永禄3年5月19日,西暦に換算するならば1560年6月22日,歴史上忘れることのできない大事件が起こりました。駿河・遠江(とおとうみ)の守護大名で,天下人にもなり得た今川義元が,上洛の途次,織田信長の奇襲を受けて殺されたのです。この時点で信長は,まだほとんど無名の存在でした。しかし,以後歴史は,信長を中心に動くことになります。
今川義元は,まず三河を掌中に収めて,ついで北条氏・武田氏と三国同盟を結び,西上を目指していきます。永禄元年(1558)ごろから,まずは尾張への侵入を開始します。尾張は織田信長の領地です。義元は,笠寺(かさでら)・鳴海(なるみ)・品野(しなの)・大高(おおだか)を前線基地としました。信長もまた城塞を築き防備を固めました。とはいえ,尾張の信長軍は,家臣団の統制も十分ではなく,守勢でした。
そしてついに義元は,5月12日,上洛の軍を起こし,駿河府中を出陣したのでした。軍勢は4万とも2万5千とも(あるいは1万とも)いいますが,ともあれ1万としても大軍です。17日には,三河の池鯉鮒(ちりふ)に陣し,さらに三河・尾張の国境に進出しました。そして18日,鷲津(わしづ)・丸根を攻撃すると共に,徳川家康に対して,大高城への兵糧入れを命じました。19日,義元自らは本隊を率いて桶狭間方面に進み,桶狭間の北約2キロの田楽狭間(でんがくはざま)に陣取ったのでした。
いっぽう信長は,清州城で宿老たちと会議を開いていました。この事態にどう対処するか。宿老たちの意見の多くは,守りを固めての籠城戦でした。しかし信長は,宿老たちの意見を斥け,野戦に決し,18日深夜,僅かの手兵を率いて出陣したのでした。翌19日,丸根・鷲津の陥落を知った信長は,善照寺(ぜんしょうじ)の砦に2千の兵を集結させました。さらに相原(あいばら)方面に進出しました。ここで信長は,義元の本隊が,田楽狭間で休止しているという情報を得たのでした。
桶狭間一帯は丘陵地帯です。ゆるやかな起伏に富み,隘路(あいろ)が続きます。大軍は伸び切り義元の本陣も大した人数ではありません。信長は,ただちに襲撃を決意しました。襲うなら今しかないと。天が信長に味方してくれました。折から驟雨(しゅうう)となるのです。どしゃ降りの雨が,甲冑(かっちゅう)の音や馬の声を消してくれました。信長軍は,その驟雨の中を,今川軍に察知されることなく,義元の本営に迫ることができたのです。そして,雨が止みます。
雨が止んでほっとした瞬間,義元の本隊は大混乱となりました。信長軍が急襲したからです。今川軍は大混乱となり,3千に及ぶ兵を打ち取られて敗走を余儀なくされました。そして,今川義元もまた,信長軍の一兵卒毛利新介に討ち取られたのです。
この戦いは,典型的な奇襲戦ですが,たまたま運がよくて信長軍が勝利したわけではありません。地型も,梅雨時の気象条件も,おそらく信長は熟知していたにちがいありません。まさに信長は,勝つべくして勝ったのでした。
序文
プロローグ
私たちは過去から未来に向かって,今という時を生きています。ただ漠然と生きているわけではなく,よりよき未来を求めて考えながら歩いています。ですけれど,未来を考えるためには,今を知ることが必要です。そして,今を知るためには過去すなわち歴史を知らなければなりません。今という時は,先人たちが営々と築いてきた,そして今も築き続けている歴史の上に成り立っているからです。
「歴史を知らずして今を語ることなかれ。今を判らずして未来を語ることなかれ」
です。
それでは,今を知るために,そして未来を語るために歴史の森へ分け入ってみることにしましょう。とはいえ,これから語ろうとするのは,小むずかしい学術的な歴史ではありません。教科書などで語られる歴史とは一味ちがった「へえー。そうなの」という,おもしろく興味深い話です。どうぞ気軽におつき合いください。
