雰囲気の中で育てられたわけではありません。逆に皇子であることを秘し,ひっそりと育てられました。僧になることも,定められた運命でした。一休が,いつ天皇の子であることを知ったのか詳らかではありませんが,屈折した境遇のなかで育ったことと思われます。その間に,反骨精神と自由気ままな生き方が醸成されたことは,まちがいありません。
少年時代のエピソードは,枚挙に暇(いとま)がありません。小僧たちが,毎日廊下のふき掃除でけんかになります。一つの水桶で争って雑巾を洗おうとするからです。一休は,すすぐ係を決め,日変わりで交替するようにして,滞りなく廊下掃除ができるようにしました。またあるとき,和尚が秘蔵していた水飴(みずあめ)を,小僧たちでなめてしまいました。気がついたら飴の壷は空っぽです。さあ大変。すると一休は,和尚が大切にしていた硯(すずり)をわざと割り,皆で死んで詫びようと思い,水飴をなめたけれど,まだ死ねませんといい逃れます。日ごろ和尚が,この水飴は大人には薬だが,子供には毒じゃ,なめると死んでしまうぞ,といっていたのを逆手に取ったのです。また,一休の評判を聞いた将軍足利義満が,一休を金閣寺に呼び,衝立(ついたて)の虎を捕えてみよといいます。すると一休は平然として縄を用意し,さあ捕えてみせますので虎を追い出して下さい,といい将軍をやりこめました。また「このはし渡るべからず」と書いた橋を渡れといわれ,「はし」ではなく真ん中を通って渡った……等々。
一休が,近江国堅田の祥瑞庵(しょうずいあん)で,華叟宗曇(かそうそうどん)に師事し,「一休」の号を授けられたのは,応永25年(1418),25歳のときでした。その一休が忽然と悟りを開いたのは,27歳のとき,闇夜に琵琶湖の湖上でカラスの鳴き声を聞いたからだといいます。その後一休は,まさに風狂奇行の禅僧として,五山派はもとより大徳寺派の禅僧に対しても,激しい攻撃を加えるのです。
その風体(ふうてい)は,ぼろをまとい,木刀を腰に差し,尺八を吹きながら町を歩く,というものであったといいます。
一休の詩集である『狂雲集』には,女性との愛欲や自らの風狂ぶりが,あからさまに綴られています。晩年は,森侍者(しんじしゃ。もりのじしゃ)と呼ばれる盲目の美女と,東山薪村(たきぎむら)の酬恩庵(しゅうおんあん)に住み,ここでも森侍者との赤裸々なセックスを多くの詩に詠んでいます。酬恩庵に住んだのが75歳。88歳で森侍者にみとられて入寂(にゅうじゃく)しました。
足利義政と銀閣寺
足利義政は,24年間,征夷大将軍職にありました。ほぼ四半世紀の間,武家政権のトップに位置したことになります。しかしその間,義政が将軍として政務を司ることは,ほとんどありませんでした。実権を握って庶政を見たのは,管領の畠山氏や,山名氏などの有力大名,また政所(まんどころ)執事の伊勢氏らです。
応仁・文明の大乱が引き起こされたのも,もとはといえば義政の政治力のなさによるものです。大乱の前後,さらに渦中,義政は何をしていたのでしょうか。応仁の乱が勃発したのは応仁元年(1467)のこと。そのあと文明の乱と続いて,都での乱が一応収まったのは文明9年(1477)のことです。しかし戦乱は次第に地方へと広がっていき,全国的な規模となっていきました。
だが義政はこの間,文明5年(1473),子の義尚(よしひさ)に将軍職を譲り,引退してしまったのです。義尚はこのとき,数え年で9歳でした。引退してどうしたかというと,京都の東山に山荘を建て,ここに移り住んで東山殿と称されるのです。文明17年(1485)に剃髪し,延徳元年(1489)山荘内に慈照寺を建立しました。その遺構の一部が,今にのこる銀閣です。このことに因み,15世紀後半の文化は「東山文化」といわれます。
足利義政は,政治力はまったくなかったものの,芸術的才能には恵まれていました。広大な東山山荘の建物の配置,庭園のたたずまいや庭石の位置まで,自ら指示したといいます。ダメ将軍である足利義政が後世に名を残したのは,じつにその文化によってでした。「東山文化」が,日本における文化史の中で,燦然と1ページを画することは,義政にとって望外の喜びであるにちがいありません。
