ちはやぶる日本史

序文

プロローグ

 私たちは過去から未来に向かって,今という時を生きています。ただ漠然と生きているわけではなく,よりよき未来を求めて考えながら歩いています。ですけれど,未来を考えるためには,今を知ることが必要です。そして,今を知るためには過去すなわち歴史を知らなければなりません。今という時は,先人たちが営々と築いてきた,そして今も築き続けている歴史の上に成り立っているからです。
 「歴史を知らずして今を語ることなかれ。今を判らずして未来を語ることなかれ」
です。
 それでは,今を知るために,そして未来を語るために歴史の森へ分け入ってみることにしましょう。とはいえ,これから語ろうとするのは,小むずかしい学術的な歴史ではありません。教科書などで語られる歴史とは一味ちがった「へえー。そうなの」という,おもしろく興味深い話です。どうぞ気軽におつき合いください。

高橋ちはや

著者紹介

高橋千劔破(たかはし・ちはや)
 1943年東京生まれ。立教大学日本文学科卒業後,人物往来社入社。 月刊『歴史読本』編集長,同社取締役編集局長を経て,執筆活動に入る。 2001年,『花鳥風月の日本史』(河出文庫)で尾崎秀樹記念「大衆文学研究賞」受賞。 著書に『歴史を動かした女たち』『歴史を動かした男たち』(中公文庫), 『江戸の旅人』(集英社文庫),『名山の日本史』『名山の文化史』『名山の民族史』 『江戸の食彩 春夏秋冬』(河出書房新社)など多数。日本ペンクラブ理事。

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古河公方と堀越公方

 嘉吉(かきつ)の乱が起こったのは,嘉吉元年(1441)6月のことです。播磨の守護赤松満祐(みつすけ)が,足利6代将軍義教(よしのり)を殺します。将軍に殺されることをおそれた満祐が,先手を打って将軍を殺したのですが,結局満祐も,細川・山名氏らの幕府軍に攻められて,一族と共に自殺させられてしまいました。これが,嘉吉の乱です。
 その1ヵ月前,すなわち嘉吉元年5月,結城(ゆうき)合戦で捕えられた足利持氏の遺児3人のうち,安王と春王の少年二人は,京都に護送される途中,義教の命令で殺されてしまいます。ところが3人目の永寿王(えいじゅおう)だけは殺されずにすみます。というのは,京都で嘉吉の乱が起こったために,永寿王の処置にかかわっているひまがなかったからです。こうして永寿王は細川持之(もちゆき)のもとで育ちます。彼が,後の古河公方足利成氏(しげうじ)です。
 細川持之は嘉吉2年に亡くなりましたが,嘉吉の乱後,関東の政情は安定しません。何とか,信頼できる鎌倉公方を置く必要がありました。そこで持之は,その大任を永寿王に担わせる決心をして,亡くなったのでした。
 しかし,永寿王が鎌倉にやって来たのは,持氏の死後11年目のことでした。宝徳元年(1449)の8月に京都を発ち,翌月に鎌倉に到着したのです。関東はここに,やっと新公方を迎えたのでした。やがて永寿王は元服し,将軍足利義成(よししげ。義政の初名)の一字をもらって,成氏と名乗ったのです。
 関東の諸氏の多くは,新公方を大歓迎します。結城氏,里見氏,千葉氏,宇都宮氏などです。成氏は,万事これらの諸氏に相談しました。ところが,山内(やまのうち)と扇谷(おおぎがやつ)の両上杉氏は,面白くありません。両上杉は,関東管領として公方を補佐してきた伝統と誇りを持っています。しかも,成氏の相談相手はいずれも,かつての両上杉の敵です。
 こうしたことから,足利成氏と両上杉の間は,次第に険悪になっていき,ついには戦い始めます。幕府の関東安定の意図は,もろくも崩れてしまったのです。結局幕府は上杉家に加担し,駿河の守護今川範忠(のりただ)に,成氏討伐の命令を下します。今川軍が鎌倉に攻め入ったので,成氏は下総(しもうさ。茨城県)の古河に逃れ,範忠は鎌倉を焼き払って帰国しました。康正元年(1455)6月のことです。
 こうして関東の地は,成氏対両上杉の戦場となりました。幕府は最後の手段として,将軍義政の弟政知(まさとも)を派遣します。政知は廃虚となった鎌倉を避け,伊豆の堀越(ほりこし)に居館を構えました。これが堀越公方です。政知は成氏を討ちますが,勝敗は決せず,関東は,いつ終わるとも知れぬ長期戦の地となったのでした。