高橋ちはや
著者紹介
高橋千劔破(たかはし・ちはや)
1943年東京生まれ。立教大学日本文学科卒業後,人物往来社入社。 月刊『歴史読本』編集長,同社取締役編集局長を経て,執筆活動に入る。 2001年,『花鳥風月の日本史』(河出文庫)で尾崎秀樹記念「大衆文学研究賞」受賞。 著書に『歴史を動かした女たち』『歴史を動かした男たち』(中公文庫), 『江戸の旅人』(集英社文庫),『名山の日本史』『名山の文化史』『名山の民族史』 『江戸の食彩 春夏秋冬』(河出書房新社)など多数。日本ペンクラブ理事。
最近の投稿
河越夜戦(よいくさ)後北条氏対扇谷上杉氏
日本の合戦史上,いや世界の戦史を見ても,夜戦(よいくさ)は極めて少ないですが,満天の星といった気象条件に恵まれれば,夜に軍勢が行動できないことはありません。とはいえ,せいぜい軍を動かすだけで,敵味方入り乱れての戦いは無理です。軍旗や軍配などの司令は,視覚によるもので,夜目では覚つきません。
ですが,日本の合戦史上,「河越夜戦」はよく知られています。河越は現在の川越です。河越城は,長禄元年(1457),太田道灌の父である太田道真(資清・すけきよ)によって築かれた。道真は扇谷(おうぎがやつ)上杉持頼(もちより)の臣であり,持頼の命による築城です。以後河越城は,武蔵国における扇谷上杉氏の拠点として90年間を過ごします。
しかし天文6年(1537),扇谷上杉朝定(ともさだ)は,北条氏綱の攻撃を受け,河越城を奪取されてしまいます。その後河越城は,武蔵国における後北条(ごほうじょう)氏の前線基地となりました。なお後北条氏は,鎌倉時代の北条氏とは何の関係もありません。伊勢新九郎長氏(ながうじ・北条早雲)を初代とし,小田原北条氏とも呼ばれます。
さて天文14年10月,関東管領の山内上杉憲政(のりまさ)は,駿河の今川義元と盟約を結び,河越城奪回のために出陣します。もちろん扇谷上杉朝定との連合軍です。憲政は,関東の諸士に大動員をかけますが,そのためには古河公房足利晴氏(はるうじ)の号令が必要です。晴氏の妻は北条氏です。憲政は強引に晴氏を説得し,関東の連合軍を出動させることに成功したのです。
連合軍は川越の砂久保(現川越市砂久保)に陣を布き,河越城を包囲しました。しかし城内には北条氏の勇将福島左衛門大夫綱成以下三千の兵が立て籠もり,長陣を布いて頑強に抵抗します。そこで憲政は,兵糧攻めに転じました。川越城を完全包囲して,食料をはじめ物資を城内に搬入させないという戦術です。戦いは半年に及び,同15年4月,北条氏康は,河越城を明け渡すかわりに籠城者たちを赦免してくれるよう,上杉軍に申し出ます。しかし憲政は,この申し出を拒否します。
北条軍は河越城救援のために出陣しますが,あくまでも和を乞うためという態度を崩しませんでした。しかしこれは,上杉軍を油断させるための作戦でした。4月20日の夜のことです。現在なら5月下旬,初夏です。北条勢は,救護部隊と城内に籠城する兵が連絡を取り合い,突如夜襲をかけて,上杉軍を壊滅させてしまうのでした。夜とはいえ,おそらく満天の星で,夜であってもよく見えたと思われます。当時の人であれば,今の我々とちがい,かなり夜目がきいたにちがいありません。しかも夜襲をかけるため,夜目を馴らしての襲撃であったにちがいありません。上杉軍は決定的な敗北を被ることになります。これが関東の戦国史に名高い「河越夜戦」です。こののち上杉氏は越後に逃れ,守護代長尾景虎(謙信)に関東管領職と上杉姓を譲ることになるのです。
小田原城攻略戦 北条早雲対大森藤頼
応仁の乱後,守護大名の多くが没落して,代わって守護代や国人(こくじん)衆が台頭して各地の新しい支配者となりました。戦国大名の登場です。戦国大名の多くは,有力な武家の出が多かったのですが,なかには,出自不明の者がいました。北条早雲や斎藤道三が,その代表的な例です。
