ちはやぶる日本史

序文

プロローグ

 私たちは過去から未来に向かって,今という時を生きています。ただ漠然と生きているわけではなく,よりよき未来を求めて考えながら歩いています。ですけれど,未来を考えるためには,今を知ることが必要です。そして,今を知るためには過去すなわち歴史を知らなければなりません。今という時は,先人たちが営々と築いてきた,そして今も築き続けている歴史の上に成り立っているからです。
 「歴史を知らずして今を語ることなかれ。今を判らずして未来を語ることなかれ」
です。
 それでは,今を知るために,そして未来を語るために歴史の森へ分け入ってみることにしましょう。とはいえ,これから語ろうとするのは,小むずかしい学術的な歴史ではありません。教科書などで語られる歴史とは一味ちがった「へえー。そうなの」という,おもしろく興味深い話です。どうぞ気軽におつき合いください。

高橋ちはや

著者紹介

高橋千劔破(たかはし・ちはや)
 1943年東京生まれ。立教大学日本文学科卒業後,人物往来社入社。 月刊『歴史読本』編集長,同社取締役編集局長を経て,執筆活動に入る。 2001年,『花鳥風月の日本史』(河出文庫)で尾崎秀樹記念「大衆文学研究賞」受賞。 著書に『歴史を動かした女たち』『歴史を動かした男たち』(中公文庫), 『江戸の旅人』(集英社文庫),『名山の日本史』『名山の文化史』『名山の民族史』 『江戸の食彩 春夏秋冬』(河出書房新社)など多数。日本ペンクラブ理事。

最近の投稿

長屋の便所とごみ溜

 パリの下水道が普及したのは19世紀の末になってからのこと。それまでのパリの街は,糞尿の臭気に悩まされ続けていたという。というのは,パリのアパートには共同トイレが少なく,もっぱら便器を使用していたからだ。便器の中味は決められた場所に捨てなければならないのだが,市民はそれを面倒くさがり,夕暮になると窓から街路に,「ギャルデ・ロー!」(水に注意!)と怒鳴って投げ捨てる習慣が一般化していた。糞尿やごみ処理の問題は,大都市には必ずついてまわる。見かけは美しいパリの街も,一歩裏へ回われば,糞尿の臭いがただよい,ゴミだらけの街であったのだ。
 では,常にパリより人口の多かった江戸はどうであったか。臭気もただよわず,ゴミもない清潔で美しい町であった。江戸の糞尿は,周辺農村にとって貴重な肥料・下肥(しもごえ)として,売られていた。処分に困まって捨てるなどということはなかった。ごみも,各地の芥溜(あくただめ)から水路沿いの大芥溜に集積され,芥船によって運ばれて永代島の埋立てに用いられていた。
 さて,便所の糞尿であるが,裏長屋の場合,権利は大家が持っていた。共同便所は,惣後架(そうごうか)また惣雪隠(そうせつちん)といわれたが,その糞尿を売った収入がばかにならなかった。
「店中(たなじゅう)の尻で大家は餅をつき」
「こえとりへ尻が増えたと大家いい」
などという川柳がのこされている。家賃を滞納する住人も,便所は使用する。下肥代は大家にとって,大事な収入源だったのである。
 なお,江戸の下肥は「江戸肥」と呼ばれたが,その江戸肥にも等級があった。もっとも上等とされたのは,大名屋敷の男子の排泄物で,「きんばん」と呼ばれた。つぎが町中(まちなか)の共同便所の「辻肥」,長屋などの「町肥」,尿の多い「たれこみ」と続いた。汲取り人は「下掃除人」と呼ばれ,当初は農家が,武家屋敷や町屋と直接交渉して汲取りに来ていたが,やがて専門の業者ができた。そうなると,多くの下掃除の権利を手に入れて大儲けする業者も出てきて,下肥の価格の高騰を招いた。
 最初に下肥値下げ運動が起こったのは,寛政元年(1789)のこと。武州・下総三十七ヶ領1016ヶ村が,値下げを幕府に訴えている。その後,何度も値下げ運動が起こるが,値が下がると下肥の質の低下を招いた。安くした分,業者が利益を維持するために,水でうすめたりしたからである。ちなみに,天保期(1830~1844)には,江戸における下肥の年間取引額が3万5千490両あまりにのぼっている。1両を10万円とすれば35億円である。
 しかし,人が排泄したものを肥料にして野菜を作り,その野菜を人がまた食べるというのは,究極のリサイクルではないか。いま,水洗で流してしまうのは,もったいない?