この時代,足利将軍家に近侍した芸能・芸術の者たちを忘れてはなりません。彼らは同朋衆(どうぼうしゅう)と呼ばれ,多くは阿弥(あみ)衆がその任に当たりました。阿弥衆というのは,中世以降,時衆(じしゅう)教団に従属した半僧伴侶で,諸芸に従事した者たちをいいます。猿楽や唐物奉行,書道や茶の湯,立て花などの芸能に関わった者たちです。やがて絵画や連歌(れんが)の宗匠たちも登場する東山文化において,同朋衆の役割は,きわめて大きいものでした。
応仁の乱へ
足利義政がわが世の春を謳歌していたころ,いっぽうで不思議な現象や天変地異がつづきます。
まずは長禄3年(1459)のことです。この年は,正月に義政の愛妾のお今が殺され,いわば不吉に明けた年です。この年の6月19日と7月20日の2回,空に2つの太陽が現れたといいます。これを見た多くの人々は,驚き,おそれおののきました。翌月の8月18日,ちょうどお昼ごろ,今度は太陽が急に銅色(あかがねいろ)に変わったので,またまた人々はおそれました。
はたして9月になると,それまでの日照りつづきが一転して長雨となり,賀茂川が氾濫して都は大変な被害にあいます。翌年の寛正元年(1460)の6月7月はまたも長雨続きで,8月には洪水となりました。ところが翌2年は,春から夏にかけて雨がまったく降りませんでした。こうした3年越しの天候異変は,人びとにも悪影響をもたらします。
寛正の飢饉と呼ばれる大凶作によって作物はまったく実らず,多くの人が飢えて町をさまよい,行き倒れて亡くなる者も多くいました。そのうえ,洪水のあとには疫病が流行し,多数の人が死にます。その死体を賀茂川に捨てたため,死体によって川の水がせき止められ,積み重なった死体の悪臭が町々に満ちて,住民たちは大へん悩まされました。そうしたところへ,徳政を要求する農民らが京の町に乱入してきて,京都市中は,まさに地獄さながらというありさまとなりました。
そうした状況を幕府や武家が知らなかったはずはありません。しかし将軍も有力武家も知らん顔で,税だけは厳しく取り立てました。天変地異によって凶作となった農民の多くが,土地を捨て,乞食になりました。都の周囲は荒れ果てた田畑ばかりです。将軍足利義政がやったことといえば徳政令を出したぐらいのものです。一代中じつに13回も徳政令を出しました。歴代将軍のワースト記録です。
義政には子供がいませんでした。早く引退して趣味の世界に生きたい義政は,将軍職を継がせることを条件に,弟の義視(よしみ)を養子にしました。一年後の寛正6年(1465)11月20日,義視は元服の式を挙げました。すでに27歳になっていましたが,将軍就任を前程とした元服式です。
ところが,その三日後,富子夫人に男の子(義尚)が生まれたのでした。「万民歓呼,天下万民の基なり」とある僧侶の日記に記されました。義政が将軍職をゆずることを前提に義視を元服させたことは明らかです。しかし富子にしてみれば我慢のならないことです。正夫人が生んだ男子に継承権がなく,夫の弟でしかも妾腹の義視が継ぐというのです。富子は,山名宗全を義尚の後見人にして,細川勝元を後見人とする義視に対抗します。
こうして,山名宗全・細川勝元という宿敵どうしが,またまたしのぎを削ることになりました。いよいよ応仁の大乱へと時局は動いて行きます……。
足利義政と日野富子
足利義教が暗殺されたあとを継いで,義教の子義勝が7代将軍の座につきます。しかし,わずか8ヵ月在職しただけで,嘉吉3年(1443)7月,赤痢のために急死してしまいました。そのあとを継いだのが,義勝の弟で10歳の足利義政です。その義政を補佐したのが,16歳の管領・細川勝元でした。ですが16歳と10歳では,思うにまかせません。これを操っていたのが,義勝・義政の母である日野重子です。さらに政所長官の伊勢貞親が,義政を後見しました。
やがて義政は,日野重子や伊勢貞親から自立しますが,新たな取り巻きが現れます。義政の愛妾今参局(いままいりのつぼね)と,大納言の烏丸資任(からすまるすけとう)・有馬持家の三人です。それぞれ「ま」がつくところから,「三魔」と称されました。
三魔の中で最も嫌われたのが,お今と呼ばれた今参局です。才色兼備で,年少の義政の愛を一身にうけ,わがままなふるまいが多く,畠山持国と細川勝元が,彼女の追放を義政にせまったほどです。そのため処罰されかけますが,今後政務にはいっさい口出ししないことを条件に許されます。
