当ホームページにて「ちはやぶる日本史」を連載していただいておりました,高橋千劔破先生が2024年1月6日,逝去されました。心からご冥福をお祈りいたしますとともに,謹んでお知らせ申し上げます。
先生は教科書などで語られる歴史とは一味ちがった,「洒脱な味のある面白おかしい歴史」をモットーに,2012年より長きに渡りご執筆いただきました。衷心より深く感謝申し上げます。また,お読みいただきました皆様に御礼申し上げます。
私たちは過去から未来に向かって,今という時を生きています。ただ漠然と生きているわけではなく,よりよき未来を求めて考えながら歩いています。ですけれど,未来を考えるためには,今を知ることが必要です。そして,今を知るためには過去すなわち歴史を知らなければなりません。今という時は,先人たちが営々と築いてきた,そして今も築き続けている歴史の上に成り立っているからです。
「歴史を知らずして今を語ることなかれ。今を判らずして未来を語ることなかれ」
です。
それでは,今を知るために,そして未来を語るために歴史の森へ分け入ってみることにしましょう。とはいえ,これから語ろうとするのは,小むずかしい学術的な歴史ではありません。教科書などで語られる歴史とは一味ちがった「へえー。そうなの」という,おもしろく興味深い話です。どうぞ気軽におつき合いください。
高橋ちはや
高橋千劔破(たかはし・ちはや)
1943年東京生まれ。立教大学日本文学科卒業後,人物往来社入社。 月刊『歴史読本』編集長,同社取締役編集局長を経て,執筆活動に入る。 2001年,『花鳥風月の日本史』(河出文庫)で尾崎秀樹記念「大衆文学研究賞」受賞。 著書に『歴史を動かした女たち』『歴史を動かした男たち』(中公文庫), 『江戸の旅人』(集英社文庫),『名山の日本史』『名山の文化史』『名山の民族史』 『江戸の食彩 春夏秋冬』(河出書房新社)など多数。日本ペンクラブ理事。
当ホームページにて「ちはやぶる日本史」を連載していただいておりました,高橋千劔破先生が2024年1月6日,逝去されました。心からご冥福をお祈りいたしますとともに,謹んでお知らせ申し上げます。
先生は教科書などで語られる歴史とは一味ちがった,「洒脱な味のある面白おかしい歴史」をモットーに,2012年より長きに渡りご執筆いただきました。衷心より深く感謝申し上げます。また,お読みいただきました皆様に御礼申し上げます。
執筆者の体調不良のためしばらく休止とさせていただきます。
平賀源内は,享保14年(1729),讃岐国志度(さぬきのくにしど)(香川県さぬき市)で生まれました。源内は通称で,名は国倫(くにとも),のちに号を鳩渓(きゅうけい)とつけ,文名を風来山人(ふうらいさんじん),また天竺浪人(てんじくろうにん),浄瑠璃作家としての筆名を福内鬼外(ふくちきがい)としました。父は藩の薬園掛りでした。
源内は19歳で父の跡を継ぎ,間もなく,お薬坊主に立身,藩命により25歳で長崎に遊学しました。さらに翌年,江戸に遊学を命じられて,官医の田村元雄(げんゆう)について本草学(ほんぞうがく)(薬物学を中心とした博物学)を専攻しました。
師の田村元雄は,向学心旺盛な源内を愛してやまなかったといいます。宝暦7年(1757年),源内は,師の元雄と協力して,江戸の湯島で日本初の物産会を開きました。このことが源内の名を高めることになりました。源内29歳のときでした。物産会とは,ようするに博覧会のことです。この物産会は,会を重ねるごとに大いにうけて,その集大成として『物類品隲(ぶつるいひんしつ)』という博物書ができることになりました。そうしたいっぽうで源内は,甘藷(かんしょ)や朝鮮人参(にんじん)の試作にも熱中して成功しました。