将軍・管領の泥仕合い

 永正4年(1507)6月,突然,権勢並ぶ者のなかった細川政元が殺されてしまいました。殺したのは政元の養子の一人細川澄之(すみゆき)。澄之の実父は九条政基です。
 澄之は,ついでに,政元の養子で義理の兄に当たる澄元(すみもと)まで殺そうとします。しかし危機を察知した澄元は,近江国の甲賀郡へ難を逃がれて事無(ことな)きを得ました。ともあれ澄之は,細川政元を除き,強引に細川家の嫡流(ちゃくりゅう)を継いだのでした。ところが間もなく澄之は,一族の細川高国(たかくに)に殺されてしまいます。
 こうしたごたごたがあって,細川政元のあと目を継いだのは,近江から京都に帰った澄元でした。
 いっぽう大内義興(よしおき)の庇護下にあった前将軍足利義稙(よしたね)も,将軍復帰の機会を狙っていました。そこへ,細川家内部が,政元が殺されて,あと目をめぐって揉めているという情報が入ります。好機到来とばかり,大内義興は足利義稙をいただいて軍を起こします。そのころ細川高国は細川澄元と揉めて伊賀に引き上げていましたが,大内義興の軍が義稙を立てて堺に上陸したことを聞いて,これを機に京都に攻め上ろうとしました。そこで将軍義澄と細川澄元らは,近江へと逃げます。
 いっぽう伊賀で機会を狙っていた高国は,堺で義稙を出迎えます。義稙はなんと15年ぶりに京都に戻ったのでした。そして,義稙は将軍の位にも返り咲きます。いっぽう細川高国は,細川宗家を継いで,管領職に任命されます。時に,永正5年の夏のことでした。
 しかし,ほどなくしてまたも争いが起こります。永正8年,細川澄元が,細川高国を追い出すための軍を上げます。播磨の守護赤松氏らに助けられた澄元ですが,高国は大内義興と共に京都船岡山で戦い,大勝利を収めます。澄元が再び京都に攻め入ったのは,9年後の永正17年(1520)のこと。高国はいったん近江に落ちますが,軍を立て直して京都に攻め帰り,澄元の軍を阿波に追いました。間もなく澄元は失意のうちに死亡し,前将軍義澄は船岡山の決戦直前に死んでしまいました。
 こうして将軍位と管領職をめぐる争いは,足利義澄・細川澄元の死によって,30年ぶりに落ちついたのでした。天下は,管領細川高国のものとなります。しかしそうなるとまた,高国と将軍義稙が権威を張り合うようになります。すると義稙は将軍職を放棄して,淡路に引き込もってしまいました。すると高国は,かつては敵であった前将軍義澄の遺児亀王丸を将軍につけます。これが12代足利将軍義晴です。
 このように,将軍家と細川家の入り乱れた家督争いは,まさに泥仕合いの様相を見せて,収拾がつかなくなります。義晴は将軍とはいえ,まったくの傀儡(かいらい)にすぎません。争いは,まだまだ続くことになります。

