「生類憐みの令」は,徳川5代将軍綱吉の時代,生きとし生けるものの命を大切にして愛護するという,幕府の政策を指していいます。「生類憐みの令」という法令が出されたわけではありません。
この政策は,世界でも早い時期の,国家による動物愛護の政策として,イギリスの動物愛護団体などから高い評価を得ています。しかし,江戸っ子たちにとっては,きわめて迷惑な政策でした。野犬に噛まれそうになった我が子をかばい,犬を蹴飛ばしたところ,けしからんということで牢につながれた例もありました。犬といわずに「お犬様」といわなければなりませんでした。
江戸市中に多かったものを称して「お伊勢,稲荷(いなり)に犬の糞」といいます。伊勢参りが盛んでどこの家にも伊勢神宮のお札があり,お稲荷さん(稲荷神社)も大流行で江戸の各所にありました。そして「犬の糞」です。野犬がやたらに多かったのです。
どのぐらい多かったかというと,元禄8年(1695年)江戸中野に作られた犬小屋で養われていた野犬だけでも,何と10万頭を超えたといいます。その費用は,すべて江戸市民の負担でした。
徳川綱吉は,なぜこれほどの動物愛護政策をとったのでしょうか。
これは,綱吉の生母である桂昌院(けいしょういん)と,桂昌院の寵僧である江戸護持院の僧隆光(りゅうこう)によるところが大きいのです。2人は,綱吉が戌年(いぬどし)生まれであるところから,犬を大切にすることによって治世がよくなり,名君と褒(ほ)め称えられるであろうと,綱吉に諭したのだといいます。真偽のほどはともあれ,犬愛護令よりも早く,諸国に,厳しい処罰条項と共に公示されたのが,「捨馬禁令」でした。
馬は農民にとっても重要な動物でした。農耕馬の果たす役割は,極めて大きなものだったのです。ですが離れ馬,捨て馬となると話は別です。そうした馬は田畑を荒らし,農村に大きな被害をもたらしました。尻尾を切り取った馬の像が神社に飾られたりしているのは,馬の害に合わないよう祈願したものです。
また,野犬の横行が目立った江戸では,捕まえて食べる者もいました。「羊頭狗肉(ようとうくにく)」という格言があるように,狗肉すなわち狗(いぬ)の肉は中国でも食べられていました。今でも中国の一部では,食用の犬が飼育されています。
なお,生類憐みの令の「生類」は,次々にエスカレートしていきました。獣肉を食べないことはもちろんのこと,日常の食料である魚介類にまで及んだのです。食べないことはもちろんのこと,鳥や魚など籠や鉢に入れて飼うことも禁じられたのでした。オミクジを引く小鳥や,芸をする猿などもご法度(はっと)です。
しかし,宝永6年(1709年)正月,徳川綱吉が没しますと,生類憐みの令も実質的に廃棄されることになりました。ただし,捨子(すてご)と捨牛馬を禁ずる法は,以後も幕法として出され続けました。牛馬はともあれ。子を捨てるという,あってはならないことが,少なからずあったのです。中絶や堕胎がままならなかった江戸時代ですので,産んでから捨てるということになります。いずれにせよ,本来許されるべきことではありません。
江戸時代を再検討する Ⅲ
芭蕉「奥の細道」の旅に出る
芭蕉が門人の河合曾良(かわいそら)を伴って,「奥の細道」の旅に出発したのは,元禄2年3月27日(現行暦では1689年5月16日)のことでした。すでに郭公(カッコウ)や時鳥(ホトトギス)の初音(はつね)も聞かれ,蛙の大合唱なども聞こえたことでしょう。
旅の第一日目,芭蕉と曾良は,隅田川を船で遡って千住(せんじゅ)に上陸し,日光街道を辿(たど)って草加(そうか。今の埼玉県草加市)へと行きました。「奥の細道」の旅は,千住で船を上がるところから始まり,美濃大垣(今の岐阜県大垣市)で船に乗るところで終わります。つい見過ごされがちですが,江戸時代の旅は,川船を利用することが少なくありませんでした。
「その日やうやう草加といふ宿(しゅく)にたどり着きにけり。痩骨(そうこつ)の肩にかかれる物,まづ苦しむ。ただ身すがらにと出て立ちはべるを,紙子一衣(かみこいちえ)は夜の防ぎ,浴衣,雨具,墨,筆のたぐひ,あるひはさりがたき餞(はなむけ)などしたるは,さすがにうち捨てがたく,路次の煩(わずら)ひとなれることわりなけれ」