江戸っ子の呼称と気質

     長屋には,武家長屋などもありますが,落語に出てくる熊さんや八つぁんが住んでいるのは裏長屋。今でいうなら裏街の安い賃貸アパートです。メインの通りに面した表店(おもてだな)の裏などや横丁にあったので,裏店(うらだな)ともいいます。  裏長屋の住人は,大工や左官などの職人,棒天振(ぼてふり。魚や野菜の行商人),表店の下っ端の使用人,日雇いの労働者など,当時の下層階級の人たちです。なかには,占い師や手習いの師匠,長唄や俳諧の宗匠などもいました。いずれにせよ,日銭(ひぜに)で生活している人たちです。
 裏長屋は,向かい合わせに2棟あって,中央の通路の両端に表木戸と裏木戸があります。通路のまん中にはドブがあって,板でふさいでいます。木戸は明け六ツ(午前6時前後)ごろに開けて,暮れ六ツ(午後6時前後)ごろに閉めるのが習わしですが,五ツ刻(午後8時ごろ)から場合によって四ツ刻(午後10時ごろ)まで開いていたといいます。
 井戸は多くの場合,どちらかの棟の中央に2軒分ぐらいスペースをとって,掘られていました。井戸の囲りは洗い場で,長屋の女性たちの井戸端会議の場というわけです。トイレは,裏木戸の近くなどにありました。二連か三連の共同便所ですが,朝など順番待ちで大変だったと思われます。
 裏長屋の一軒の面積は,俗に9尺2間といわれました。間口が9尺(約2.7m),奥行が2間(約3.6m)というわけです。実際の奥行は2間半(約4.5m)でしたが,坪数にして3.75坪(約12.4㎡)です。間口9尺のうち6尺が玄関,残りの3尺が台所です。実際の住居スペースは6畳ぐらいということになります。台所にあるのは水がめとかまどだけ,家具はほとんどなく,わずかな食器とせんべいぶとんぐらい。火事のときは身一つで逃げればいいわけです。とはいえ,6畳ひと間に一家族が住んでいたのですから,かなり窮屈だったろうと思われます。もっとも,それが当たり前であれば,さほど苦にならなかったかもしれません。
 裏長屋を取り仕切っていたのは大家(おおや)で,住民は店子(たなこ)と呼ばれていました。「大家といえば親も同然,店子といえば子も同然」といわれ,店子は旅行へ行くのも嫁をもらうのも,何かにつけて大家の許可が必要でした。いっぽう大家は,店子について一切の責任を負っていました。店子に不都合があれば大家も取り調べを受けました。
 ところで大家には,家賃のほかに結構な収入源がありました。何だと思いますか?
 じつは,共同便所の糞尿です。なぜそんなものが利益になるのかは,次回で……。