北条早雲は,戦国時代の初期,忽然(こつぜん)として歴史の舞台に登場しました。そのときすでに40代の半ばです。それまで何処で何をしていたのか,出身地も氏素性も皆目判らないのです。没したのは永正16年(1519)で,八十八歳であったといいます。逆算すると永享4年(1432年)生まれということになりますが,正確な生年月日は不明です。
だが,その早雲に始まる小田原北条氏5代が,戦国の100年間,関東の地をほぼ支配して,強力な北条王国というべき勢力を築いていたことは,まぎれもない事実です。早雲は,はじめ伊勢新九郎長氏(ながうじ)と称しました。のちに早雲を庵号とし,入道してからは「早雲庵宗瑞(そうずい)」と自ら記しています。北条早雲というのは俗称です。
早雲が嫡子氏網(うじつな)を儲けたのは文明18年(1486),54歳です。次男氏時(うじとき)を得たのは58歳で,三男長綱(ながつな)は62歳のときの子です。当時,ふつうであれば人生を終える年ですが,つぎつぎに子を儲けただけでなく,その後も強大な戦国大名への道を突き進んでいったのです。その旺盛な勢力と精力には脱帽せざるを得ません。
明応4年(1495),64歳のとき,早雲は関東への進出を目指し,小田原城を急襲して大森藤頼(ふじより)を攻め,関東進出の第一歩を印しました。このとき早雲は,大森氏に対してあらかじめ,箱根で鹿狩りをするために大ぜいの勢子(せこ)を入れるという了解を得ました。そのうえで,勢子に姿を変えた数百人の武勇に長けた者たちを送り込み,山中にひそませます。夜半,千頭の牛の角に松明(たいまつ)をつけて,石垣山や箱根の山中に追い上げ,小田原城下に火を放ちます。さらに螺(かい)を吹き鬨(とき)の声を上げました。小田原城では不意の敵襲に驚き,周囲の山々に点々と見える火と城下の火事に大軍が攻めて来たと思い,大混乱となりました。その混乱に乗じて,勢子に化けた精鋭が城下に攻め入り,小田原城の奪取に成功したといいます。
火牛(かぎゅう)の計は,源平合戦のとき,木曽義仲が倶利伽羅(くりから)峠の戦いで用いたことで有名ですが,もとは『史記』列伝に見える斉(せい)の名将田単(でんたん)が用いた戦略です。ともあれ,永正7年(1510)ごろより早雲は相模の名族三浦氏との戦いを開始しました。早雲は三浦半島の出入り口に玉縄(たまなわ)城を築きますが,秀吉の小田原平定まで一度も落城しなかったので,江戸・河越城と並んで関東三名城の一つといわれました。
相模国を制圧したとき,早雲は85歳になっていました。早雲は88歳で没しますが,その前年の87歳まで,現役の戦国大名として戦い続けたのです。
戦国大名の城と城下町
城下あるいは城下町というのは,文字通り城郭を中心として成立した都市のことですが,名称として一般化するのは江戸時代になってからです。中世には,領主の居所(居城)の回りに成立した集落や町場を,堀之内・根小屋・山下などと呼びました。
こうした集落や町場は,戦国大名が,統一した自らの領国を,兵農分離に伴って,直属の武士団および商人や職人らを城の回わりに住まわせることによって,成立しました。見方を変えれば,そのことによって,各大名たちの領国内の政治や商業・交通の中心として,城下町が発展していったのです。
しかし,戦国時代の城は,基本的には戦いの要塞です。ですから最初は山城,次いで平山城,そして平城というように移行していきます。時代が下るに従って,要塞より領国統治の中心地,すなわち政治経済の中心地になっていったのです。