身一つで旅に出ようと思ったのに,なんだかんだ餞別まで含めて荷が増え,痩せた肩に重荷が食い込んで音(ね)を上げつつ,どうにか,草加の宿に辿り着いたというのです。痩身の老翁が,重荷にあえぎ,やっとの思いで旅の第一日目を終えた様子が彷彿とします。
ですが,だまされてはいけません。芭蕉はこのとき満45歳,心身共に充実した壮年です。芭蕉は「奥の細道」に,「呉天(ごてん。遠い異郷の地)に白髪の憾(うら)みを重ぬといへども,耳に触れていまだ目に見えぬ境,もし生きて帰らば,と定めなき頼みの末をかけ」云々などと記し,いかにも年老いて悲壮な決意のもとに旅立った風を装っていますが,それはあくまでも俳人としての文学上の表現なのです。千住から草加まで二里八丁,9キロ弱しかありません。それぐらいで音を上げていては,江戸時代の旅はおぼつきません。
徒歩が基本の江戸期の旅では,女性でも1日30キロメートルぐらいは歩きました。芭蕉も結構健脚で,時には40キロメートルぐらいを平気で歩き通しています。事実この日も,曾良の日記によれば,泊まったのは草加ではなく,さらに4里10丁(約17キロ)先の粕壁(かすかべ。現在の春日部市)でした。
芭蕉は,関東と関西の間は何度も往来していて,信州や中部地方にも足を運んでいました。ですけれど,芭蕉の胸中には常に,「北への憧れ」があったと思われます。いつの日か,かつて能因(のういん)法師や西行(さいぎょう)も辿った東北地方や北陸の地を彷徨(ほうこう)したい。その思いが叶(かな)ったのが,「奥の細道」の旅だったのです。日光や那須野を経て,白河の関を越え,いよいよ陸奥(みちのく)への第一歩をしるしたのは,4月20日のことでした。
いま,4月20日ごろの白河の関跡を訪ねると,ピンクのカタクリの花と真白いアズマイチゲの群落が,芽吹き始めた林の下一面を彩って美しい。もっとも芭蕉が訪れた4月20日は,現在の太陽暦では6月7日です。卯(う)の花の盛りでした。
水戸光圀はなぜ「黄門」なのか
水戸黄門といえば何といっても,助さん,格さんを連れての諸国漫遊譚が有名です。各地で悪をこらしめ,善行をほどこし,最後に葵(あおい)の印籠(いんろう)をかざして,「ここにおられるのは天下の副将軍水戸のご老公なるぞ」で,一同ハハァーとひれ伏すという,毎度おなじみのワンパターンですが,何とも痛快でおもしろく,人気が高い。
戦前の映画では,山本嘉一の黄門役に,片岡千恵蔵,阪東妻三郎の助さんと格さんが有名でした。戦後の映画での黄門役は,大河内伝次郎,市川右太衛門,月形竜之助,長谷川一夫,伴淳三郎,森繁久彌,中村鴈治郎,柳家全語楼など錚々(そうそう)たる名優たちが演じています。テレビ時代に入ると,月形竜之助にはじまり,東野英治郎,西村晃,佐野浅夫らが演じて人気を保ってきました。
もちろん,映画やテレビの水戸黄門像は,史実とはかけ離れたものです。副将軍たる身分の大大名が,一介の百姓の爺さんの恰好をして,ひょこひょこと全国を旅して巡るなどということは,ありえないことです。副将軍というのもウソで,徳川幕府の職制に副将軍などというものはありません。ですけれど後世の民衆は,光圀に自分たちの夢を托して,伝説を創っていったのです。将軍にずけずけものをいう天下の御意見番,高い身分でありながら,庶民の側に下りてきて善政を施す政治家という黄門像を創り上げ,自分たちの味方としたのです。
さて,光圀は寛永5年(1628)6月,ご三家の一つである水戸藩主徳川頼房の3男として生まれました。頼房は,徳川家康のいちばん末の子(11男)です。つまり光圀は,家康の孫に当たります。
光圀の幼名は長丸(ちょうまる),のち千代松,9歳のときに元服して,3代将軍家光の「光」の字をもらい,「光国」と名乗りましたが,晩年に「国」を「圀」に改めました。字(あざな)は子竜(しりゅう),号は常山(じょうざん),また梅里(ばいり),隠居してからは西山(せいざん)と号しました。諡(おくりな)は義公(ぎこう)です。
それが,なぜ「黄門」なのでしょうか。じつは,光圀の位は従三位(じゅさんみ)中納言です。中納言の唐名が黄門ですので,後世「水戸黄門」と通称されるようになったのです。生前に光圀が黄門と称されていたわけではありません。