その源内が高松藩の士籍を脱することができたのは,宝暦11年(1761年),33歳のときでした。ですが源内は,多くの才能を有しながら,結局世にはばたくことができませんでした。ひとつには,高松藩が狭量であったことによります。源内がきわめて優秀な人物であることを解っている高松藩は,暇頂戴(いとまちょうだい)を許したものの,他藩への奉公は,いっさい許さずと,全国に通達するのでした。したがって源内は,どこへも奉公することができず,引く手あまたでありながら,就職がかなわなかったのです。高松藩のいやがらせのために,浪人として後半生を送らざるを得なかったのでした。
とはいえ源内は,きわめて才能豊かでした。宝暦13年(1763年),35歳のとき,戯作としての第一作「根無草(ねなしぐざ)」を刊行して評判となります。翌年の明和元年(1764年)には,燃えない布「火浣布(かかんぷ)」(石綿)の製作に成功し,さらに翌年には,武蔵国(埼玉県)秩父(ちちぶ)の金山や鉱山の採掘に乗り出します。そして42歳になった明和7年(1770年)正月,福内鬼外(ふくちきがい)のペンネームで,浄瑠璃本の処女作「神霊矢口渡(しんれいやぐちのわたし)」を書き,同作はさっそく操り芝居にかけられて人気となりました。ですが同年,源内はこだわることなく,再度長崎遊学に踏み切ります。
このとき源内が,文人として立つ決意をしたならば,その後半生は大きく変わったに違いありません。ですが源内にとって戯作や浄瑠璃は余技でしかありませんでした。というより源内の才能は,余りにもあふれかえっていたといってよいでしょう。
長崎再遊で持ち帰ったものは,「オランダ焼」と称した製陶と,緬羊(めんよう)を飼育して毛織物を作る技法でした。源内は共に讃岐国で企業化を図りました。もう一つの長崎土産は,摩擦発電機すなわち「エレキテル」でした。
源内とすれば,いずれも辛苦の末に製作に成功したものですが,人々の注目を集めはしたものの,企業として軌道に乗ることはありませんでした。世間の人々の多くは,源内を山師呼ばわりしました。源内の真価を理解できたのは,杉田玄白ら一部の勝(すぐ)れた人物のみでした。結局源内は,「放屁論(ほうひろん)」や「風流志道軒伝(ふうりゅうしどうけんでん)」などを書いて世相を風刺しましたが,その胸のうちにあった“志”は,理解されませんでした。
安永8年(1779年),源内は弟子の要助を誤って殺し,殺人犯として入牢します。そして約1ヵ月後の安永8年師走(12月)18日,牢内で病死しました。52歳でした。もし生きていたら,まだまだ多くの発明や仕事をしたにちがいありません。まことにつまらない死でした。
友人の杉田玄白が源内の墓を建てた碑には,こう刻まれています。
磋非常人(ああ,非常の人か)
好非常事(非常の事を好む)
行是非常(行(おこない)これ非常なり)
何非常死(なんぞ非常に死す)
なお源内は,キャッチコピーを書いています。
「本日は土用丑(うし)の日うなぎの日」
源内先生の看板で,店は大いに繁昌したといわれています。
日本における,西洋解剖書の本格的な翻訳本である『解体新書』が,杉田玄白・中川淳庵(じゅんあん)・石川玄常(げんじょう)・桂川甫周(ほしゅう)らの協力と,前野良沢(りょうたく)の翻訳指導によって成ったのは,安永3年(1774年)の仲秋(8月)のことでした。その経緯については,玄白の回想録『蘭学事始(らんがくことはじめ)』に詳しい。