室町幕府と細川政元

 室町第9代将軍足利義尚(よしひさ)は,延徳元年(1489)三月に,六角氏退治のため出陣中の近江で,ぽっくりと死んでしまいます。まだ24歳でした。
 足利義政の弟義視(よしみ)は,このことを逃亡中の美濃で知り,子供の義稙(よしたね)を連れて,急いで上京して来ました。我が子義稙に,第10代の将軍職を継がせるためです。前から義視を目の敵にしていた日野富子は,これに大反対ですが,翌年正月に義政が亡くなって,とりあえず義視が第10代将軍につきます。ところが,義視もその翌年に亡くなり,将軍義稙が一人残されることになってしまいました。
 そのころ都(京都)で,もっとも権勢をふるっていたのが,細川政元です。政元は細川勝元の子です。管領となり,摂津(大阪府)と丹波(京都府)の守護を兼ねていたのは,親の七光りによるものです。政元は初め,神妙に若い将軍義稙を補佐していたのですが,将軍が長じてくると,二人は衝突するようになります。
 政元は,堀越公方足利政知(まさとも)の子で僧になっていた清晃(せいこう)を還俗(げんぞく)させ,足利義澄(よしずみ)として,将軍にしようとします。義稙はこれを知って,河内の守護畠山政長に庇護(ひご)を求めました。
 政元にとっては都合の悪いことになりました。政長が義稙をかついで,管領の地位を奪いに来るのが目に見えていたからです。そこを政元はすかさず,赤松政則に命じ,政長を攻めて自殺させ,義稙を京都に連れ戻して,臣下の邸に幽閉したのでした。
 こうして政元は,義澄を将軍にまつり上げ,思うままに力を振るうことになります。将軍義澄は,自らの力の無さをなげき,ひそかに,等持寺にある先祖の足利尊氏の木像に,将軍の威令を取り戻すための経文をささげたりしました。
 いっぽう,政元に押し込められていた前将軍の義稙も,脱出して越中の神保長政(じんぼながまさ)を頼ります。そこで,政元打倒の兵を諸国につのります。自分こそが本当の将軍であると。義稙は,越前で打倒政元の兵を挙げ,近江に攻め入りました。しかし逆に政元の軍に敗れてしまいます。そこで,中国地方の大勢力である周防(すおう)の守護大内義興(よしおき)の懐に飛び込んだのでした。
 いっぽう京都では,政元の専断ぶりが目にあまるようになります。自分でかつぎ出した将軍義澄とも,しばしば衝突しました。それだけではなく,家臣たちからさえ,うらみを買うようになりました。政元が手足とたのんだ家臣の薬師寺元一(もとかず)が,政元の養子の澄元(すみもと)をたてて反乱を起こしたのは,永正元年(1504)9月のことです。決戦には至らず和睦しましたが,今度は政元のもう一人の養子澄之(すみゆき)が反乱を起こします。その結果,養父政元を攻め殺してしまいました。
 権勢並ぶ者のなかった政元も,結局はあっけない最期をとげたのでした。