少年時代の光圀は,とにかくきかん気のわんぱくであったといいます。7歳のとき,父の頼房が,手討ちにした死罪人の首を持って来れるかと問いますと,屋敷から500メートルも離れた暗い森の中を,ずるずると首を引きずって戻って来たといいます。15,6歳のころには,「かぶき者」を気取った不良少年になり,放蕩無頼のかぎりをつくすのですが,18歳のとき,『史記』の「伯夷伝(はくいでん)」を読んでこれまでの行状を改め,学問に精を出すようになったといいます。このころ光圀が編纂を志した『大日本史』は,何と250年をかけて,明治39年(1906)に完成します。元禄7年(1694)11月,光圀は江戸の幕邸に老中以下幕閣の要人を招いて,能の興行を行ないますが,この席で家臣の一人藤井紋太夫を刺殺します。高慢で奢りがあったからといいますが,若き日の暴れん坊の激しい気性が残っていたのでしょうか。元禄13年(1700),73歳で生涯を終えました。
大石内蔵助と元禄赤穂事件
赤穂(あこう)事件がなければ,大石内蔵助(くらのすけ)の名が歴史に残ることはなかったでしょう。地方の一小藩の国家老ではありましたが,地方史にすら名が残ることはなかったと思われます。ですけれど,赤穂事件によって大石内蔵助は,一躍(いちやく)超有名人になってしまったのです。
赤穂事件とは,元禄15年(1702)12月14日夜(正確には15日未明),赤穂浪士47人が,吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ/よしなか)邸に討ち入り,亡君浅野内匠頭長矩(たくみのかみながのり)の仇討ちを遂げた事件です。
事件の発端は,討ち入りの1年9ヵ月前,江戸城中松の大廊下で起こった浅野内匠頭の刃傷事件です。その日,江戸城本丸では,天皇・上皇からの使者である勅使・院使が,将軍に別れの挨拶をする儀式の日でした。浅野内匠頭は,高家(こうけ。幕府の儀式典礼を司る家柄)筆頭の吉良上野介義央の指導のもとに,勅使の接待役を仰せつかっていました。
ところが,その儀式の直前,浅野内匠頭が突然,吉良上野介に斬りかかったのです。そばに居た梶川与惣兵衛(かじかわよそべえ)が,すぐさま内匠頭に飛びかかったため,上野介は額を傷つけられただけの軽傷ですみました。しかし,大切な儀式の日に,江戸城中で起こった殺人未遂事件です。将軍綱吉の厳命で,現行犯の浅野内匠頭は即日切腹,赤穂藩も取り潰されてしまいました。
これで終われば,江戸城中における浅野内匠頭の乱心事件として,歴史に1行をとどめたにすぎなかったでしょう。しかし,1年9ヵ月後に,廃藩で浪々の身となった大石内蔵助を中心とする旧赤穂藩士たちが,亡君の仇討ちということで吉良邸に討ち入り,大殺戮のすえ,吉良上野介を殺害したのです。50日後,大石内蔵助以下討ち入った浪士たちは,全員切腹させられました。
この事件は,たちまち江戸中の評判となり,日本各地に伝えられていきました。民衆はこれを「快挙」とし,浪士たちを「義士」とあがめ,やがて「忠臣蔵」がつくられていくことになります。
「忠臣蔵」というのは,本来は人形浄瑠璃や歌舞伎の代表作である「仮名手本忠臣蔵」を指していいます。現在は,その他各種の演劇や,講談,映画,テレビドラマを含め,いわゆる義士物の総称が「忠臣蔵」となっています。
大石内蔵助は,その「忠臣蔵」の主役です。赤穂47士の首魁として吉良邸に討ち入り,山鹿(やまが)流軍学をもって決死の浪士たちを指揮する内蔵助のイメージは,一軍の将たるにふさわしい堂々たる偉丈夫です。しかし実際の内蔵助は,背も低く,小肥り気味の人物であったといいます。また,ある資料には,痩せすぎの小男であったと記されています。「昼行灯(ひるあんどん)」と称され,ふだんはぼんやりとした人物であったようです。
ですが元禄14年3月14日をもって,赤穂浅野家の「昼」の時代は終わりをつげます。赤穂事件によって「夜」の時代に突入した赤穂家にとって,無用の長物であった行灯が,いよいよその真価を発揮することになるのです。刀傷事件以後,討ち入りまで,大石内蔵助がいかに活躍したかは,あえて記す必要はないでしょう。
富士山の大噴火と未曾有の大災害