江戸っ子の呼称と気質

「江戸っ子」という呼称がいつできたのかは,はっきりしません。大久保彦左衛門が名づけ親などともいわれますが,これはあやしい。江戸の下町に住んだ町人たちを江戸っ子というようになったのは,江戸の中期ごろからです。江戸はもともと地方出身者たちによってつくられた町ですが,代を重ねれば,江戸生まれの江戸育ちということになります。とはいえ,彼らのすべてが江戸っ子というわけではありません。
 江戸っ子とは,町人階級の中でも地位の低かった職人や棒手振(ぼてふり)らで,神田明神と山王権現の氏子の土地に生まれ,三代以上住んでいる者たち。地域でいうと,お茶水(おちゃのみず)から万世橋,柳橋をくぐって隅田川に入る神田川と,麻布を流れて芝公園,金杉橋をくぐって江戸湾に入る渋谷川,この二つの川に挟まれた土地に生まれ育った者たちをいいます。とはいえ,どこに生まれ育った者を江戸っ子というかについては,他にもいくつかの説があります。
 芝で生まれて神田で育っても,お金持ちを江戸っ子とはいいません。「宵越しの銭は持たない」のが江戸っ子の信条です。たとえば,天秤棒を担いで野菜や魚などを売り歩く棒手振は,朝早く金貸しから烏金(からすがね)を借りて品物を仕入れ,夕方には借りた金を返すという,その日暮らしです。カラスが朝に飛び立ち夕方に寝ぐらに帰るまでの間に借りる金なので烏金というわけです。「江戸っ子の生まれそこない銭をため」という川柳がありますが,金儲けをするような奴は江戸っ子にあらず,というわけです。
 江戸っ子気質といったものがあります。列記すると,金もないのに向こう気だけは強く喧嘩早い。物に対する執着心が薄い。見栄っ張りで気前がいいが,生き方は浅薄で軽々しい。人情にもろい。とまあ,そんなところでしょうか。
 「江戸っ子は五月(さつき)の鯉の吹き流し」という川柳もあります。喧嘩も早いが仲直りも早い江戸っ子は,口では罵っても腹に一物などない,というのです。ところがのちにこの句に,「口先きばかりはらわたはなし」という下の句がついた。口は達者でも内容がなく空っぽだというのです。まあ,どちらにせよ,江戸っ子気質をいい当てています。
 両国の江戸東京博物館や深川の江戸資料館で,江戸っ子の暮らしを見ることができます。長屋などに住んでいた彼らは,所帯道具といったものを,ほとんど持っていませんでした。江戸は火事が多く焼け出されることもしばしばでしたが,物を持たない彼らは平気です。
 さて次回は,そんな江戸っ子たちの長屋の生活を見ていきます。

江戸の総人口と八百八町

     江戸は,18世紀以降,人口100万人を超える世界最大の都市であったといわれます。たしかに,1801年(享和元年)のロンドンの人口が約86万人,翌年のパリの人口が約67万人ですので,江戸の方がずっと大都市だったということになります。しかし,江戸の総人口は,正確には判っていません。
 享保6年(1721)に江戸の人口調査が行われ,町人の人口は約50万人,嘉永6年(1853)の調査では約58万人でした。町人の人口は町奉行所による人別帳でほぼ正確に把握されていましたが,武家人口は記録がなく明確ではないのです。しかし,武士と寺社関係者その他の人口は,町人数より常にやや多かったと考えられています。ということは,享保6年の18世紀前半で,江戸の総人口が100万人を超えていたことは確実で,世界第一はまちがいありません。ちなみに嘉永6年の19世紀半ばでは,120~130万人と推定されています。
 さて,大都市は膨張し続けるのがふつうです。ところが江戸の場合,享保6年から嘉永6年までの約130年間で,市民(町人)の数は8万人しか増えていません。なぜでしょうか。
 実は,もはや江戸には住む土地がなかったからです。町人地は江戸の総面積(約2千万坪=約60平方キロ)のうち,13.65パーセント(約8.2平方キロ)しかなかったからです。千代田区の半分もない土地に約50万人が住んでいたわけで,過密状態もいいところです。
 さて,その町人地は俗に「大江戸八百八町」といわれますが,実際はどうなのでしょうか。
 慶長8年(1603),徳川幕府が開かれた時点ですでに,日本橋など埋立等によって拓かれた市街地は300町がありました。その後の新開地に対して古町と呼ばれた町々です。新しい町が急激に増えるのは,明暦の大火(1657)後のことです。墨東の開発が進み,本所・深川などが市街地化されていき,約50年後の正徳3年(1713)には倍増で674町となりました。さらにこの年,代官地などの259町が江戸町奉行所配下に組み入れられ,933町になりました。すでに「八百八町」をオーバーです。
 そして,はじめて幕府が町人の人口調査をした翌々年の享保8年(1723),町数は1672町となりました。その後,寛政3年(1791)の1678町をピークに,合併などで町数は減っていきます。ともあれ,「大江戸八百八町」は,江戸が大都市であることを誇っていったのだと思われますが,まさかその後に千町も増えるとは,当時の江戸っ子は考えもしなかったでしょう。
 なお江戸の町人地は,町ごとに木戸が設けられ,各町は町名主によって管理されていました。しかし,江戸っ子たちは,思いのほかしぶとく,たくましい。そのあたりは次回で・・・。