山城国一揆

 「国一揆」は,15世紀(室町時代)に,近畿地方を中心に起こった国人(国衆)・土豪層による武装蜂起をいいます。国人というのは,国衙(こくが)の住人たちで,国衙は,律令制下の諸国の政庁をいいます。
 文明17年(1485),南山城の久世(くぜ)・綴喜(つづき)・相楽(さがら)3郡で起きた大規模な国一揆が,「山城国一揆」です。この年の12月11日,上は60歳から下は15,6歳までの国人が集会し,畠山両軍に対する都からの撤退を要求しました。畠山政長と義就(よしなり)の両軍は,応仁の乱以来,延々と戦い続けていたのです。20年に及ぶ戦いで,都は荒れ果て,それでもなお,いつ果てるとも判らない争いが続いていました。その争いに,ついに都の住民たちが立ち上がったのです。
 彼らは,両畠山軍に対して断固撤退を要求し,退陣しない場合は国衆として攻撃を加えるという強い態度で交渉に臨んだのです。そしてついに,両軍を撤退させることに成功したのでした。
 以後,山城国の支配は,36人衆といわれる国衆が中心となって行われることになります。この組織を「惣国」といいます。「惣国」による自治は,8年間続きました。その間,幕府が,南山城の支配を放棄していたわけではありません。
 幕府は,文明18年(1486)5月と,長享元年(1487)11月に,伊勢貞陸(さだみち)を山城国守護職に補任(ぶにん)しています。しかし,いずれも貞陸は南山城に入部することができませんでした。「惣国」による自治体制が強かったからです。さらに明応2年(1493)にも,幕府は,河内国出陣の準備の中で,再び伊勢貞陸を山城国守護に補任します。しかしやはりこのときも,貞陸は,南山城に入部することができませんでした。
 そこで幕府は,同年(明応2年=1493)8月,山城8郡の諸侍中に宛てて,守護である伊勢貞陸の下知に応ずることを命じます。これを受けて山城の国人衆は,申し合わせた結果,同月(明応2年8月)18日に,伊勢貞陸の支配を認めることにしたのです。しかしその後も,貞陸の入部に反対する声は強く,結局貞陸は,山城国に入部することができませんでした。
 伊勢貞陸は,山城国に入れないことがわかると,大和の豪族古市澄胤(ふるいちすみたね)に,綴喜・相楽2郡の支配をまかせます。当初から南山城を狙っていた古市は,さっそく軍勢を率いて山城へと攻め入ります。山城の武士たちは稲屋妻(いなやつま)城に立て籠り,抵抗を試みますが,すでに内部分裂を起こしており,結局落城してしまいます。古市澄胤は,戦後すぐに大和へ引き上げますが,こののち南山城の2郡は,古市の代官井上氏によって支配されることになります。
 ともあれ山城国一揆が,小勢力による一時的な連合とはいえ,8年間,南山城に自治政権をつくることができたのは,農民や地侍たちの強いバックアップがあったからに他なりません。彼らは戦争に反対し,自分たちの生活を自分たちの手で守ろうとしたのです。

応仁・文明の乱

  応仁・文明の乱は,応仁元年(1467)に,京都で起こりました。はじめは畠山家の内紛です。畠山政長は細川勝元の援助を受け,畠山義就(よしなり)は山名宗全を後ろ楯にします。大乱の火ぶたが切って落とされたのは,応仁元年5月26日のことで,両軍合わせて25万人もの兵が京都でぶつかり合ったのです。
 この大乱が終わりを告げたのは,文明9年(1477)のことです。その10年間で京都はすっかり焼けつくされ,日本各地にも波及して各地もすっかり荒れてしまいました。その間のことは,『「室町時代から戦国時代へ」⑦応仁の乱へ』に,すでに記しましたので,憶えているでしょうか。
 乱が収束した文明9年,興福寺大乗院門跡(もんぜき)の尋尊(じんそん)は,大乱によって一変した諸国の状況を,つぎのように区分けして記録しました。
 第1は,幕府の命令にことごとく従わず,年貢をいっこうに進上しない国々。
 第2は,国中でなお戦乱が続いていて,年貢進上どころではない国々。
 第3は,守護は一応下知(げち)に応ずるものの,守護代以下各国の者共が従おうとしない国々。
 大別すると諸国はこの三つのいずれかに属する,というのです。しかし尋尊は,結局は,「日本国は悉(ことごと)く以(も)って御下知に応ぜず,とも記しています。
 実際に応仁・文明の乱後,文明17年の山城国一揆(やましろのくにいっき。次回に詳述)につづいて,長享2年(1488)には,加賀の一向一揆が守護の富樫政親(とがしまさちか)を倒し,門徒たちが国を治める「門徒持ち」の国をつくるありさまでした。権力は,将軍から守護へ,守護から守護代そして国人へ,さらに地侍や民衆へと,しだいに下降分散していき,下剋上の社会状況は深まっていったのでした。
 ともあれ,応仁・文明の乱が収まったことで,諸国の武士たちもぞくぞくと引き上げていき,11年目にしてやっと,京都の町にも平和がもどってきました。京都の住人である公家たちも,ほっと胸をなでおろしたのでした。とはいえ,京都は大半が焼け野原となっていました。平和がもどれば,町人や職人たちももどってきて,京都の町は,急速に復興していきます。しかし,幕府の屋台骨は,すっかりゆるんでしまいました。
 この戦争は,中央での家督争いに端を発したものですが,中味は,地方武士の地盤固めとなり,また諸国の勢力の争いに変わっていったのです。そして,諸国の武士たちにとっては,幕府も守護も,あてにならない存在となったのでした。幕府もそのことはわかっていたのですが,もはや権力をたてなおす実力も気力も失われていました。
 それでも幕府は,なんとかして勢力をもとにもどそうと,はかない努力をつづけます。それが将軍義尚(よしひさ)の六角(ろっかく)征伐です。義尚は近江国の鉤(まがり。現在の滋賀県栗東市)に陣をしきますが,六角高頼を甲賀郡の山中に追ったものの,延徳元年(1489)に陣中で没してしまいました。さて,幕府はどうなるのでしょうか…。