明和8年(1771年)3月4日,江戸千住(せんじゅ)の小塚原(こづかっぱら)の刑場で行なわれた腑分(ふわけ)〔解剖〕を見学した杉田玄白・前野良沢・中川淳庵らは,たまたま玄白・良沢が持参したクルムスの解剖書の蘭訳本に載っていた解剖図と腑分の実際とが,あまりにもよく似ているのに驚き,医家である自分たちが,人体の構造にいかに無知であるかを知って恥じるのでした。彼ら同志は,翌日から築地の中津藩邸内に置かれた前野良沢邸に集い,オランダ解剖書の訳述事業を始めます。『蘭学事始』によれば,原稿を書き改めること11回に及び,何とか刊行できたのは,安永3年仲秋(8月)のことでした。全4巻から成り,本文はすべて漢文によって訳されました。別に,序文と付図を載せた『序図巻(一巻)』があります。現在『解体新書』は,『日本思想大系』65に収録されています。解体新書によって,西洋解剖学についてのあらましが,はじめて日本に紹介されたのでした。それまで,日本の医師・学者は,在来の中国伝来の五臓六腑流の考え方より,あまり進歩していなかったと思われ,非常に驚いたと思われます。また,その序図巻は,杉田玄白の訳による序文と凡例を載せたのち,解剖図を21葉にわたって掲げています。それらの多くは,原書にあたる解剖図を模刻したものですが,『解体新書』の図譜には,クルムスの原書に載っていないものも見られます。つまり,玄白らは,クルムスの解剖図の他に,いくつかの西洋解剖図譜を引用していることが知られているのです。
また『解体新書』の図譜を写したのは,秋田藩士の小田野直武で,刊行された『解体新書』に掲げられた解剖図は,直武の写したものを木版に起こしたものです。クルムスの解剖図と比べると,精巧さの点でかなり劣ります。直武の写しが木版であるのに対し,クルムスのものは銅版画であり,優劣はやむをえません。とはいえ,直武の解剖図が,西洋の解剖図をよく伝えているのは驚きです。
とはいうものの,玄白は,高弟の大槻玄沢に改訂を命じました。そこで玄沢は,さっそく改訂版に着手するのでした。寛政10年(1798年)には,序・付言・旧序・凡例を載せた第1冊の他に,本文4冊・名義解6冊・付録2冊から成る『重訂解体新書』の大体を書き上げたのです。刊行が成ったのは,文政9年(1826年)のこと。改訂版に取りかかってから刊行に至るまで,30年近くの歳月が費やされたのでした。
宝暦4年(1754年),美濃国郡上(ぐじょう)藩領で大規模な一揆が発生します。「宝暦・石徹白(いしどしろ)騒動」です。
郡上八幡城は,岐阜県郡上八幡町の一角,海抜356メートルの八幡山の頂きに今もそびえています。白亜三層の天守で,積翠(せきすい)城とも呼ばれています。吉田・小駄良の二川の激流が,奇岩を連ねる山裾を洗い,周囲を飛騨の峻嶮が取り囲む,まさに要害に位置しているのです。城郭の規模はさして大きくはないものの,三百有余年を経た今日,よく保存されています。
さて,宝暦4年の郡上一揆について,述べることにしましょう。宝暦4年,藩主の金森頼錦(かなもりよりかね)の治政下,大規模な一揆が発生しました。藩が年貢増徴のために採用しようとしていた検見取(けみどり)に,農民たちが反対し,一揆となったのです。農民らは,検見廃止だけではなく,諸課役(かやく)の廃止など16カ条を,藩に要求したのです。
郡上藩は,いったんは,農民たちの訴えを受理します。いや,受理したように見せかけたのです。いっぽう,裏で幕府に手をまわし,美濃郡代青木次郎九郎から,さらに翌宝暦5年(1755年)には,郡内の庄屋36人に,検見取を承知させたのです。それを機に,農民たちは,再び結集して藩に訴えるとともに,幕府の老中酒井忠寄(さかいただより)に駕籠訴(かごそ)をしました。老中酒井忠寄の行列に直接訴えかけたのです。
しかし,幕府の審理は,なかなか行なわれませんでした。そのため,宝暦8年(1758年)には,評定所前の目安箱(めやすばこ)に,箱訴(はこそ)しています。農民たちも必死でした。一揆に集結した農民たちは立百姓(たちびゃくしょう),未結集や脱落者は寝百姓(ねびゃくしょう)と称されました。