宝永4年(1707年)10月4日の午前10時ごろ,太平洋沖を震源地とする巨大地震が日本列島を襲いました。マグニチュード8・4と推定され,震度6以上と思われる地域は,駿河から四国の端にまで及び,房総から九州に至る太平洋沿岸を津波が襲ったのです。
富士山南麓では,地割れで地下水が噴き出したり,山崩れで集落が全滅するなど,大きな被害を出しました。その山崩れは富士川を塞き止め,3日夜には決潰して濁流を駿河湾へと押し出し,海上のはるか先まで濁流の帯が続いたといいます。大地震の翌日の10月5日の午前8時ごろ,再び富士山麓を中心に巨大地震が発生しました。この2日間の地震で,少なくとも死者2万人,流失家屋2万戸,全半壊等の家屋の被害は10万戸を超えたと推定されています。
富士山が突然大爆発を起こしたのは,地震からおよそ50日後の,宝永4年11月23日のことでした。頂上からの噴火ではなく,火を噴いたのは6合目付近の南東斜面でした。噴火は12月8日の夜半まで続き,山麓の村々を焼いたり灰に埋めたりしただけでなく,駿河・相模・武蔵の国々に,降灰による未曾有の被害をもらしたのです。噴火のあとには巨大な噴火口と,その縁(ふち)に盛り上がった新山・宝永山(ほうえいざん)ができました。
西風に運ばれた火山灰が江戸の町に降りはじめたのは,大噴火の日の11月23日の午後3時ごろからです。新井白石の『折たく柴の記』によれば,はじめは鼠色の灰が降り,次第に激しくなり,やがて夕立のごとく黒砂が屋根を叩き,江戸中が真暗になったといいます。白石は講義中でしたが,燭(しょく)をともして授業を続けた,と同書に書き記しています。風下に当たる富士山東麓の被害は甚大で,須走村(すばしりむら)などは,火山灰や火山礫に埋まって全滅しました。当時の記録によれば,山麓では3尺から5尺(約90センチから1・5メートル)灰が積もったといいます。
昭和36年(1961年)に御殿場市(ごてんばし)の中畑(なかばたけ)で発掘された住居址を見ますと,火山灰の深さは約2メートル,その下に細かな軽石が15~20センチの層をなしていました。この厖大(ぼうだい)な火山灰は,田畑を埋め尽くしただけでなく,雨で酒匂川(さかわがわ)に流入し,川底を押し上げました。このため大雨のたびに氾濫し,足柄平野(小田原市)に洪水をもたらすという,二次災害を招いたのです。
この降灰被害をもろに受けたのが,小田原藩領の農民でした。潰滅的な打撃を蒙った小田原藩では,なす術(すべ)がありません。そこで藩内104ヶ村4000人の農民たちは,幕府に救済を求めました。幕府は,小田原藩による自力復興に困難を認め,宝永5年閏(うるう)正月,藩領のうち190ヵ所5万6千石分を上知(あげち)します。すなわち,その分を天領に組み入れ,幕府が直接復旧工事に当たることにしたのです。
その責任者に任命されたのが,関東郡代の伊奈半左衛門忠順(ただのぶ)です。
幕府は諸大名に対し,石高百石につき二両宛の国役金を賦課し,計48万両余が集まったといいます。だが実際に復旧工事に導入されたのは16万両にすぎませんでした。もっともらしい名目を立てて増税し,ちゃっかり他に流用するという国家の体質は,今も昔も変わりません。しかし伊奈忠順は,農民救済のために奔走し,独断で駿府の代官所の米蔵を開け,各村々の窮民たちを救済するのです。そのため忠順は罷免され,正徳2年(1712年)2月,切腹して自ら命を絶ちました。罹災地がすべて旧に復したのは,30年後のことでした。
八百屋お七の放火事件
「火事と喧嘩は江戸の華」。江戸ッ子は気が短かく,喧嘩騒ぎは日常茶飯事です。「てやんでい」「べらぼうめ」,とはいえ,翌日にはケロッとして,喧嘩相手と酒を飲んでいたりします。
その喧嘩と同じくらい,火事も多くありました。特に冬は,暖を取るためもあって火をよく使いました。当然のことながら,先火が少なくありません。空気が乾燥しているうえに,北西の季節風が吹きます。さらに,江戸の町は大名屋敷を除き,密集していて,町屋のほとんどは木と紙でできていました。屋根も板葺きか,茅葺き・藁葺きが多かったのです。
町屋の多くが瓦葺きとなり,火除(ひよけ)地などが造られるようになったのは,大岡越前守忠相(ただすけ)が江戸町奉行に赴任して以来のことでした。