御伽草子の隆盛と庶民文化

 15世紀は,庶民が歴史の表舞台に登場した時代です。それまで語り継がれてきた物語が,平易な形で読み物にまとめられるようになりました。それが「御伽草子」です。わかりやすくいうなら,15世紀すなわち室町時代後期の庶民文学の典型が,「御伽草子」です。私たちが知っている,いわゆるおとぎ話が少なくありません。
 江戸時代の17世紀後半,絵入刊本として京都で刊行されますが,さらに18世紀前半の享保年間(1716~36)大坂の本屋渋川清右衛門が23巻の絵入刊本「御伽文庫」として刊行します。これが,一般的に「御伽草子」として今に知られているもので,以下の23編です。「文正(ぶんしょう)草子」「鉢かづき」「小町草紙」「御曹子島渡」「唐紙さうし」「木幡狐(こわたぎつね)」「七草草紙」「猿源氏草紙」「物くさ太郎」「さざれ石」「蛤(はまぐり)の草紙」「小敦盛(こあつもり)」「二十四考」「梵天国」「のせ猿さうし」「猫の草子」「浜出(はまいで)草紙」「和泉式部(いずみしきぶ)」「一寸法師」「さいき」「浦島太郎」「横笛草紙」「酒呑(しゅてん)童子」。
 現在私たちが知っている話も少なくありません。このほかにも異類物として,「鼠の草子」「雀の発心(ほっしん)」」「俵藤太」「土蜘蛛(つちぐも)草紙」など,私たちが知っている昔話が数多くあります。
 では,いくつかの物語の内容を紹介することにしましょう。
 『文正草子』は,常陸国の鹿島大明神の宮司の召し使いであった文正という男の話。召し使いにすぎなかった文正は,塩焼きで大変な長者になります。二人の娘のうちの一人は天皇の女御(にょうご)に,一人は関白の息子の妻となり,自分自身も大納言となって富み栄えます。『一寸法師』は,摂津国の名もない老夫婦の間に生まれた小人が,上洛し,苦労の末に打出の小槌を手に入れて大きくなり,三条宰相の姫君を妻にし,金銀財宝も手に入れて堀河少将にまで出世する話です。また,『もの草太郎』は,信濃国筑摩郡あたらし郷に住んでいた無精者。人にだまされて上洛し,苦労の末に信濃中将となり,美女を妻に,莫大な財産を得て,故郷に錦を飾ります。そして120歳という長寿をまっとうする,という話です。
 いずれも,普通の庶民,それも他人に劣る者が京都に上り,貴族の仲間になって長者になるという共通したパターンをもっています。いうまでもなく,当時の庶民の夢を物語に託しているのです。いや,15,6世紀の時代,庶民の出世譚はまったくの夢ではなかったといえます。努力次第で,あるいは運次第で庶民から長者になるという可能性がなきにしもあらず,といった時代でした。