また,この一揆の最中,郡上藩管轄下の石徹白の白山社領で,神頭職(ことうしょく)の杉本左近派と神主(かんぬし)上村豊前(うえむらぶぜん)派とが激しく対立し,郡上藩によって石徹白を追われた杉本派が,一揆の最中の宝暦6~8年(1756~58年),幕府に駕籠訴・箱訴を行ないました。その結果,宝暦8年,幕府の両事件への裁許が下り,農民一揆では13人の死罪,石徹白騒動では上村豊前が死罪になるなど,多数の犠牲者が出たのです。いっぽう,藩主の金森頼錦が領地を没収されたのをはじめ,老中の本多正珍(まさよし),若年寄の本多忠央(ただなか)。大目付曲淵英元(まがりぶちひでちか),勘定奉行大橋親義(おおはしちかよし),美濃郡代青木次郎九郎らが役義を召し上げ,また知行召上げなどに処されました。
なお,当代の人気講釈師馬場文耕(ばばぶんこう)が,郡上八幡の「宝暦・石徹白騒動」を講談化して面白おかしく語ったことによって,獄門に処せられました。幕政を批判したことということで,さらし首になったのでした。また,その講談本『平仮名森の雫(しずく)』も発禁本となりました。幕府の厳しい思想統制のはじまりです。
18世紀の中ごろ,加賀藩で大規模なお家騒動が起こりました。一名大槻(おおつき)騒動とも呼ばれる「加賀騒動」です。
加賀前田家6代藩主前田吉徳(よしのり)の寵臣(ちょうしん)大槻伝蔵(おおつきでんぞう)が,門閥・守旧派に弾劾されて失脚し,流刑地で自刃(じしん)した事件です。これに連動して,吉徳の愛妾お貞の方(真如院=しんにょいん)とその男子たちが幽閉されて死んだ事件がからみます。
大槻伝蔵は,足軽の子にすぎませんでしたが,吉徳の遊び相手として近侍したことにより,禄高3千8百石の上級家臣に出世しました。大槻は14歳で,世子吉徳の御居間方坊主,すなわち遊び相手として出仕しますが,吉徳と気が合ったことにより重用され,享保11年(1726),士分に列しました。その後18年間に,17回の加増・昇進を見るという異例の出世をとげました。そして寛保元年(1741)に人持組という上級家臣となり,同3年には禄高3800石となったのです。
その間,終始吉徳の御側御用を勤めて信任が厚く,吉徳やその子供たちが,大槻の屋敷に遊びに行くことも少なくなかったといいます。大槻一族もそれぞれ立身しました。
寛保元年秋,江戸より帰国した吉徳は,厳しい倹約策を取りました。とはいえ,吉徳は病弱であり,実際に政務を司ったのは大槻伝蔵でした。大槻は,費用節減・大坂借銀(借金)の調達・新規課税などの財政策を行ないましたが,なかなかうまくはいきませんでした。
金沢藩財政の赤字は,5代藩主綱紀(つなのり)が文化事業を大いに行なって「ぜいたく大名」と呼ばれた17世期末からすでに始まっていて,藩士の経済生活の破綻も,おおいがたいものがありました。それが元禄の華美な風潮のなかで,遊侠の風体,刃傷沙汰など士風の頽廃となってすでに現われていたのです。
農村では,商品・貨幣経済の浸透がすすみ,奉公人を雇傭する大手作り経営が行きづまって,改良農具・金肥の需及とともに,家族労働による自作・小作の小経営へ移行する転換期にありましたが,その不安定性の中で多くの農民は疲弊していたのです。
不作の際の滅租・貸米の措置が不充分なため,正徳・享保期は百姓一揆の高揚をみるに至ります。この結果,寛保元年には,加賀藩の借銀は2万貫にのぼり,翌年にはさらに3~4千貫も増えることが予想されました。こうした情況下で,大槻伝蔵は,加賀藩の政務を担当することになったのす。