その2年後の康正元年(1455)正月,お今は義政の子を生みます。このころから,また政治むきに口出しし始めました。日野富子が義政の正妻として足利家に輿入れしたのは,この年の八月下旬のことでした。しかし,愛妾今参局をはじめ,義政には何人もの側室がいて,富子の立場は微妙でした。
富子が義政の男子を生んだのは,長禄3年(1459)のことです。しかし男子はすぐに死んでしまいました。すると,赤子の死は,今参局がのろったからだという風評が立ちます。これを耳にした義政は,お今を琵琶湖の小島に流してしまいます。しかし富子の怒りは激しく,配所についたお今を殺してしまいました。二十年後,富子はお今のために神社を建立します。お今の亡霊に悩まされたからだといわれています。
ともあれ,お今がいなくなり,富子はファーストレディの地位を築いていきます。義政は従一位内大臣で右大将を兼ね,ぜいたくざんまいの生活を送ります。富子と共に,豪勢な物見遊山もたびたび催しています。また満開の桜のもとで盛大な宴を開き,黄金のハシで客人をもてなしたりもしました。さらに義政は,正倉院に秘蔵されていた名香「蘭奢待(らんじゃたい)」を切り取ったといいます。
義政がまさにわが世の春を謳歌していたころ,世の中には不思議な現象や天変地異が続きます。さて……。
嘉吉の乱
正長元年(1428)正月,足利義持は重病となりました。枕辺に集まった管領以下有力大名たちは,次期将軍をどうするのか義持の意見をうかがおうとします。しかし何も決めずに義持は亡くなってしまいました。そこで,管領の畠山満家・山名時煕(ときひろ)・三宝院満済らが相談し,結局はクジ引きで,義持の弟である青蓮院門跡(しょうれんいんもんぜき)義円を立てることに決します。義円は還俗(げんぞく)して義宣(のちに義教=よしのり)となって,室町幕府第6代将軍となりました。
しかし,そのころの世情はきわめて不安定でした。そのうえ,鎌倉公方の足利持氏が,義教の将軍就任に大いに不満を持っています。持氏は自らが将軍職につくことを強く望んでいました。当然のことながら,持氏は将軍義教と対立していきます。いっぽう,南朝の遺臣たちは,亀山天皇の皇子である小倉宮を将軍に擁立(ようりつ)しようと計っています。そして,この年(1428)の秋から翌年の春にかけて,未曽有(みぞう)の大一揆である「正長の土一揆」が起こることになるのです。
さて,将軍義教の治世は,室町時代を通じて将軍の権力が最も強かったときです。義教は専制的な強権をふるって,自分の意にそわない者たちを容赦なく処断しました。義教の将軍職に反対しつづけた鎌倉公方持氏に対しては,持氏と対立する関東管領の上杉憲実(のりざね)を支援して,永享11年(1439),ついに持氏を鎌倉に攻め滅ぼします。これが「永享の乱」です。このあと結城氏朝(ゆうきうじとも)が,持氏の遺児である安王と春王をたてて,義教に対抗します。しかし,幼い安王・春王も殺されて結城氏は討滅されてしまいました。嘉吉(かきつ)元年(1441)4月のことで,「結城合戦」といわれています。
義教は,京都の公家たちも容赦しませんでした。所領を没収されたり,あるいは配流(はいる)されたり,蟄居・籠居を命ぜられた者は70余人にのぼりました。さらに義教は,永享7年(1435)に比叡山延暦寺の根本中堂も焼き払ってしまいます。比叡山は,最澄(さいちょう)以来の,王城鎮護の法燈を伝える名刹ですが,義教にとっては関係ありません。自らの意にそわないからといって,焼打ちにしてしまったのです。
こうした専制的な強圧政策は,守護大名たちにも及びました。家督や所領を没収された守護大名は数多くいます。播磨・美作・備前三国の守護であった赤松満祐は,はじめは義教に重用されましたが,次第に遠ざけられます。いつ義教の矛先が自分に向けられるかわかりません。
嘉吉元年6月24日,満祐は,結城合戦勝利の賀と称して,京都の西洞院二条の赤松邸に義教を招きます。そこで猿楽の宴のさ中,義教を暗殺するのです。ただちに満祐は,本国の播磨に下り,足利直冬の孫である義尊を迎えてこれを奉じ,幕府に対抗する態勢を整えます。