猿楽能と音阿弥と能面

 応仁の乱を三年後にひかえた寛正5年(1464)4月,京都勧進猿楽能が,京都の糺(ただす)河原で開かれました。桟敷(さじき)には,将軍足利義政と夫人の日野富子,山名宗全や細川勝元ら錚々たる者たちや諸大名,また一般の見物桟敷や立ち見席まで多くの人で埋まりました。
 4月5日の初日,能の出し物が次々に進み,その合い間には狂言が演じられていきます。やがて番組は「三井寺」にいたり,名人音阿弥(おんあみ)らの芸が観衆の心をとらえます。内容は次のようなものです。
 「京都の清水観音に,一人の狂女がぬかずいていました。彼女は一子千満(せんまん)を人さらいにさらわれて気を狂わせてしまうが,なお子供の行方を追っています。清水観音にひたむきに祈る彼女に,三井寺に行けばさがす子に会える,という霊夢がありました。彼女は狂った心のまま,よろこび勇んで三井寺へと向かいます。すると三井寺では一人の僧が,稚子(ちご)を連れて十五夜の月を眺めていました。彼女は月光と鐘(かね)に魅せられ,狂ったように鐘を打ち鳴らし続けます。僧は止めようとしますが彼女は聞き入れず,笑い興じて鐘を打ちつづけました。かたわらの稚子は,その狂女が自分の母であると気づきます。稚子は千満でした。やがて二人は抱き合って泣き続けます。やがて正気にもどった母は,千満とともに故郷に帰り,やがてその家は富み栄えたということです」
 こうした能楽の世界は,観阿弥なきあと音阿弥らによって興隆します。ことに世阿弥の女婿である禅竹らによって栄えました。しかし,多くの名手や作家を生みながら,応仁の乱を境に能楽は一時没落していきます。幕府の権威が失墜し,最大の保護者を失ったからですが,しかし能楽は,大名や武士,一般庶民の広い支持を得て復活していきます。
 能と能との幕間に演ぜられる狂言は,初期猿楽の滑稽,ユーモアを伝えるもので,民衆に受け入れられていきます。勧進猿楽に群衆した民衆にとって,能よりもむしろ狂言の方が魅力であったと思われます。
 ともあれ狂言が庶民に選ばれるようになった根底には,南北朝期以来の民衆の台頭と,応仁の乱のころから一段と高まった下剋上(げこくじょう)の風潮にあることは否定できません。
 また,能面が能楽で果たした役割は,大きいものでした。滑稽やユーモアを表現した狂言の面も同様です。いま私たちが見ても,傑作は趣が少なくありません。