享保元年(1716年)8月,徳川吉宗が第8代将軍となりました。翌享保2年の1月,江戸は大火に見舞われます。将軍の膝元である江戸の町の復興と治安維持,景気回復が急務となりました。2月,吉宗は,江戸町方の行政官のトップである江戸町奉行に,大岡越前守忠相を任じます。41歳,異例の出世でした。
忠相は,吉宗の期待にたがわず,いかんなくその実力を発揮します。享保の改革です。
忠相がもっとも力を入れたのは,江戸の町を火災から守ることでした。それまでの江戸の町屋は,前述したようにほとんどが茅葺きか藁葺き,あるいは板葺きでした。忠相は瓦屋根を奨励し,半ば強制的に瓦屋根の町並みをつくりました。いっぽう,延焼をおさえ,消火活動をしやすくするために,火除地もつくりました。神田にあった護持院が消失すると再建をゆるさずに,その跡地を空地のままにして,火除地にしたことは有名です。
同時に忠相は,消防組織を新たにつくりました。いろは47組の町火消の制度です。もっとも「へ組」「ら組」「ひ組」は語呂(ごろ)が悪いので省き,代わりに「百組」「千組」「万組」としました。彼らは,いったん火事が発生すると,まといを持ち先を争って現場に駆けつけ,命がけで消火活動にあたりました。やがて,町火消の男衆は,江戸ッ子を代表する花形スターとなりました。
もっとも町火消が活躍するのは,19世紀になってからです。大名火消が設けられたのは,江戸最初の大火である桶町火事(寛永18年=1641年)の翌々年,さらに定火消の制が創設されたのは,振袖火事として知られる明暦の大火(明暦3年=1657年)の翌年(万治元年)のことでした。
火事にまつわる話はいろいろありますが,もっともよく知られているのは,八百屋お七の放火事件ではないでしょうか。お七は,生きたまま火あぶりの刑,すなわち火刑に処せられました。天和3年(1683年)3月29日のことです。いきさつは,こうでした。
本郷丸山の八百屋の娘お七は,天和元年の火事で家を焼き出され,一家で駒込の吉祥寺に寄宿しました。ここで,寺小姓の美男吉三郎とデキてしまいます。お七は心身共に激しく燃え上がります。ですが,家の新築が成ると,家に帰らなければならなりません。すなわち吉三郎とは別れなければならないのです。そこでお七は,あさはかにも,新築成った我が家に火を付けてしまいます。家が燃えれば吉三郎に会えると。
しかし待っていたのは放火の刑でした。放火は最重罪です。かくてお七は,生きたまま火あぶりの刑に処せられたのでした。
絵島生島事件
江戸城大奥には,多いときで,およそ千人の女性が居住していたといいます。大奥は,江戸城本丸の一郭を占め,将軍の正室(御台所=みだいどころ)および側室たちが居住し,将軍の居室である中奥と,お鈴廊下と呼ばれる長い廊下で結ばれていました。ただし,この廊下を通って大奥へ行くことのできる男性は,原則として将軍一人に限られていたのです。だから,もし大奥で子供が生まれれば,すなわち将軍の子とだということになります。
絵島は,天和元年(1681)に,江戸で生まれたといわれています。美人で才気煥発(さいきかんぱつ)。二十四歳のとき,六代将軍家宣(いえのぶ)の側室左京の局(後の月光院)の女中となって大奥に入りました。そして左京の局が将軍家宣の胤(たね)を宿し,出産のときにはその係として,御年寄という重職に取り立てられたのです。御年寄は,すなわち大奥の女中頭のことです。江戸城大奥を総轄するトップの地位にのぼったということです。このとき絵島三十三歳,まだまだ美貌の女盛りでした。
このころ,幕政を左右していたのは,家宣の寵臣であった間部詮房(まなべあきふさ)と在野の学者新井白石,それに月光院でした。譜代の重臣たちにとって,面白いはずがありません。家宣の正室であった天英院は,京都の五摂家の一つ近衛(このえ)家の出です。天英院にしてみれば,月光院はたかが町家の娘にすぎません。それが権勢を振るうなど,許すべからざることなのです。
家継は詮房によくなつき,詮房が帰ろうとするといやがったので,詮房はつい,大奥の月光院の部屋に長居することが多かったといいます。こうしたことは,天英院はじめ他の側室たちにとって,大いなる妬(ねた)みとなりました。詮房と月光院との間の,見てきたような醜聞が言いふらされたのは,やむをえません。しかし,絵島も月光院も詮房も,めげるどころか,ますます権勢を誇っていったのです。悪くいう者がいる一方で,すり寄ってくる者も多く,ことに絵島のもとには,大奥出入りの業者をはじめ多くの者たちが,その権勢の傘の下に入ろうと集まってきました。