7月に入るとすぐに赤松追討の軍が発せられます。一進一退の攻防がしばらく続きますが,8月も半ばを過ぎると,山名持豊(宗全)の軍勢が赤松勢の守りを崩していきます。そして9月10日,ついに満祐は,籠っていた山城の城中で自刃し,逃れた満祐の嫡男教康も捕えられて殺され,ここに赤松氏は滅亡しました。この一連の騒動が「嘉吉の乱」です。
正長の土一揆
上杉禅秀の乱が一段落したころ,諸国の農民の暮らしはどうだったのでしょうか。彼らは,自分たちの生活を守るために,はげしく戦っていました。ひとつは,入会地や用水の確保などをめぐる村同士や家同士の争い,もうひとつは過重な年貢に対する領主との戦いです。
領主との戦いもいろいろありました。まずは年貢を軽減してくれるよう嘆願する愁訴(しゅうそ),かなり強引な訴えである強訴(ごうそ),はては,領主と共倒れをも辞さない逃散(ちょうさん)などです。逃散は,耕地を放棄して他領へ逃亡することです。
生活苦にあえいでいたのは農民だけではありません。都市の市民も同様でした。そして,農民や市民を苦しめていたのは,領主からの租税の取り立てばかりではありませんでした。それにも増して苦しめられていたのは,土倉(どそう)・酒屋など高利貸しの存在です。
土倉は「とくら」ともいい,中世の高利貸し業者のことです。借金のかたで取り上げた物などを収納する土塗りの倉庫を建てていたので「土倉」と呼ばれました。その土倉が酒屋を兼ねている場合も,少なくありませんでした。酒屋で金を借りて酒を買い,高利の借金を取り立てられたのでは,世話はありません。しかし,我も我もと酒を飲み,あげくは借金に苦しめられるという民衆が,この時代には大変多くいました。
そして,借金を棒引きにせよという徳政一揆が起こることになります。借金に苦しんだ農民や市民たちが団結して,年貢のために領主へ抵抗するばかりではなく,土倉・酒屋などの高利貸しに対して,借金棒引きの徳政を要求して一揆を起こしたのです。この一揆には多くの下層武士たちも加わりました。
さて,正長(しょうちょう)元年(1428)は,前年から引きつづいて大雨にたたられ,作物ができませんでした。2年つづきの凶作です。そのうえ同年5月を中心に伝染病が大流行します。苦しんだあげく3日ほどで死に至るという恐ろしい病気で,「三日病」と呼ばれました。幕府の高官の中にも死者が出るなどして,社会不安が高まります。
またこの年の正月には将軍足利義持が死亡しますが,次の将軍が決まらず,候補者の中からクジ引きで決めようということになりました。その結果,義宣(よしのぶ。のちに義教<よしのり>と改名)が第6代将軍となり,4月に応永から正長と改元されました。さらに7月,称光天皇が崩御(ほうぎょ),後花園天皇に代わりました。
体制も何やらふらふらしています。こうした状況のもと,8月に近江の農民や地侍が,徳政を要求して蜂起します。その動きを待っていたかのように,京都周辺の土民(農民や地侍たち)も立ち上がり,さらに各地に徳政を求める一揆が波及していきました。これが土一揆(つちいっき。どいっき)です。
やがて土一揆は京都市内にも広がっていきました。さらに奈良でも土一揆が起こり,その一揆は,播磨(はりま。兵庫県)・丹波(たんば。京都府と兵庫県北部)から,伊賀・伊勢(ともに三重県)・吉野(奈良県)・紀伊(和歌山県)・和泉・河内・堺(いずれも大阪府)などに飛び火して,これまでにはない大規模な一揆となりました。これが「正長の土一揆」です。
上杉禅秀の乱
応永15年(1408)初夏,足利義満は伝染病にかかり,51歳で亡くなってしまいました。とはいえ,将軍の地位が揺らいだわけではありません。義満の死は,すでに足利義持(よしもち)が将軍になってから15年目のことでした。しかし,義満が生存中,義持の将軍職は名ばかりでした。ことごとく義満が政務を司り,しかも義満は,義持の弟の義嗣(よしつぐ)をことあるごとに可愛がり,義持を疎(うと)んじ続けました。