連歌の隆盛と歌人たち

 茶道や華道と共に盛んになった知的遊戯に,連歌(れんが)の会があります。庚申待(こうしんまち)の夜など,夜を徹して行われました。宮中でもしばしば行われましたが,臨時に開かれる連歌の会は,もっと多く,公家が三人寄れば,もう連歌です。
 連歌が,公家ら貴族の遊びであったかというと,決してそんなことはありません。武家や僧侶,商人や農民ら一般市民までが連歌に熱中しました。ふつう二,三人から七,八人が一組となって開きます。主催者や身分上位の者が,まずは五七五の発句をつけます。それに対して次の者が七七と下の句をつけ,その下の句に対して前の句とは違う五七五をつける,というように,限りなく句が続いていき,途中で思わぬ名句ができたりします。連句に当たっての幾つかのルールはありますが,基本的には,上の句と下の句を読み合うだけの単純なゲームです。勝ち負けがあるわけではなく,点数がつくわけでもない。それが夜を徹するほどに熱中する遊びなのでしょうか。いやいや,これがなかなかにおもしろいのです。
 筆者は,三十年ほど前,連歌に夢中になったことがあります。仲間は作家や編集者の探鳥グループです。眉村卓さんや下重暁子さんもいました。あちこちに,よく泊りがけで鳥を見に行きましたが,夜,皆で連歌を楽しみました。皆といっても五,六人のことが多く,連歌にはちょうどいい。こまかいルールは無視して,ともかく句をつないでいくのですが,これがなかなかおもしろいのです。おもわず夜ふかしをして,翌朝つい寝坊したりしました。
 さて,歴史に話を戻しましょう。文明13年(1481)2月15日,庚申の日,宮中です。庚申待を仰せつかった三条西実隆(さんじょうにし さねたか)と中御門宣胤(なかみかど のぶたね)が早々に参内(さんだい)しました。この夜は,百句連歌の会を催すことになっていました。しばらくすると大納言高清が参内しましたので,さっそく天皇(後土御門=ごつちみかど)の発句で連歌が始まりました。そうこうするうちに,中院一位(なかのいん いちい),勧修寺(かじゅうじ)大納言,姉小路(あねがこうじ)新宰相,甘露寺(かんろじ)元長,菅原在数(ありかず),源富仲,民部卿言国(みんぶきょう ときくに)らがそろい,百句連歌が始まりました。新ためて中院一位の発句「けふの名は夜まで花の朝哉(あしたかな)」で始まり,途中苦吟しているうちに夜明けとなり,予定の百句まで進まずに,五十句でお開きになって,庚申待も無事に終わったのでした。
 連歌はこうした暇つぶしや遊びのため,ごく気楽に随時行われました。文明18年(1486)11月25日は,宮中で初めて催された「月次(つきなみ)連歌会」で,「いろは連歌」でした。まずは発句が「いつれみん松と竹との雪の庭」,脇句(わきく。第二句)が「ろうにさむけき月のあさあけ」,次句が「はるかにものそめは四方の空晴て」という具合で,それぞれの句の頭が「いろは」になって続きます。
 このころ,連歌の宗匠たちが登場してきます。宗祇(そうぎ),肖柏(しょうはく),宗砌(そうぜい),宗長(そうちょう)らです。

花道の成立と池坊専慶

 東山文化で,茶の湯と並んで成立したものに「花道」があります。花を飾る文化は,奈良時代からありました。仏教伝来に伴い,仏前に花を供える「供花(くげ)」です。
 鎌倉時代になると,花瓶に花を立てる「立て花」が現れます。やがて寺院の僧侶や時衆の僧たちのなかで,立て花に長じた者たちが現れ,家業とするようになります。池坊(いけのぼう)などです。
 池坊というのは,本来は京都の六角堂(頂法寺=ちょうほうじ)の塔頭(たっちゅう)の名です。この池坊の執行(しぎょう)であった専慶(せんけい)は,立て花をよくし,長禄~寛正(1457~66)のころ,同朋衆(どうぼうしゅう)として将軍足利義政に仕えました。やがて天文年間(1532~55)に至って,池坊専応(せんおう)が立花(りっか)を大成し,池坊は花道の家元として現代まで続くことになります。
 室町時代,立て花を盛行させたのは,お盆の行事である七夕(たなばた)の花会(はなえ)です。この日,公家や有力な地下人(じげにん)たちは,花座敷と呼ばれる有力貴族の家に,花瓶と草花を持ち寄りました。この時代の花は野の花です。花座敷では,和歌や連歌や茶の湯の会などが行われ,立てられた花と花瓶は,人びとに鑑賞されました。しかしこの時代の立て花は,花よりもむしろ豪華な花瓶の方に関心が強かったようです。
 応仁の乱のころ,殿中の連歌会などでは,豪壮な花が立てられたといいます。立派な花瓶に花々を大きく盛り立てたのでしょう。寛正3年(1462)二月,池坊専慶は,ばさら大名佐々木道誉(どうよ)の息子佐々木高秀に招かれて,金の花瓶に草花を数十枝立てたので,洛中の好事者たちが競って見物したといいます。またこの年の十月,同じく高秀が専慶に菊を挿させたところ,諸僧は皆その妙なる様(さま)に感嘆したということです。
 豪華に花を飾るという文化とは別に,ささやかに部屋の一隅を飾る文化も生じます。これは,書院造が発達し,床の間や違い棚などに花を立てるようになったからです。
 書院の立て花の名手とされたのが立阿弥(りゅうあみ)です。代々立阿弥を称しましたが,足利義政の時代の立阿弥が,もっとも著名です。また相阿弥は,『花譜(花伝書)』を著わしたことで有名です。そして,池坊専慶の登場となるわけです。
 立て花が立花といわれる芸術に発展し,ほぼ完成したのは,安土桃山時代。さらに江戸時代の初期,立て花を好んだ後水尾天皇の庇護のもとに,池坊専好(二代目)によって完成されたといわれます。
 こうした立て花に対して,花道にはもう一つの系統があります。室町後期,形式を定めず自由な形で花を飾る「抛入花(なげいればな)」が登場し,安土桃山時代に茶の湯と結びついて,生け花となっていくのです。茶会の席にさり気なく飾る花,形式を定めず自由に生ける「茶花」は,千利休によって確かな地位を得ます。
 やがて江戸時代の元禄年間に至り,町人の間にも立て花と共に茶の湯が流行し,形式にとらわれず自由な抛入花である茶花が,茶席と切り離されて,日常の座敷を飾る生け花として独立していくのです。そして江戸中期以降,多くの流派が成立して花道(華道)として定着していきました。