しかし,延享2年(1745),吉徳が没したことにより,大槻伝蔵への厳しい弾劾が開始されます。大槻は,吉徳死後の翌年蟄居を命ぜられ,襲封一年後に急死した7代宗辰の一周忌のあと,遠島の刑となり,寛延元年4月,越中五箇山へ配流されました。その年の6月と7月,江戸本郷の藩邸で毒入りの茶釜の事件が起こり,真如院の娘楊姫付中老浅尾が捕えられ,真如院にも嫌疑がかかって金沢に幽閉されました。物証は何もなかったのですが,大槻と浅尾の密通が露顕したのだといいます。大槻は9月に,隠し持っていた小刀で自害を遂げ,浅尾は金沢に送られてひそかに殺されました。真如院は,翌年の2月に没しています。本人の希望によって,縊死(首をくくっての死)による死であったといいます。
この事件の関係者全員の処罰が決定したのは,宝暦4年(1754)2月のことでした。この事件については,世上様ざまなうわさが流れ,いろいろに脚色された稗史(はいし)が登場します。また義太夫本や芝居の脚色も少なくありませんでした。
天文方(てんもんかた)は,編暦や改暦の仕事に携るきわめて重要な役職で,延享3年(1746年)から幕末まで続きました。渋川春海(しぶかわしゅんかい)が,貞享改暦の功により,はじめて天文方に任じられて以来,幕末まで渋川家のほか,猪飼・西川・山路・吉田・奥村・高橋・足立の8家が天文方でした。
世襲制ではありますが,養子を迎えることが少なくありませんでした。実子が必ずしも優秀であるとは限りません。また改暦のような重要な仕事のためには,輩下や民間から,新しく天文方を取り立てることもありました。
江戸時代の天文学を語るとき,高橋至時(よしとき)の存在を忘れるわけにはいきません。至時は,明和元年(1764年)11月30日,大坂(大阪)で生まれました。幼少時から算学を好み,15歳で家督を継ぎます。そして天明7年(1787年),医者で天文学者であった麻田剛立(あさだごうりゅう)の門に入りました。剛立は,医者として患者の治療に当たる傍ら,数学や暦学を教えるという,きわめて優れた人物でした。
至時は,その麻田剛立に,天文医算学を学びます。そして,その当時の最新の西洋天文説を伝える「歴象考成」後編のうちのケプラー楕円軌道論の研究につとめました。寛政7年(1795年)3月,至時は,暦学御用のため,同じ麻田剛立門下の間重富(はざましげとみ)と共に,江戸出府を命ぜられ,同年11月,天文方に任命されます。そして翌8年8月,改暦御用を仰せつけられ,翌9年末まで,改暦作業の中心的人物として活躍したのです。
至時は,享和3年(1803年),フランスの天文学者ラランデの天文学書の蘭訳本を入手,半年間その研究に没頭して『ラランデ歴書管見』を著わしますが,文化元年の正月5日,41歳の若さで病没してしまいました。おそらく無理がたたったのでしょう。至時は,江戸下谷(したや=東京都台東区東上野)の源空寺に葬られました。
なお,井上ひさし著『四千万歩の男』で知られた伊能忠敬は,はじめ至時に師事しました。浅草清島町の源空寺には,忠敬の遺言によって,至時と忠敬の墓が並んで立っています。
さて,天文台に話を移しましょう。当初「天文台」という呼称はありませんでした。天体観測や天文学に関する研究などが行われた場所は,いろいろな呼ばれ方をしましたが,「司天台」また「観象台」といわれることが多かったようです。江戸時代,京都の梅小路の土御門(つちみかど)家に,司天台が置かれていました。また江戸では,渋川春海が天文方に任じられた貞享2年(1685年),牛込藁店(うしごめわらだな)に司天台が設けられました。その後,元禄2年(1689年)に本所(ほんじょ),さらに同14年に駿河台に移されました。春海の没後しばらくして,神田佐久間町に,延享3年(1746年)から宝暦7年(1757年)まで司天文台が置かれました。また明和2年(1765年)から天明2年(1782年)までは牛込に司天台が置かれ,その後,浅草福富町に移されました。