戦国時代に形成された,代表的な城と城下町は,大内氏の山口,武田氏の甲斐府中(甲府),織田氏の安土,豊臣氏の長浜・大坂,また徳川氏の駿河府中(駿府・静岡)などです。それらの城下町の居住者は,武士と僧侶,商人と職人,そして農民も少なからず住んでいました。城下によっては,中心地でも田畑が少なくなかったといいます。
しかし,兵農分離,また商農分離が進んでいくと,農民が武家奉公人になったり,商人や職人になったりすることが禁じられ,さらに城下に居住している農民は郷村へ帰されてしまいます。こうして城下は,武士と町人すなわち商人・職人の主たる居住地域となり,村落とは異なる地域となるのです。
たとえば,天正16年(1588年)に伊勢(三重県)の松坂では,武家屋敷と町屋の混住は原則として認めない,という法令を出しています。関ケ原合戦の後,新大名が登場し,元和元年(慶長20年=1615年)潤6月には,一国一城令が定められました。この年は,5月に,大坂城が落城して豊臣秀頼・淀君らが自殺しています。
さて一国一城令によって多くの小城郭が破却され,大規模な城下町の建設が進んでいきます。寛永時代になると,外様大名(かつての戦国大名)の分地による城下町や陣屋町なども形成されていきます。また,この時期になると,町割が行なわれるようになります。同時に,城郭内の,大名及び武士の居住地と町人の居住地が,木戸とか溝によって区画されて,往来も制限されるようになります。
仙台(伊達藩)の場合,中級以上の武士の住む町を「丁」,足軽や商人・職人の居住区を「町」と書いて区別しています。同じ「ちょう」ですが,漢字表記することで分けられたのです。また城下の末端に,非差別民の居住区や遊郭などを配置しました。
なお,戦国時代の城下町は,武士の屋敷地が,住民の半数以上を占めていて,道路は狭く,丁字型とかカギ型になっているところが少なくありませんでした。これは,戦いの際,侵入者の進攻を防げ,弓矢や鉄砲の射通しを難しくするためです。また「ひだ」といって,隣家との間をすこしずらして建て,そのずれたところに身を隠したのだともいいます。松坂や佐賀などに,今もその名残りが残されています。
戦国大名と金銀山
戦国大名にとって大切なのは,何といっても軍事力です。強大な軍事力を有した者が,他を制することになります。では,どのようにして軍事力を保持することができるのでしょうか。それには,経済力を有することです。
武器・武具を購うにしても,兵を顧うにしても,必要なのは経済力,イコール金銀です。戦国大名たちは,戦いのいっぽうで,必死に金銀を得るための経済活動をしていました。特産品の交易や銅や鉄の鉱山開発ですが,もっとも手っ取り早いのが,金銀山の開発でした。
上杉謙信が力を持ったのは,佐渡の金山開発です。佐渡金山は,徳川時代になってからも江戸幕府によって,金銀が採掘され続けました。謙信のライバル武田信玄は,甲斐黒川の金山,さらに信濃や武田領となった駿河の金山などから金を得ました。武田勝頼のときに武田氏が滅びたのは,武田の金山を掘り尽くしてしまったからだという説があります。
なお,採金は初め,砂金によりました。やがて山金,すなわち岩の中にある金鉱脈を掘るようになります。金鉱を探すのは山師の仕事です。鉱脈が見つかると,金子・掘大工らの坑夫・板取・吹大工などの選鉱製練人ら専業稼働人たちが多数登場してきて,坑道穿鑿(せんさく)の技術も進歩していきます。犬走りと呼ぶ斜坑とともに,水平坑道が併用され,䟽水坑・煙抜坑などの大規模なものが切られていきました。また探鉱法は,鉱脈に直角に切り当てる横相や,方位をたてて掘る寸法切りが行なわれるようになりました。
16世紀中期から末期にかけて,すなわち戦国時代から安土桃山時代には,越前・加賀・能登・越中の金銀山が開発されます。伊豆の金山は16世紀の後期に開かれますが,17世紀になってからは多量の銀を産出しました。佐渡相川の金銀山は,16世紀末の鶴子銀山の発見に端を発し,慶長6年(1601)に開発され,17世紀前半には,最大の産銀がありました。