喫茶の歴史と村田珠光

 喫茶の歴史は奈良時代にはじまります。大和の室生寺や般若寺の近くで,奈良時代から茶が栽培されていたことが,知られています。しかし,平安時代には,喫茶の風習はほとんど見当たりません。喫茶が復活したのは鎌倉時代で,栄西(ようさい)が「喫茶養生記」を著しています。ですが同書は,タイトルからも判る通り,茶を医薬用として,疲労回復や眠気ざましに用いることを記したものです。京都の栂尾(とがのお)は銘茶の産地として有名ですが,栄西が宋から持ってきた茶の種を,明恵(みょうえ)上人が植えたのに始まるといわれています。
 やがて茶畑は各地に広がっていき,室町時代になると,盛んに茶会が開かれるようになります。また茶を飲んで品種や産地を当てる遊びが流行(はや)ったりします。茶寄合は華美になり,酒肴が饗(もてな)され,歌舞音曲がついたりしました。およそ風情とは縁遠いものでした。
 足利義政は,同朋衆の能阿弥(のうあみ)たちと,静かな茶会をあみ出します。書院で,いろいろな芸術品を鑑賞しながら,茶を飲み合うのです。やがて農村や庶民の間にも簡素な茶会が流行っていきます。こうした茶会にヒントを得て,新しい茶道を開いたのが,村田珠光(じゅこう)です。
 珠光は,応永29年(1422),大和国(奈良県)に生まれました。若いとき,奈良興福寺の末寺である称名寺に入りましたが,茶を好み,闘茶(とうちゃ=賭け茶)に夢中になって寺を追われてしまいます。その後放浪のすえ,京都大徳寺の真珠庵に落ちつき,一休宗純と知り合い,一休のもとで参禅するようになります。そして,禅院での茶湯(ちゃとう)の所作から,点茶の本意を悟ったといいます。もっともこの所伝は,後世の潤色であろうといわれています。
 珠光は,農民のあいだに広まっていた簡素な茶会をヒントに,書院の茶室を屏風で仕切ってせまくします。さらに後には,四畳半ひと間の田舎家に似せた茶室を作り,そこで茶を点てました。使用する茶道具も,宋で作られた名品などは使用せず,ごく普通の茶器を用い,部屋の飾りもできるだけ簡素にし,作法も簡略化しました。精神的な深みと,簡素のなかのささやかな美を,モットーとしたのです。「素につき,我執を去って茶に徹する,それが極意だ」と考えたのです。
 こうした珠光の茶の湯は,京都の下京に住んでいた息子の宗珠によって,さらに洗練され,やがて千利休らのわび茶につながっていきます。ともあれ,村田珠光は,茶を点てて飲むという一連の所作を,茶道という一つの芸道に育て上げたのでした。