この浅草・牛込の司天台は,高橋至時や間重富が,寛政の改暦に際して観測を行なった場所です。また天保13年(1842年)に九段坂上に司天台が建てられ,天保9年から弘化3年(1846年)までの観測記録が,『霊憲候簿』として99冊にまとめられています。当時の江戸の夜空は,いまでは考えられないほどに美しく,多くの星ぼしが輝いていたにちがいありません。
徳川幕府による支配体制は,250年間に及びました。江戸時代です。その間,初期には島原の乱や大坂の役があったものの,概(おおむ)ね平和な時代が続き,武家文化,町人文化が栄えました。徳川氏の居城江戸城を中心に,江戸の町には多くの人びとが居住し,様ざまな文化が花開いたのです。
とはいえ,常に江戸の町が平和であったわけではありません。避けようのない災害,すなわち天災が,少なからず江戸市民たちの生活を脅かしました。ここでは,水害を見ていきたいと思います。とりあえず,江戸時代を通じて忘れることのできない9つの水害を挙げることにしましょう。
延宝8年(1680年)の水害。8月5日の夜半より大暴風雨となり,6日の昼ごろから倒壊する家屋が続出しました。さらに午後2時ごろに津波が襲って,本所(ほんじょ)や深川,築地(つきじ)のあたりに大きな被害が出ました。溺死者700人,20万石の米が水に流されたといいます。
宝永元年(1704年)の水害。6月半ばからの大雨で,7月3日に利根川猿が股の堤防が決壊。葛西一帯から亀戸,本所,深川,浅草方面が水びたしになりました。
寛保2年(1742年)の水害。江戸第一の水害といわれています。7月28日以来の大雨に加え,8月1日2日と大暴風雨に。関東郡代の伊奈氏が,江戸を救うために猿が股の上流で堤防をきり,水を葛西に流しました。このため江東方面は水びたしとなり,綾瀬(あやせ)や千住三丁目の堤防もきれ,浅草から下谷(したや)一帯まで泥の海と化しました。8月いっぱいの幕府の炊き出しは,延べ18万6千人分に達したといわれています。
安永9年(1780年)の水害。6月20日ごろから利根川,荒川の増水で江東方面が水びたしとなり,両国橋,永代橋,新大橋が決壊して大騒動となりました。
天明6年(1788年)の水害。7月12日夜から大雨。18日になってもやまず,大洪水に。江東地帯は,寛保の水害の時より四尺(1.2メートル)深く水が出たといわれています。
寛政3年(1791年)の水害。8月以来の雨で隅田川が増水し,新大橋,大川橋が決壊。9月4日に大暴風雨,さらに深川,築地,芝浦方面を津波が襲い,大災害となりました。
享和2年(1802年)の水害。6月来から7月上旬にかけての大雨で権現堂堤がきれ,綾瀬川が氾濫し,葛西方面から本所,深川にかけて大被害が出ました。
弘化3年(1846年)の水害。6月中旬以降の大雨で,28日,川俣村の堤防が決壊。30日以降,浅草,本所,深川から葛西一帯が水びたしとなり,「巨海の如し」という惨状になりました。
安政3年(1856年)の水害。8月25日に大暴風雨となり,永代橋,新大橋,大川橋が決壊。本所,深川方面は出水によって被害が甚大になりました。また風による被害も大きく,特に佃島(つくだじま)の被害は大きかったといわれています。
以上のうち,寛保2年,天明6年,弘化3年の水害が,江戸の3大洪水といわれています。
なお,当初隅田川は,利根川がとうとうと江戸湾に流れ込んでいて,文字通り坂東太郎の名にふさわしい様相でした。ですが,2代将軍秀忠の時代から3代家光の時代にかけて,関東郡代伊奈氏の手によって,大規模な改修工事が行なわれ,ついに荒川筋を移しかえて,利根川を銚子口に流すようにしたのです。江戸市街地の発展と,水害をなくすことによって,埼玉一帯を肥沃な田地とするためでした。その上,荒川筋の本流が上流で入間川筋にきりかえられたので,事実上隅田川は入間川筋となりました。このことによって,今日に至ってなお,一朝危機あるときは利根川筋の水は,一挙に東京を目指して押し寄せるのです。