こんな話が伝えられています。
武田勝頼が,奥秩父山中にあったという金山を閉鎖するときの話です。勝頼は,大きな淵の上の崖上に,巨大な楼閣を造らせました。金山には何百人もの坑夫たちが働いており,遊女町まで造られていました。その坑夫や遊女たちを崖上の楼閣に集め,大宴会を催したのです。閉山する最後の記念にと。そして宴たけなわのとき,楼閣を支えていたすべての綱や支柱を切って,坑人や遊女たちすべてを,崖下の淵に沈めてしまいます。鉱山の秘密を守るために。
これ以後,淵は「おいらん淵」と呼ばれるようになり,濃い霧の日などには,霧の中から遊女のすすり泣く声が聞こえてくるのだといいます。
なお,金銀山もいずれは掘り尽くしてしまうことになります。そこで閉山することになるのですが,各地の金銀山跡には,似たような鬼哭啾啾(きこくしゅうしゅう)たる話が,語り伝えられています。もちろん,史実というわけではないでしょうが,濃い霧の日などには,ふとそんな気にさせられます……。
武田信玄と上杉謙信
お互いに張り合う存在,すなわち好敵手(ライバル)は,日本史上いつの時代においても少なくありません。ライバルがいてこそ,その時代が生き生きと語られることになるといえるでしょう。天智天皇と天武天皇,弓削道鏡(ゆげのどうきょう)と藤原仲麻呂,紫式部と清少納言,源頼朝と平清盛,足利尊氏と新田義貞,山名宗全と細川勝元,淀君と北政所,宮本武蔵と佐々木小次郎,西郷隆盛と大久保利通,福沢諭吉と大隈重信等々,枚挙(まいきょ)にいとまがありません。
なかで武田信玄と上杉謙信は,史上もっともよく知られたライバルといえます。信州川中島は,両雄の決戦の舞台となったところですが,川中島の八幡原(はちまんばら)と呼ばれる小さな林の中に,「三太刀七太刀」の古碑と,馬上から斬りつける謙信,それを軍配で受ける信玄の像が建てられています。
川中島とは,千曲川と犀川(さいかわ)の合流点付近一帯をいいます。肥沃な穀倉地帯で,東西交通の要衝(ようしょう)でもありました。この地で,天文22年(1553)から永禄7年(1564)にかけて12年間の間に,信玄と謙信は5度戦ったといわれます。
信玄が支配していた甲斐国(今の山梨県)は,山に囲まれた小国で貧しい国でした。いっぽう信濃(今の長野県)は,大きく豊かな国でした。信玄は信濃に侵出(しんしゅつ)して行きます。まずは諏訪地方を配下に治め,続いて佐久地方を支配することに成功します。そして,北信濃に軍を進めたのでした。
いっぽうの謙信は,義の人といわれます。北信濃の支配者であった村上義清が,越後の謙信に援けを求めます。そこで謙信は,侵略者信玄を追い,村上義清を援けるために出陣したというわけです。もっとも謙信は,上杉憲政から上杉の名跡(みょうせき)と関東管領職をゆずられ,関東の地を支配する名分を得ていました。ところが,関東と越後の間には信濃がありました。
信玄は川中島の近くに海津(かいづ)城を築き,着々と北信濃の支配をすすめていました。謙信は信玄の軍を一掃しない限り,関東へは進めません。
こうして永禄4年(1561)9月,川中島をめぐって両軍が激突することになったのです。9月10日の早朝,妻女山に陣していた上杉軍は,朝霧にまぎれて山を下り,雨宮(あめのみや)の渡しを徒渉(としょう)して,信玄の本陣を突きました。この戦いで謙信は,萌黄(もえぎ)の胴肩衣(どうかたぎぬ)を着,白布で兜頭をつつみ,月毛の馬を駆って単身武田軍の本陣に斬り込みました。信玄は床几に腰かけたまま,これを待ち受けます。全軍固唾(かたず)を飲んで見守るなか,謙信は,三太刀,七太刀と馬上から信玄に斬りかかり,信玄は鉄の軍配でこれを防いだのでした。『甲陽軍鑑』などに記された,信玄,謙信一騎打の名場面ですが,史実とはいえないでしょう。しかし,戦国史上のライバルを語るとき,欠かせぬエピソードです。