父義満の在世中は,冷たい仕打ちをされながら,口ごたえ一つ許されなかった義持でしたが,父が死ぬと,これまでのうっぷんをはらします。義満は生存中,死んだら「太上天皇」の称号を得るよう,いろいろ手を打っていたのですが,義持はその必要はなしとして称号を辞退します。また義満の正室北山院が病死したとき,義持が行った葬儀は,驚くほど簡素なものでした。さらに,両親が居住していた北山邸も,金閣など一,二の建物を残して,あとはみんな取り壊してしまいます。さらに,義満がすすめていた明(みん)との国交も,断絶させてしまうのです。
ところが,重臣たちが次第に義持を圧迫し始めます。暗君の暴走をゆるしているわけにはいきません。義持は,自分のワンマンが押し通せなくなると,深酒をしたりして,乱れた生活を送るようになります。 このころ関東では,上杉氏が何家かに分裂して,お互いに反目し始めます。大別して四流となりました。それぞれ鎌倉の地名をとって扇谷(おおぎがやつ)・託間(たくま)・犬懸(いぬがけ)・山内(やまのうち)と呼ばれることになります。
このうち犬懸上杉家と山内上杉家が,応永21年(1414)にはそれぞれ,上杉氏憲(うじのり=禅秀 ぜんしゅう)と上杉憲基(のりもと)の代となっていました。両家は深刻なにらみ合いを続けています。
応永22年,上杉禅秀の家臣の越幡(おばた)六郎が,鎌倉公方足利持氏の怒りにふれて,突然領地を没収されてしまいます。禅秀はこの処分に不満を持ち,何とか持氏をなだめようとしますが,持氏はがんとしてこれを聞き入れようとしません。ついに禅秀は,病気だといって引きこもってしまいますが,それがますます持氏を怒らせます。そこで,ついに禅秀は,関東管領の職を投げ出してしまいました。こうした関東の情勢に目をつけたのが,京都で不満をかこっていた足利義嗣です。
義嗣らの応援を得て,上杉禅秀が挙兵したのは応永23年(1416)1月2日のことです。不意をつかれた持氏は,ろくな防戦もできず,禅秀に鎌倉を奪われてしまいました。しかしすぐに,幕府の命令を受けた駿河守護の今川範政(のりまさ)と越後の守護上杉房方(ふさかた)の大軍が鎌倉を攻めます。結局上杉禅秀は,鎌倉雪ノ下の屋敷に籠り,一族42人,従者42人とともに自殺してしまいました。これが上杉禅秀の乱です。
日本国王となった足利義満
永和4年(天授元年=1378)・将軍足利義満は,京都の室町に,まばゆいばかりの新邸を築きました。庭には多くの花木が植えられ,四季それぞれに多くの花に彩られたので,人々はその邸を「花の御所」また「花亭」と呼びました。このとき義満は21歳,大いなる野望の出発点です。こののち義満は,室町時代最大にして最強の将軍として,幕政の頂点に君臨し,天皇さえもおびやかします。では,その道のりを辿(たど)ってみることにしましょう。
義満が揺るぎない権力者となるには,有力な守護大名たちを押さえることと,天皇の伝統的な権威を利用することです。義満は,着々と有力守護を統制していきますが,全国の6分の1の守護職を一族が握るという強大な勢力がありました。山名一族です。ですが義満は,山名家の内紛に乗じ,山名氏を滅ぼし,その支配地の多くを没収することに成功しました。明徳2年(元中8年=1391)のことで,これを明徳の乱といいます。
山名氏を何とか押さえつけた義満ですが,実はまだ,有力外様の大守護がおりました。大内義弘です。応永4年(1397),義満は京都北山の西園寺公経(きんつね)の廃邸を利用して大豪邸を営みます。その池のほとりに立てられた三層の舎利殿は,全てが金箔におおわれてまばゆく,金閣と称されまました。このとき,多くの守護大名たちが競って人夫を派遣し,名木や奇石を集めて,北山邸の建設につくします。しかし,大内義弘だけは,建設に協力しませんでした。
結局,両者は衝突することになります。応永6年(1399)9月,不吉の事変を告げる流星が,南の空に現れ,陰陽頭(おんみょうのかみ)土御門有世(つちみかどのありよ)の占いで,90日の兵乱ありと出ました。両軍の衝突があったのは,応永6年11月29日のことで,戦いは1ケ月間続きました。しかし大内義弘が討ち取られて,争乱は収まりました。これが応永の乱です。