行列をつくって富士登山

 今年,7月~8月の山開きの期間中,30万人を超える人たちが富士山に登ったといいます。毎日平均5千人もの人が山頂に立ったわけで驚きです。登山道はどれも連日長蛇の列。
 この富士登山ブームは,富士山が世界遺産となったからというわけではありません。確かに例年より5割ほど登山者が増えましたが,長蛇の列は,何と江戸時代からです。江戸っ子たちが,我も我もと富士山に登っていたのです。
 日本人は山登りが大好きで,昔から多くの人が各地の山に登っていました。ことに江戸時代は空前の登山ブームで,富士山をはじめ立山や白山,木曽の御嶽山などの高山から各地の低山まで,名山といわれる山には,シーズン(夏山)になると登山者の列ができました。
 江戸時代中期の宝永4年(1707)11月23日,富士山が大爆発しました。宝永山ができたほどの大噴火でしたが,何と約半年後の宝永5年6月1日(旧暦)の山開きには,多くの人たちが富士山に登ります。突貫工事で登山道を復活させ,山開きに間に合わせたからです。江戸っ子たちは,噴火が鎮まって静寂を取り戻した富士山が,少なくとも何十年かは安全であることを知っていました。噴火が収まったとなれば,登ってみたいと思うのは人情です。
 登山者の多くは講に属し,先達に率いられて登りました。神社仏閣に詣でるため,また各地の名山に登るための講社は数多く,社寺参詣で最も多かったのが伊勢講,山では富士講です。富士講は江戸市中だけで,俗に八百八講といわれたほどです。
 ところで,富士山の頂上には浅間神社の奥宮が鎮座しています。皆さん,富士山は大昔から「神の山」だったと思っていませんか。じつは,江戸時代まで,日本の名山はほとんど例外なく,神仏習合による山岳宗教の場でした。富士山も例外ではなく,大日寺(大日堂)と浅間宮が一体となった一大山岳宗教の山で,山頂にあったのは大日寺の奥の院です。
 大日寺が廃されて,山頂の仏像も取り払われ,山麓の各登山口にあった大日堂や諸坊も壊され,仁王門や護摩堂や鐘楼などが取り除かれて浅間神社となったのは,明治になってから,明治新政府による神仏判然令(神仏分離)によるものです。明治7年には,富士山中の仏教的な地名もすべて改称されてしまい(たとえば山頂の文殊ヶ岳が三島ヶ岳というように),現在に至っています。
 世界文化遺産となったのに,こうした重要な歴史の記憶が語られないのは,おかしいと思いませんか・・・。

古代天皇の謎(2)