隅田川は何百年もの間,時に荒れ狂って,江戸の市民,すなわち江戸ッ子たちに,少なからぬ被害を与え続けてきたのです。
徳川御三家の筆頭である尾張徳川家の重臣5人が,江戸城に召喚されたのは,元文4年(1739)1月12日のことでした。そこで彼らは,時の将軍徳川吉宗から,次のような厳しい命を受けました。
「尾張藩主徳川宗春(むねはる),行跡よろしからず,よって隠居謹慎すべし」
御三家筆頭ということは,俗にいう徳川三百藩のトップに位置します。その尾張藩の長が謹慎させられたのです。まさに未曽有の大事件でした。ですが,各大名家の動揺も世間の評も,さして大きなものではありませんでした。むしろ幕府の動きは遅きに失するという評の方が少なくなかったのです。というのは,宗春の行跡にいろいろ問題があったからです。
元文4年の時点で,宗春は44歳,藩主に就任して9年目でした。いっぽう徳川吉宗は56歳,将軍職に就任してより23年の実績を積んでいました。ですが宗春は,何かと将軍吉宗に楯つくのでした。将軍が吉宗でなければ,尾張藩は取り潰し,宗春は死罪ということになっていたかもしれません。
もともと紀州藩から入って将軍となった吉宗と,尾張藩との間には,遺恨があったとされています。正徳6年(1716=享保元年)4月,7代将軍家継(いえつぐ)が,わずか8歳の若さで病没しました。家継に子供がいるはずはなく,将軍候補は御三家の3人にしぼられました。
筆頭が尾張藩の徳川継友(つぐとも)26歳。
次席が紀州藩の徳川吉宗33歳。
末席が水戸藩の徳川綱條(つなえだ)61歳。
当時幕府は,極度の財政困難にあえいでいました。これを立て直すには,紀州藩の財政再建に成功した吉宗しかいない,という評判が強かったのです。しかし内意を受けた吉宗は,
「年齢と家格から申せば綱條殿,家格から申せば継友殿」
と自らの将軍位を固辞したといいます。しかし,尾張継友には浅慮粗暴の噂があり,藩主としての経験も乏しく,実績は無いに等しかったのです。また,綱條は還暦を越えており,いい年でした。
結局,8代将軍には吉宗が決まりました。尾張藩は,つい近年の三年の間に,吉通(よしみち),五郎太と藩主が連続して急逝していました。尾張藩ではこれを,将軍位を望む吉宗と紀州藩の陰謀ではないかと……。
吉通は,6代将軍であった亡き家宣(いえのぶ)の信任が厚かったので,もし長生きしていれば,8代将軍は,尾張吉通ですんなりと決まっていたであろうと思われます。しかし吉通は,家継の在任中に,25歳の若さで急死してしまいます。尾張藩にとってみれば,まことに惜しむべきことでした。とはいえ,吉宗による暗殺説には無理があります。
吉通の子の五朗太は,僅か3歳で藩を継いだものの,間もなく亡くなってしまいます。継友も享保15年(1730),39歳で病没しました。こうして尾張藩の家督を継いだのが,宗春でした。
ですが,尾張藩の財政も逼迫(ひっぱく)していました。しかも複雑な派閥の状況下にありました。というのは,吉通には39人もの子があり,それぞれ母親が違いました。早世した子が少なくなかったのですが,それでも複雑な派閥が構成されていました。宗春は20男で部屋住みの身です。藩主を継げる位置ではありません。やっと陸奥梁川(やながわ)3万石の大名になれたのが34歳のとき,そしてこの年,本家の継友が急逝したため,何と思いもかけず尾張藩主となったのでした。