朝倉敏景と文明の乱
応仁の乱(1467)は,武士たちが大きく飛躍する絶好の機会となりました。主家を追い,新たなる支配者となるという下剋上がまかり通っていきます。朝倉敏景は,主君斯波(しば)氏に代わって,ついに越前(福井県)の守護職(しゅごしき)を手に入れました。
文明3年(1471)5月21日付けで,朝倉敏景あてに,将軍足利義政から守護任命書が発せられたのです。越前の守護となることは,敏景の宿願でした。守護に成り上がった敏景の得意は,想像に余まりあります。敏景はさっそく,居城を黒丸城から一乗ヶ谷に移します。そこに壮大な館と施設を築き,自ら守護を称し,立烏帽子(たてえぼし)・狩衣(かりぎぬ)といったいでたちで,殿上人(でんじょうびと)に治まりかえったのです。ところが,こうした敏景の態度に,在地の武士たちが反発します。彼らはことごとく敏景に背いてしまうのです。
そうした勢力の中心にあったのが,もともと朝倉氏と敵対関係にあった甲斐氏です。文明3年7月21日,甲斐方による朝倉勢攻撃の火ぶたが切って落とされました。当初朝倉勢は,兵力が少なかったこともあり,一敗を喫してしまいます。しかしその後盛力を盛り返し,甲斐を中心とする西軍と,敏景を中心とする東軍の,越前一国をかけた死闘が繰り広げられていくことになります。
文明4年(1472)になると,朝倉方が俄然有利になり,3月には甲斐方の有力な武将の甲斐八郎次郎と甲斐八郎が切腹を余儀なくされます。さらに同8月の戦いでも甲斐方は敗れ,隣国の加賀(石川県)に落ち延びました。その後も戦いは続きますが,結局,朝倉方が勝利したのでした。
名実共に越前の守護になった朝倉敏景は,文明4年8月,全越前の寺社領などに対して,半済(はんぜい)実施を宣言します。半済というのは,寺社本所領・国衛(こくが)領の年貢の半分を武士に与えるというものです。
しかし,文明5年(1473)になっても,両者のいざこざは止みません。そうした戦いの中にあっても,朝倉氏の越前支配は着々と進み,ついに朝倉一族が越前全土を支配することになったのです。
やがて,朝倉氏のために領地をことごとく奪われた荘園領主たちや越前の守護職を奪われた斯波氏の一党らが,甲斐氏と連合して朝倉氏に最後の決戦を挑みました。文明11年(1479)閏(うるう)9月3日のことです。戦いは文明13年(1479)にまで及びました。しかし,斯波・甲斐側はついに敗れ,加賀に逃れることになります。しかし文明13年7月26日,朝倉敏景もはれ物をわずらって亡くなってしまいました。
結局,越前国守護代朝倉,遠江国守護代甲斐,尾張国守護代織田,主人は斯波義廉(しばよしかど)ということで落ち着きます。しかし,実際には,斯波氏の領国は,朝倉・甲斐・織田の三氏によって奪われ,三氏はそれぞれ新しい時代の支配者である戦国大名として天下を競うことになるのです。
守護大名とその限界
「守護」というのは,鎌倉・室町時代の職名です。はじめは,源頼朝が,源義経と源行家(ゆきいえ)を捕えるために,地頭(じとう)と共に,国ごとに設置したものです。諸国に所領を持つ有力御家人が任命されました。
職掌は,大番役の御家人の召集,謀反人・殺害人の検断(大犯三箇条(だいぼんさんかじょう))など軍事および警察権を持ち,小規模ながら役料として守護領を有しました。やがて彼らは,鎌倉末期には国内の地頭・御家人を支配し,荘園に侵略するなどして,領主化の方向に進んで行きます。室町時代になると,足利幕府は国ごとに守護職を設置します。守護職たちは次第に領主化していき,やがて彼らが守護大名へと変質していくことになります。