 推古天皇までの33代の古代天皇の中に,かなり多くの架空の天皇が含まれていることは,まちがいありません。『古事記』にも『日本書紀』にも,神武天皇の事績は長々と記されていますが,2代から9代までの天皇(綏靖・安寧・懿徳・孝昭・孝安・孝霊・孝元・開化)に関しては,事績はほとんど記されていません。誰々の子であるとか墓がどこにあるかといったことが簡略に記されているだけです。
 この8人は,歴史の記述に欠けているところから,欠史八代といわれ,学者・研究者の多くは,架空の天皇であるとしています。初代の神武天皇にしても,東征伝説や建国神話に彩られていますが,架空の天皇とみてまちがいないでしょう。第10代の崇神は,もしかしたら初代の天皇であった可能性があります。その考証はさておき,他にも架空と思われる天皇が少なくありません。推古天皇までを33代と定めたのは「記紀」が編纂された8世紀の初めごろで,実際に初代から推古までは,15代~18代であったろうと考えられています。
 なぜ天皇を増やしたのかといえば,国史(天皇紀)を編纂するに当たって,建国の年を,推古期から1200年以上も遡らせて,紀元前660年と定めたことによります。なぜ紀元前660年なのかといえば,古代中国の讖緯(しんい)暦運説に基づく辛酉(しんゆう)革命思想によります。
 辛酉革命説とは,一元(いちげん=60年)ごとの辛酉年(かのととりの年)に革命が起こり,一蔀(いちぼう=21元すなわち1260年)ごとの辛酉年には国家的大変革が起こる,という思想です。
 そこで,当時の天文学や暦学または陰陽思想などに通じた学者たちは,推古9年(601年)が辛酉年であることから,この年を現国家体制の基点と考え,そこから一蔀すなわち1260年遡らせた紀元前660年を建国の年に定めたのです。なお,ここでいう紀元前660年は西暦ですが,わかりやすくするために用いています。日本の暦法からいえば神武元年(皇紀元年)ということになります。
 さて,推古天皇以前に1200年以上の歴史があったことにしたのはいいのですが,天皇の数が足りません。そこで架空の天皇をあれこれ加えて推古天皇までを33代とした,というわけです。ところが,それでもまだ足りません。そこで天皇の年齢を水増しし,百何十歳まで生きたということにして,辻褄を合わせたのです。『古事記』によれば100歳以上の天皇が8人,90代まで生きた天皇が2人です。
『日本書記』は100歳以上13人,80代が2人となっています。

古代天皇の謎(1)

 神武天皇が即位したのは,『日本書紀』によれば,「辛酉春正月庚辰朔」ということになっています。辛酉(しんゆう・かのととり)の年の正月朔日(ついたち)に,日本の初代天皇である神武が即位し,このときから天皇家の歴史が始まった,というのです。
 しかし,この年をもって「日本国家建国」としたのは,明治になってからです。明治5年(1872)政府は,「辛酉春正月庚辰朔」を太陽暦に換算して「BC660年2月29日」とし,1年後に「2月11日」に改め,「BC660年」を日本国家の紀元,「2月11日」を国民の祝日「紀元節」と定めました。
 しかし,日本国家の起源,すなわち大和朝廷の成立に関しては,さまざまな説があります。少なくとも,まだ縄文時代が続いていた紀元前660年でないことは確かです。そこで昭和23年,「紀元節」は学問的に何ら根拠のない皇国史観によるものとして,廃止されました。ところがその後に復活運動が起こり,昭和41年(1966),改めて2月11日が国民の祝日「建国記念の日」となり,現在に至っています。
 さて,それでは,神武以降の古代天皇について,見ていくことにします。
 古代国家の骨格がしっかりと定まったのは,6世紀末から7世紀にかけての推古朝のころです。推古10年(602)には,朝鮮半島から暦法や天文・地理学などが改めて伝来し,その暦法に基づく国家(天皇家)の歴史を創っていくことになります。『古事記』『日本書紀』の編纂が完了するのは8世紀の初頭になってからですが,その間にさまざまな試行錯誤があって,天皇紀が定まっていったものと思われます。
 初代神武から33代推古までの天皇は,以下のごとくです。神武・綏靖・安寧・懿徳・孝昭・孝安・孝霊・孝元・開化・崇神・垂仁・景行・成務・仲哀・応神・仁徳・履中・反正・允恭・安康・雄略・清寧・顕宗・仁賢・武烈・継体・安閑・宣化・欽明・敏達・用明・崇峻・推古。ところがこのうち,10人以上の天皇が100歳以上生きたことになっています(「記」と「紀」で多少違いますが)。たとえば,神武天皇は「記」では137歳,「紀」では,127歳。孝安が123歳と137歳,孝元・開化は「記」で57歳と63歳ですが,「紀」だと117歳と115歳です。まだまだ何人もの天皇が100歳以上です。崇神などは「記」だと168歳,垂仁も153歳。ありえない長寿です。 さて,次回はその謎を解き明かします。

天皇陵ってなに?