こうして義満の専制化は,一応完成しました。しかし,どのようにして伝統的,絶対的な権威を身につけるか,また将軍としての地位をどのようにして保ち続けるのか,義満は案じます。じつは義満は,大内義弘に手をつけはじめる5年前,わずか9歳の義持(よしもち)に将軍職をゆずり,自らは太政大臣に就きます。ですが応永2年(1395)義満は太政大臣をあっさりやめて出家します。権力者であることをあきらめた訳ではありません。義満は,何と天皇位をうかがうのです。出家の身で天皇は無理ですが,義満は,ひたむきな愛情をそそいでいる二男の義嗣(よしつぐ)を天皇の位につけ,自らは太上天皇となって,将軍と天皇の実権を一手に握ろうとしたのです。応永15年(1408)3月8日,義満は北山邸に,後小松天皇を招きました。そして28日まで,数々の遊宴が繰り広げられたのです。
北山邸行幸の翌日25日,義嗣は何と内裏で親王元服に準じて元服します。義満の計画は着々と進行していました。ところが,元服式の翌々日,義満は流行病(はやりやまい)にかかり,社寺をあげての祈祷のかいもなく,5日6日,ついに亡くなりました。
義満は明国への国書に自ら「日本国王」と署名したほどで,まさにそれにふさわしい実力ぶりでしたが,もう一歩というところで,あっけなく世を去ったのでした。
南北朝合一と皇位継承
明徳3年(元中8年=1392年)閏10月5日,南朝の後亀山天皇から北朝の後小松天皇に三種の神器が渡され,南朝と北朝が合一されました。元弘元年(元徳3年=1331年)に後醍醐天皇が,三種の神器を持って京都から奈良へと逃れ,南北朝時代となってから61年目のことです。その間,たび重なる戦乱で,民衆は大いに苦しめられました。もとはといえば,天皇家内部の皇位継承をめぐる権力争いによるものです。それでは,少し歴史を遡って,その発端から見ていくことにしましょう。
後嵯峨天皇が子の後深草天皇に譲位したのは,寛元4年(1246年)のことです。このとき後深草は満3歳,当然後嵯峨上皇(後嵯峨院)が院政を布くことになりました。その後正元元年(1259年)後嵯峨院は,後深草を退位させ弟の亀山天皇を皇位に就けます。後深草天皇は17歳になっていましたが,院政を布くことはできません。父帝の後嵯峨院が,依然として院政を布いていたからです。
後深草上皇と亀山天皇の兄弟帝は反目し合うようになります。その後に続く皇統をどうするのか。その皇位継承をめぐる兄弟争いに割って入ったのが幕府です。幕府の総帥は執権北条長時です。
北条長時の斡旋によって,後深草上皇の系統と亀山天皇の系統が,交互に皇位に就くことになりました。後深草上皇の系統を持明院(じみょういん)統,亀山天皇の系統を大覚寺(だいがくじ)統といいます。しかし,この両統は,ことあるごとに対立し,のちの時代に至るまで尾を引くことになるのです。
すなわち,吉野に南朝を立てて,あくまでも幕府と対立した後醍醐天皇は大覚寺統で,幕府を後盾に京都にあった光厳・光明・後光厳らの天皇が持明院統です。
さて,61年ぶりに南北朝が合一したのには,わけがあります。足利義満という強大な将軍が登場し,乱世に終止符が打たれたからです。三種の神器の授受は,閏10月5日,土御門東洞院の皇居で,足利義満の命令のもと,執り行なわれました。
こうしてひとまず神器は北朝に引き渡されましたが,合併はあくまでも対当であり,双方共に,互格の勢力を持つはずでした。しかし実際は,南朝が北朝に吸収されてしまったのです。後亀山天皇に対する北朝の待遇はひどいもので,合体後1年間も,何の連絡もしませんでした。その間後亀山帝は大覚寺で静かな時を過ごしていたといいます。足利義満がこの天皇を天龍寺に招いて対面したのは,1年以上を経た明徳5年2月のことです。その月末,太上天皇の尊号が送られましたが,形式だけのものです。
こうして形ばかりの太上天皇となった後亀山帝は,嵯峨野の一隅で余生を送ることになります。ほとんど読書の日々で,学者の吉田兼敦を招いて『日本書紀』の講義を受けたりもしています。
ところで両統迭立(てつりつ)の問題はどうなったのでしょうか。約束からいえば,持明院統の後小松天皇の皇太子には,大覚寺統の皇子が立つべきです。しかし,足利義満の生前には,両統いずれからの立太子もありませんでした。結局,義満の死後4年を経て,応永19年(1412年)に後小松天皇の子である称光天皇が即位しました。この後は北朝系が続き,結局南朝は滅んでしまったのです。しかし,南朝と北朝のどちらが正しいのかという論争は,近代に至るまで尾を引くことになります。