さらに室町時代,守護職には,前記の「大犯三箇条」のほかに,他人の知行(ちぎょう)の作毛を実力で刈り取ることを取り締まる「刈田狼籍(かりたろうぜき)」と,幕府の判決を執行する「使節遵行(しせつじゅんぎょう)」の二つの職権が加えられます。
守護大名というのは,将軍足利氏によって任命され,その国の支配を委任された守護のことです。
南北朝争乱期の過程で,豪族出身の守護の多くは没落していきます。生き残っていくのは,細川・仁木・畠山・斯波(しば)・今川・桃井・一色氏らの足利一門,それに上杉・高(こう)氏ら鎌倉時代以来の被官を中心に,早くから足利尊氏と行動を共にした赤松・土岐・佐々木・山名氏ら少数の外様の家々に,守護国が集積されていきます。
このような室町時代の守護を,吏僚的な性格の強かった鎌倉時代の守護と区別して,「守護大名」と呼ぶのです。もっともこれは,戦後(第二次世界大戦後)から学術用語として使われるようになったものですが,歴史用語ではありません。
足利将軍は,守護補任(ぶにん)権を行使して,守護家(守護大名)の内部問題や領国支配に介入し,守護大名を牽制します。また国人領主もしばしば新興の守護大名に抵抗して,その支配を排除しようとしますが,なかなかうまくいきません。守護大名は,幕府の役職を兼ねて,財政面でも幕府を支えていました。有力な守護大名は,「重臣会議」と呼ばれる幕府の政策決定の評議にも参加するようになります。こうした守護大名の幕府政治への関与によって,必然的に守護大名たちは,京都の将軍の御所の周辺に屋敷を構えることになります。45ヵ国の守護21家が御所同辺に屋敷を構え,「二十一屋形」と呼ばれました。
さて,応仁・文明の乱後,幕府の衰退と共に,守護は独自の領国支配の方向を強めていき,戦国大名に転化することに成功したものも登場してきます。一方で,守護代などが強大化していくなか,没落していく守護大名もしだいに多くなっていきます。幕府と深く結びついたことによって,幕府と運命を共にせざるをえない,ということになったのです。
下剋上する成出者
戦国時代の幕明けとなった応仁の乱後,文明17年(1485)の山城国一揆(やましろのくにいっき)に続いて,長享2年(1488)には加賀の一向一揆が守護を倒して,「門徒持ち」の国をつくります。権力は将軍から守護へ,守護から守護代・国人(こくじん)へ,そしてさらに地侍・民衆へと自然に下降分散して,下剋上(げこくじょう)の社会状況が深まっていきました。
下剋上というのは,下位の者が上位の者に剋つ(かつ)ことです。すなわち家来が主人を倒したり,仕用人が支配者を殺したり追放したりして身分が転倒する状態で,この時代,下剋上が多くなったということです。
「下剋上」の語は,鎌倉時代以降,栄んに用いられますが,建武の新政の混乱期に書かれた「二条河原落書」に「下剋上スル成出者(なりでもの)」と出てくることで,よく知られています。「二条河原落書」は,建武元年(1334)8月・京都の二条河原に立てられた政治批判の落書です。「落書」というのは,「落首」とほぼ同義語で,政治や社会を風刺したり批判したりした短文で,人目につきやすい場所に立てたり貼ったりしたものです。いわば近現代の「壁新聞」といったらいいでしょうか。二条河原の落書の多くは七五調で調子よく,物尽くし形式で作られています。「此比(このごろ)都ニハヤル物」で始まり,全八十八句から成ります。一部を紹介しますと。
「此比都ニハヤル物,夜討強盗謀綸旨(ようちごうとうにせりんじ),召人早馬虚騒動(めしうどはやうまからそうどう)」
に始まり,
「天下一統メツラシヤ,御代(みよ)ニ生レテサマザマノ,事ヲミキクソ不思議共,京童(きょうわらしべ)の口スサミ,十分一ソモラスナリ」
と結ばれています。また,
「器用ノ堪否沙汰モナク,モルゝ人ナキ決断所」