 謎の3~6世紀の時代を解明する手掛かりがないわけではありません。古墳です。古墳こそは,タイムカプセルであり,すでに多くが盗掘されていたとしても,まだまだ沢山の手掛かりを遺してくれていることは,まちがいありません。
 ところが,畿内を中心とした重要な古墳の多くは,天皇陵あるいは皇族の陵また陵墓参考地として宮内庁が管理し,鉄条網で囲うなどして,いっさいの立入りを禁止しているのです。もちろん学術調査も認めません。明治以来の皇国史観の流れで,天皇の墓をあばくなどもってのほか,というわけです。
 しかし,明治初期に,陵墓と推定されるとした根拠は,極めてあいまいです。だいたい,「記紀」に登場する推古以前の30人の天皇は,矛盾だらけで不明な点があまりにも多い。100歳以上生きた,あるいは150歳を超えて生きた,さらには200歳以上などという天皇もいます。架空と思われる天皇も少なくありません。なぜそうなったのか。「古代天皇の謎」については,次回に述べますが,それらの天皇とその係累とされる皇族の墓として,数多くの古墳が宮内庁によって押さえられているというのは,納得いきません。古墳時代の陵墓で宮内庁指定と一致するのは,先にあげた天武・持統陵と,天智皇陵だけであると,考古学者は指摘します。では他の多くの天皇陵の被葬者は誰なのか,興味はつきません。
 いずれにせよ,それらの古墳の学術調査が実施されれば,古代国家成立の謎がかなり解明されることは,まちがいありません。そのことが現在の天皇家を貶しめることになる,などということも決してありません。戦前までならいざしらず,もはや万世一系を信ずる人はまずいないでしょう。むしろ,天皇家の先祖である大和大王家の歴史を明らかにし,日本国成立の謎を解明することの方が,天皇家を改めて見直し崇敬することにつながるのではないでしょうか。
 天皇陵とされる古墳は,宮内庁が抱え込んで隠蔽すべきものではなく,国民共有の貴重な文化遺産であり,学界の叡智を結集して調査研究すべき遺跡なのです。

謎だらけの古墳時代

 前回,宮内庁が陵墓に指定している奈良県桜井市の箸墓古墳と,奈良県天理市の西殿塚古墳の学術調査が許可されたというニュースを記しました。その結果,邪馬台国の謎が解明されるかも知れないと。しかし結果は,残念ながら何の成果も得られませんでした。学術調査を認めたというのは名ばかりで,ふだんは厳重な柵に囲まれて立ち入ることのできない墓域にちょっとだけ,学者・研究者が入ることを許されたというだけのことで,発掘調査はもちろん,石一つ拾うことも許されなかったのです。何ともばかばかしい結果で,腹が立ちます。
 箸墓と西殿塚は,宮内庁の指定ではそれぞれ,孝霊天皇の皇女ヤマトトトビモモソヒメと継体天皇の皇后タシラカ皇女の墓とされていますが,考古学的には邪馬台国の女王ヒミコと,ヒミコの次の女王トヨの墓の可能性が指摘されてきました。もし発掘調査されれば,仮にヒミコの墓でなかったにせよ,謎の3世紀を解明する手掛かりが得られたに違いありません。共に3世紀の中ごろから後半にかけて造られた古墳であると推定されているからです。
 日本で巨大古墳が造られるようになるのは3世紀からで,7世紀に天武・持統天皇の合葬陵を最後に消滅します。この間にいくつかの画期があり,畿内の大豪族である大和の大王家が,大和朝廷を成立させて,古代王権を確立します。そして,6世紀末の推古朝のころから,国家としての体裁が整い,大化の改新を経て律令国家となって,天皇家が確立されることになります。 この3世紀から7世紀にかけては,古墳時代とも呼ばれてます。巨大な前方後円墳や円墳が盛んに造られたからです。しかし,この間の歴史はかなりあいまいです。文献がないのですから,やむをえません。『古事記』『日本書紀』という,日本国の歴史を記した文献が登場するのは,8世紀になってからです。その「記紀」に記された「歴史」も,6世紀末ぐらいからはともかく,それ以前は伝承や創作によるもので,とても史実とはいえません。邪馬台国が登場し,大和朝廷が確立されるまでの,すなわち日本国の成立にかかわる3~6世紀の時代は,謎だらけなのです。