とはいえ,嫉妬と陰謀の渦巻く女だけの世界です。人世の充足感,幸福感は望みえなかっでしょう。奥女中たちの最大の楽しみは,宿下(やどさが)りであったといいます。すなわち外出を許す日です。奉公三年目で,やっと年に六日の宿下りが与えられました。このほか,上級のものたちは,年に何回か主人の代参で寺社に行くなど,公用による外出がありました。
外出は一日限りで,外泊は許されませんでした。しかし,公用はほとんど午前中で,午後六時に御錠口(おじょうぐち)が閉まるまでの間は,自由でした。そのアフタータイムの最大の楽しみは,芝居見物であったといいます。
正徳四年(1714)正月,絵島は月光院の命で,芝増上寺の将軍家法会に代参することになりました。同じく大奥の年寄宮地(みやじ)も,上野寛永寺に代参しました。それぞれの一行は,代参をすませたのちに落ち合い,木挽(こびき)町の山村座へ観劇に行きました。山村座での主演は,人気絶頂の和事(わごと)役者,生島新五郎です。和事とは恋愛・情事のことです。桟敷席には酒肴が運ばれ,幕間には生島をはじめスターたちが次々にやってきて接待したといいます。
絵島は羽を伸ばし,帰城したのは門限ぎりぎりでした。酔った女中たちの嬌声が響き,吐いたりした女中たちもいました。このことは絵島失脚を狙う一派に,絶好の口実を与えることになったのです。特定の業者と癒着したり,代参に名をかりて役者遊びをしたりするなど,言語道断だというわけです。
結局絵島は,高遠の内藤家に預けられ,囲屋敷で,一汁一菜の食事が朝夕二回だけ。近くの寺院への寺参以外は一歩も屋敷を出ることが許されませんでした。墨や筆さえも与えられなかったといいます。絵島はそうした境遇のもとで,ひっそりと二十八年間を生き,寛保元年(1741)四月,六十二歳の人生を終えました。生島新五郎は,絵島の死んだ二年後,赦免となって江戸に戻りました。七十二歳。往年の人気役者を知る者は少なく,翌年,さびしく亡くなったといいます。
現在,高遠城の一郭に,絵島の囲屋敷が復元されている。その片隅に,絵島・生島の比翼塚があります。
吉宗,小石川療養所を設立
徳川幕府が,小石川薬園(東京都文京区)内に,総合病院である養生所を設立したのは,享保7年(1722)12月のことです。町医者小川笙船(しょうせん)による施薬院(せやくいん)建設の建白(けんぱく)を幕府が採用したのは,この年の正月のことでした。
笙船が建白したこの養生所,じつは単なる施薬院(病院)ではありません。普通では医師に看(み)てもらうことのできない,極貧の病人たちのための施設なのです。
小川笙船は,寛文12年(1672)に生まれた江戸時代中期の町医者です。建白書を幕府に提出したときには,満年齢で50歳でした。もともとは近江(滋賀県)の人でしたが,笙船の代に江戸に出て小石川で開業し,幕府に養生所建設を建白したのです。施薬院を設けて貧しい病人を救うという意見が幕府当局によって採用され,幕府が管理運営する小石川薬園内に施薬院が開設されて,養生所と名づけられたのです。
杮葺(こけらぶき)の養生所を中心に,病人長屋,薬煎(やくせん)室,薬部屋,薬調合室,役人詰所,中間部屋,台所,物置からなる結構な病院施設です。しかし,この病院施設,一般の人は看てもらうことができません。対象となるのは,看病人のいない極貧の病人だけで,いっさい無料です。
設立時の収容人数は40人,あとは通い治療です。しかし翌年から,通いの治療は廃止されました。ただで病気を治してもらえるというので,通院者が増えて大変だったからです。それでも入院者は多く,享保18年(1733)には117人となり,以後,117人が定員となりました。逗留期間は8カ月です。江戸町奉行の支配下にあって,与力2名,同心10名が,運営にあたりました。設立当時の医師は,寄合医師と小普請(こぶしん)医師の2名で,小川笙船が肝煎(きもいり),すなわち院長でした。
享保8年以降,本道・外科・眼科の本勤が5名,それに見習医師も加わりました。
なお,養生所が開設されたときの江戸町奉行は,大岡越前守忠相(ただすけ)です。