当時,幕府財政および各大名家の財政は逼迫しており,いずれも質素倹約を旨としていました。しかし宗春は,豪華・華美な藩政を貫くのです。祭りも奨励し,芝居小屋や遊里を許し,自らも白牛にまたがり5尺(1.5メートル)もある大煙管(きせる)をくゆらせて城下を練り歩きます。結局尾張藩は内部崩壊し,宗春は吉宗によって名古屋の下屋敷に幽閉されました。しかし25年間監禁生活を送りつつ,宗春は明和元年(1764年)69歳まで生きました。ですが,死後も墓石は金網におおわれていたといわれています。
「享保の飢饉」は,享保17年(1732)に畿内以西を襲った大飢饉で,天明・天保の飢饉と併わせて,江戸の三大飢饉と呼ばれています。
餓死者はおよそ1万2千人,同じく餓死した牛馬は,1万4千匹にのぼりました。
享保17年は,前年の冬以来天候が不順で,暖冬でしたが春になると雨の降る日が多く,夏になっても冷雨が続きました。その上,各地で洪水や,逆に水不足による田畑の荒廃が目立ちました。
低温によって作物の成育は悪く,それに誘発されて虫害が起こったのです。飢饉の原因は,多くは虫害によるもので,作物の出来が例年の半作以下だった藩は,46藩に及んだといいます。虫害を起こした虫の種類は,『草間伊助記』によれば,
「此虫,後に大きに相成りこがね虫の如く(中略),形ち甲冑を帯しるやうにありて,一夜の中(うち)に数万石の稲を喰ひ,田畑夥敷(おびただしく)損毛有之(そんもうこれあり),士民飢渇に及び,西国筋より五畿内大坂辺迄(おおさかあたりまで)道路に倒れ候もの数しれず……」
とあります。また幕府の公式文書にも「蝗」の文字が頻出し,蝗害(こうがい)すなわち蝗(いなご)による虫害であったことが判ります。
もっとも被害が大きかったのは伊予松山藩(15万石)で,それ以前5ヶ年平均で12万石を超える年貢収入があったのに対し,この年は皆無で,飢え死にしたもの3489人,斃死した牛馬は3097匹に及んだといいます。このため藩主の松平定英は,「備えが不充分であった」として,幕府への出仕を停止させられています。
幕府の対応は素早く,すぐさま勘定所役人を現地に派遣し,勘定吟味役の神谷久敬を大坂へやって,救済の総指揮をとらせています。救援方法としては,被害のなかった東山,東海,北陸諸藩などの米を西国に回送するとともに,幕府自身も多くの救援米を送り,鹿児島藩など,蝗害のひどかった大名地に,それぞれの石高に応じて恩貸金を与えるなどです。この飢饉は大規模なものでしたが,幸いにして翌年は豊作であったため,一年で収まりました。
しかし,この飢餓が社会に与えた影響は大きかったのです。享保18年正月26日,江戸で最初の打ちこわし「高間騒動」が起こります。本来江戸に入るべき米の一部が,救援米として緊急輸送されたため,困窮した日稼ぎなどの細民が,江戸の米問屋を襲ったのです。襲われたのは,高間伝兵衛の江戸日本橋店です。伝兵衛は,江戸米問屋八人組の筆頭で,かねてから,米の買占めなど暗躍していると噂のあった米穀商でした。
また幕府は,享保19年正月,天領における定免破免条項を改訂し,同3月には諸国産物帳を令しています。それは丹羽正伯(しょうはく)に命じて諸国の産物を調べさせたもので,諸国に産する穀類はもちろん,すべての産物に及び,そのほとんどに「人食す」「人不食」「能書不知」など註釈が入っています。またその産物は,菌類,木類,魚類,鳥類,虫類,蛇類等あらゆる産物に及んでいました。また,享保17年12月,飢餓等によって社会不安が激化した場合,代官所の役人では対応できない非常に備えて,あらかじめ江戸に伺うことなく,近隣大名の兵力を借りることを認めるという布達も出しています。それまで諸大名は,幕府の許可なしには一兵も動かすことができなかったのです。なお,この飢餓を機に,害虫防除への関心が高まり,鯨油を用いてウンカを駆除する方法等が広まったのでした。