箸墓古墳


西殿塚古墳

*この空中写真は,国土地理院長の承認を得て,同院撮影の空中写真を複製したものです(承認番号 平25情複, 第64号) ホームページ内に記載されている情報及び画像の無断転載を禁止します。複製する場合には,国土地理院の長の承認を得なければならなりません。

邪馬台国の謎(2)

 邪馬台国は発見されるのか? 今年になって新たな動きがあり,考古学ファン・古代史ファンの注目が奈良に集まっています。桜井市の箸墓(はしはか)古墳と,西殿塚古墳の学術調査を宮内庁が許可したからです。
 昭和61年(1986)から63年にかけて,佐賀県で吉野ヶ里遺跡の発掘が進み,これまでの常識を覆す大規模な環濠集落が明らかになりました。その結果,ヤマタイ国北九州説が現実味を帯びて,改めてクローズアップされました。しかしその後,奈良県桜井市の纏向(まきむく)遺跡の発掘が進み,21世紀以降は,がぜんヤマタイ国大和説が有利になりました。ヤマタイ国の発見は,「魏志倭人伝」をいかに研究しても不可能で,考古学による決定的な発見に待つほかはない,というのは前回に述べた通りです。
 纏向遺跡は,3世紀初めごろに営まれたと推定される巨大集落遺跡です。古墳時代が始まるころ,奈良盆地の弥生のムラはほとんど衰退していますが,突如纏向遺跡が出現します。全国の古墳時代前期の遺跡の中でも飛び抜けて規模が大きく,何か大きな画期があって出現した大集落と考えられます。つまりヤマタイ国の遺跡の可能性が指摘されるようになったのです。とはいえ,今のところ,決定的な証拠は見つかっていません。しかし,すぐ近くにある箸墓古墳と西殿塚古墳の発掘調査ができれば,何らかの手がかりをつかめる可能性があります。いや決定的な物的証拠が出てくるかも知れない,と考える人も少なくありません。じつは,箸墓と西殿塚は,古くから,卑弥呼と卑弥呼の跡をついでヤマタイ国の女王となった台与(とよ)の墓ではないかという説があるからです。
 ところが,この二つの古墳は,宮内庁が陵墓として管理していて,学者・研究者を含めて一般の人は,いっさい墓域内に立ち入ることができませんでした。箸墓は,『日本書紀』により第7代孝霊天皇の皇女倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトビモモソヒメノミコト)の陵とされ,西殿塚は,第26代継体天皇の皇后手白香(タシラカ)皇女の陵とされているからです。しかし100歳以上生きたという孝霊天皇の実存は疑わしく,箸でホトを突いて死んだというヤマトトトビモモソヒメも伝説上の女性にすぎません。西殿塚は,箸墓にやや遅れて3世紀に造られたと推定され,6世紀に比定される手白香皇女の墓ではないことは明らかです。
 さて,この両古墳の発掘調査を宮内庁が認めたことは,日本の考古学にとって大きな前進です。じつは宮内庁が陵墓あるいは陵墓参考地として管理している古墳は600もあります。これらの古墳が公開されれば,謎の3~6世紀の歴史が大きく解明されるはずです。二墓に続いてその他の陵墓とされる古墳の公開があるのか,注目されています。さて,ヤマタイ国とヒミコの墓は発見されるのか,やはり幻に終わるのか?