と,新政府の役所のいいかげんさを批難したり,
「犬田楽(いぬでんがく)ハ関東ノ,ホロフルモノト云(いい)ナカラ,田楽ハナホハヤル也」
と,犬田楽は関東ではやっているようだが,いずれ滅(ほろ)ぶものといいながら,それでもなぜかはやっていると,世相を風刺し,さらに,
「京鎌倉ヲコキマセテ,一座ソロハヌエセ連歌,在々所々の歌連歌,点者にナラヌ人ソナキ,譜第非成ノ差別ナク,自由狼藉ノ世界也」
と,そのころ京都でも関東でも大流行していた連歌(れんが)について,多くはエセにすぎない,とケチをつけているのです。「京童」の口を借りて,建武政府の実態と矛盾を,しっかりと批判しており,なかなかの知識人たちが,寄り集まって作ったものであろうと,考えられています。なお,河原は自由の場ですが,二条河原は,後醍醐天皇の政庁(二条富小路)に近い場所でした。この落書を作り,掲げた知識人たちの思いが伝わってきます。
太田道灌と江戸城
太田道灌が江戸城を築いたのは,長禄元年(1457),道灌25歳のときといいます。その10年後に京都で応仁の乱が起こり,戦国時代の幕が開きます。
道灌の築城以前,江戸郷には,平安以来の名族江戸氏の居館があったといいます。ですが,居館の位置など,江戸氏の遺構はまったく判っていません。それどころか,じつは,道灌時代の遺構も残こされていないのです。とはいえ,当時とすれば大城郭で,室町時代後期における関東有数の名城であったろうと思われます。
文明年間(1469~87)に江戸城を訪れた禅僧の正宗龍統(しょうしゅうりゅうとう)や万里集九(ばんりしゅうく)の記録によれば,自然の地形を利用した壮大な城で,石垣はまだありませんが,三重の構造を持っていたことが判ります。城内に静勝軒(せいしょうけん)と名づけられた道灌の館があって,西に富士,東に海,南に原野が眺望できたといいます。いまの皇居内の富士見櫓のあたりが静勝軒跡と考えられています。
太田道灌は,戦国時代初期の関東における有数の武将であると同時に,第一級の文化人でもありました。京都や鎌倉から禅僧や文化人を盛んに招いて,歌会を催すなどの文化イベントを,たびたび行っています。もちろん江戸城は軍事拠点でしたが,いっぽう一大文化サロンでもあったのです。また,城下では毎日のように市が開かれ,諸国の物資が行き交っていました。江戸の地は,水陸交通の要衝(ようしょう)であり,道灌のころすでに,相当な賑わいを見せていたのです。
徳川家康が入城したとき,江戸の地は葦(あし)の茂る海辺の寒村であった,というのは,伝説にすぎません。
江戸と江戸城の出発点は江戸氏,発展の基礎を築いたのが道灌です。その後江戸の地は,およそ100年間,関東に君臨した後北条氏(小田原北条氏)の重要な拠点でした。だからこそ家康は,秀吉に協力して後北条氏を滅ぼした後,自ら望んで江戸に入ったのです。秀吉に従ってやむなく葦の茂る寒村に入国したわけでは,ありません。
とはいえ,江戸城を日本最大の城郭につくりかえ,江戸を日本最大の都市に発展させたのは家康であり,子の秀忠です。しかしその基礎は,100年以上も前に太田道灌によって,しっかりと築かれていたのです。
太田道灌は,永享4年(1432)に,扇谷(おおぎがやつ)上杉氏の重臣太田道真(どうしん)の子として相模国(神奈川県)に生まれました。幼時より鎌倉五山に入って学問に励み,20歳のころには五山無双の学者になったといわれました。しかし時代の流れに従って道灌は,父と共に扇谷上杉家に仕え,武将としての道を歩くことになります。
道灌は,武将としての才能にも恵まれ,「道灌がかり」という築城の名手でもありました。江戸城につづいて武州岩槻城や河越城(ともに埼玉県)も,道灌の築城によるものです。また攻め取った城も多数にのぼるといわれています。