幕府直営の小石川薬園の起源は,寛永15年(1638),江戸城の南北,品川と牛込(うしごめ)に薬園が設けられたのに始まります。北薬園は,牛込薬園また大塚薬園とも呼ばれ,小石川音羽(おとわ)の地(東京都文京区)に設けられました。いっぽう南薬園は,麻布広尾(あざぶひろお=東京都港区)に造られ,麻布薬園また品川薬園といわれました。
その後,北薬園は,天和元年(1681),この地に護国寺が創建されることになって,薬草木は,南薬園に移され,小石川薬園と称されることになります。以後,小石川薬園は,明治維新まで,薬用植物の栽培と生薬(しょうやく)の供給に,大きく貢献したのでした。なお,園地は東西各四千八百坪。青木毘陽が東側の薬園に甘藷(かんしょ=さつまいも)を試作したのは,享保20年(1735)のことでした。
明治元年(1868),小石川薬園は東京府の所轄となり,その後所轄が転々としますが,明治8年に文部省博物館の所轄となって,小石川植物園と改称され,次いで東京大学の付属となり,教育・研究用の植物園となって現在に至るのです。
なお養生所は,慶応元年(1865)江戸町奉行の支配を脱し,明治元年に鎮台府の管轄にかわり,貧病院と称しますが,間もなく廃止されました。
大飢饉で大くの餓死者が出る
「享保の飢饉」は,享保17年(1732)に畿内以西を襲った大飢饉で,天明・天保の飢饉と併わせて,江戸の三大飢饉と呼ばれています。
餓死者はおよそ1万2千人,同じく餓死した牛馬は,1万4千匹にのぼりました。
享保17年は,前年の冬以来天候が不順で,暖冬でしたが春になると雨の降る日が多く,夏になっても冷雨が続きました。その上,各地で洪水や,逆に水不足による田畑の荒廃が目立ちました。
低温によって作物の成育は悪く,それに誘発されて虫害が起こったのです。飢饉の原因は,多くは虫害によるもので,作物の出来が例年の半作以下だった藩は,46藩に及んだといいます。虫害を起こした虫の種類は,『草間伊助記』によれば,
「此虫,後に大きに相成りこがね虫の如く(中略),形ち甲冑を帯しるやうにありて,一夜の中(うち)に数万石の稲を喰ひ,田畑夥敷(おびただしく)損毛有之(そんもうこれあり),士民飢渇に及び,西国筋より五畿内大坂辺迄(おおさかあたりまで)道路に倒れ候もの数しれず……」
とあります。また幕府の公式文書にも「蝗」の文字が頻出し,蝗害(こうがい)すなわち蝗(いなご)による虫害であったことが判ります。
もっとも被害が大きかったのは伊予松山藩(15万石)で,それ以前5ヶ年平均で12万石を超える年貢収入があったのに対し,この年は皆無で,飢え死にしたもの3489人,斃死した牛馬は3097匹に及んだといいます。このため藩主の松平定英は,「備えが不充分であった」として,幕府への出仕を停止させられています。
幕府の対応は素早く,すぐさま勘定所役人を現地に派遣し,勘定吟味役の神谷久敬を大坂へやって,救済の総指揮をとらせています。救援方法としては,被害のなかった東山,東海,北陸諸藩などの米を西国に回送するとともに,幕府自身も多くの救援米を送り,鹿児島藩など,蝗害のひどかった大名地に,それぞれの石高に応じて恩貸金を与えるなどです。この飢饉は大規模なものでしたが,幸いにして翌年は豊作であったため,一年で収まりました。
しかし,この飢餓が社会に与えた影響は大きかったのです。享保18年正月26日,江戸で最初の打ちこわし「高間騒動」が起こります。本来江戸に入るべき米の一部が,救援米として緊急輸送されたため,困窮した日稼ぎなどの細民が,江戸の米問屋を襲ったのです。襲われたのは,高間伝兵衛の江戸日本橋店です。伝兵衛は,江戸米問屋八人組の筆頭で,かねてから,米の買占めなど暗躍していると噂のあった米穀商でした。
また幕府は,享保19年正月,天領における定免破免条項を改訂し,同3月には諸国産物帳を令しています。それは丹羽正伯(しょうはく)に命じて諸国の産物を調べさせたもので,諸国に産する穀類はもちろん,すべての産物に及び,そのほとんどに「人食す」「人不食」「能書不知」など註釈が入っています。またその産物は,菌類,木類,魚類,鳥類,虫類,蛇類等あらゆる産物に及んでいました。また,享保17年12月,飢餓等によって社会不安が激化した場合,代官所の役人では対応できない非常に備えて,あらかじめ江戸に伺うことなく,近隣大名の兵力を借りることを認めるという布達も出しています。それまで諸大名は,幕府の許可なしには一兵も動かすことができなかったのです。なお,この飢餓を機に,害虫防除への関心が高まり,鯨油を用いてウンカを駆除する方法等が広まったのでした。
幕府,尾張藩主徳川宗春を監禁
徳川御三家の筆頭である尾張徳川家の重臣5人が,江戸城に召喚されたのは,元文4年(1739)1月12日のことでした。そこで彼らは,時の将軍徳川吉宗から,次のような厳しい命を受けました。
「尾張藩主徳川宗春(むねはる),行跡よろしからず,よって隠居謹慎すべし」
御三家筆頭ということは,俗にいう徳川三百藩のトップに位置します。その尾張藩の長が謹慎させられたのです。まさに未曽有の大事件でした。ですが,各大名家の動揺も世間の評も,さして大きなものではありませんでした。むしろ幕府の動きは遅きに失するという評の方が少なくなかったのです。というのは,宗春の行跡にいろいろ問題があったからです。
元文4年の時点で,宗春は44歳,藩主に就任して9年目でした。いっぽう徳川吉宗は56歳,将軍職に就任してより23年の実績を積んでいました。ですが宗春は,何かと将軍吉宗に楯つくのでした。将軍が吉宗でなければ,尾張藩は取り潰し,宗春は死罪ということになっていたかもしれません。
もともと紀州藩から入って将軍となった吉宗と,尾張藩との間には,遺恨があったとされています。正徳6年(1716=享保元年)4月,7代将軍家継(いえつぐ)が,わずか8歳の若さで病没しました。家継に子供がいるはずはなく,将軍候補は御三家の3人にしぼられました。
筆頭が尾張藩の徳川継友(つぐとも)26歳。
次席が紀州藩の徳川吉宗33歳。
末席が水戸藩の徳川綱條(つなえだ)61歳。
当時幕府は,極度の財政困難にあえいでいました。これを立て直すには,紀州藩の財政再建に成功した吉宗しかいない,という評判が強かったのです。しかし内意を受けた吉宗は,
「年齢と家格から申せば綱條殿,家格から申せば継友殿」
と自らの将軍位を固辞したといいます。しかし,尾張継友には浅慮粗暴の噂があり,藩主としての経験も乏しく,実績は無いに等しかったのです。また,綱條は還暦を越えており,いい年でした。
結局,8代将軍には吉宗が決まりました。尾張藩は,つい近年の三年の間に,吉通(よしみち),五郎太と藩主が連続して急逝していました。尾張藩ではこれを,将軍位を望む吉宗と紀州藩の陰謀ではないかと……。
吉通は,6代将軍であった亡き家宣(いえのぶ)の信任が厚かったので,もし長生きしていれば,8代将軍は,尾張吉通ですんなりと決まっていたであろうと思われます。しかし吉通は,家継の在任中に,25歳の若さで急死してしまいます。尾張藩にとってみれば,まことに惜しむべきことでした。とはいえ,吉宗による暗殺説には無理があります。
吉通の子の五朗太は,僅か3歳で藩を継いだものの,間もなく亡くなってしまいます。継友も享保15年(1730),39歳で病没しました。こうして尾張藩の家督を継いだのが,宗春でした。
ですが,尾張藩の財政も逼迫(ひっぱく)していました。しかも複雑な派閥の状況下にありました。というのは,吉通には39人もの子があり,それぞれ母親が違いました。早世した子が少なくなかったのですが,それでも複雑な派閥が構成されていました。宗春は20男で部屋住みの身です。藩主を継げる位置ではありません。やっと陸奥梁川(やながわ)3万石の大名になれたのが34歳のとき,そしてこの年,本家の継友が急逝したため,何と思いもかけず尾張藩主となったのでした。
当時,幕府財政および各大名家の財政は逼迫しており,いずれも質素倹約を旨としていました。しかし宗春は,豪華・華美な藩政を貫くのです。祭りも奨励し,芝居小屋や遊里を許し,自らも白牛にまたがり5尺(1.5メートル)もある大煙管(きせる)をくゆらせて城下を練り歩きます。結局尾張藩は内部崩壊し,宗春は吉宗によって名古屋の下屋敷に幽閉されました。しかし25年間監禁生活を送りつつ,宗春は明和元年(1764年)69歳まで生きました。ですが,死後も墓石は金網におおわれていたといわれています。