京都東山方広寺は,天正14年(1586年)に豊臣秀吉が,豊臣一族の繁栄を願って建立したものです。ところがこの寺がのちに,豊臣家を滅ぼすことになります。秀吉は考えもしなかったにちがいありません。
方広寺は,慶長元年(1596年)閏7月の大地震(慶長大地震)で壊われました。このとき,6丈3尺(約19メートル)の巨大な木像仏もつぶれました。やがて秀吉が没し(慶長3年),方広寺は壊われたままになっていましたが,慶長7年,家康は豊臣母子(淀殿と秀頼)に,再建をすすめます。母子は秀吉の遺志を継ごうと,その気になり,今度は金銅仏にすることにして,着工します。しかし工事なかばで火災にあい,堂宇は全焼して仏像も溶け落ちてしまいました。とはいえもはや大仏建立は,豊臣母子の悲願です。
慶長14年から再建工事が開始され,同19年の春に,やっと完成するのです。費用は莫大なもので,秀吉が大坂城にたくわえ大金塊を使うのですが,現在の価格に直すなら100億円ぐらいといわれます。さすがに,淀殿は妹の徳川秀忠夫人を通じて,幕府に資金の援助を求めますが,もちろん幕府は応じません。大坂城の金塊は,万一の場合に備えた軍用金です。いざ戦争となれば,多くの場合,お金を持っている方が勝ちます。家康は何とかそのお金を減らそうと,大仏殿建立をすすめたのです。お金を貸すはずはありません。世間では,「さすがの太閤の貯金もこれで払底したろう」と噂されたといいます。
ともあれ,慶長19年8月,盛大に大仏の開眼供養が行なわれることになりました。供養の日をめぐっても,豊臣方を代表する片桐且元と家康の間で,すったもんだがあったのですが,家康は,さらなる難題をつきつけてくるのです。新築なった方広寺の大鐘に,不吉な文字があるというのです。
その文字というのは,鐘銘に刻された「国家安康」と「君臣豊楽」という熟語です。前者は,家康の名を二つに切ってこれを呪うものであり,後者は,豊臣氏を君としてこれを末ながく楽しむという意味だというのです。
もちろんこじつけですが,これを考えたのは金地院崇伝といわれています。林羅山も,「鐘銘は,徳川家を呪い,豊臣家の繁栄を祈る気持をたくみに書きこんだものだ」と記しています。いずれも,御用学者の曲学阿世(きょくがくあせい)といわなければなりません。鐘銘を書いたのは,当時の高名な学者清韓文英(せいかんぶんえい)です。
当時の落首に,「鐘の銘韓長老の諸行ぞや無常となりて大坂滅亡」というのがあります。
ともあれ幕府の批難に,大坂城から片桐且元が弁明のため駿府に飛んでいきますが,20日あまり待たされて,結局家康との面会をゆるされませんでした。それだけではなく,家康は,「秀頼が江戸に参勤するか,淀殿が人質として江戸にくるか,または秀頼が大坂を出て地方に国替するか」という難題をつきつけるのです。家康とすれば,大坂攻めのための,いいかえれば豊臣家を滅亡させるための口実を得るためですから,あえて無理難題をつきつけたわけです。結果として,家康の計画は成功し,大坂冬,夏の陣を経て,豊臣家は滅亡することになります。
朝鮮通信使,はじめて江戸に来る
はるか古代から,大陸の先進文化は,朝鮮半島を経由して日本にもたらされました。歴史的にみて概(おおむ)ね,朝鮮半島の方が,日本より文化度が高かったといえます。ただ中世になると,軍事力に関しては,しばしば日本が半島を上回わります。
これはその間,日本が戦闘国家だったからに他なりません。平安末期の前九年・後三年の役に始まって,保元・平治の乱,源平合戦,文永・弘安の役,南北朝の争乱,そして応仁・文明の乱を経て戦国時代へ突入します。この間,日本はまさに戦争に次ぐ戦争の争乱国家でした。
やがて,およそ100年を経て織田信長が登場し,戦乱の世は収束します。信長は本能寺の変で横死しますが,その後を受けて,豊臣秀吉が日本統一を果たしました。しかし秀吉は,平和国家日本をつくろうとはせず,何と大陸に攻めて行って明国を支配下に収めようという,とんでもない計画を立ててこれを実行します。文禄元年(1592年)と慶長2年(1597年)のことです。
文禄の役で秀吉は,16万人もの日本兵を動員し,まずは朝鮮半島に攻め入って,中国との国境に迫ります。しかし朝鮮水軍の李舜臣(りしゅんしん)の反撃を受け撤退を余儀なくされます。ところが日本軍は,朝鮮半島から多くの文物を略奪する共に,農民や学者や陶工などを拉致(らち)してくるのです。慶長の役でも,結局日本は撤退することになりますが,結果として,日本に朱子学や印刷技術の発展がもたらされ,有田焼などの磁器生産が始められることになります。逆に朝鮮では国家の発展が,およそ100年間遅れたといわれます。
江戸時代になりますと,日本と朝鮮は友好関係となります。徳川家康の求めに応じて,国交が回復したからです。
朝鮮通信使は,応永20年(1413年)の第1回に始まり,文化8年(1811年)まで20回日本にやって来ました。江戸時代に入ってからは,慶長12年(1607年),2代将軍徳川秀忠のときが最初です。寛永16年(1639年),日本は完全に鎖国体制に入ります。中国・オランダとの「通商」と朝鮮・琉球との「通信」という狭い範囲での国際関係に限定するのです。ですが朝鮮だけは別で,幕府は正式な外交関係を結んでいました。
朝鮮通信使の一行は,400人前後におよぶ大使節団で,釜山(ぷさん)から対馬を経て,関門海峡から瀬戸内海を大坂に達し,各大名による川船で淀川を遡り,途中から陸路を京都へ入りました。さらに各大名が一行のために新しく作った朝鮮人街道を辿って,東海道を江戸へ進んだのでした。
幕府は一行を大歓待し,華麗な饗応を行ない,また客館に於て,栄んな彼我の学者や文人の交流が行なわれました。学者や文人や医師たちは,使節の一行との交流によって,新知識を得,また多くの異国の文物が,日本にもたらされたのでした。
幕府,宇喜多秀家を八丈島に流刑
宇喜多秀家は,元亀3年(1572),宇喜多直家の嗣子(しし)として,備前国岡山に生まれました。戦国時代の真最中で,この年,織田信長が浅井長政の近江に攻め入り,上杉謙信は越中の一向一揆と戦い,武田信玄が三方ヶ原の戦いで徳川家康を破っています。
天正7年(1579),直家は毛利氏から離反して羽柴秀吉に帰順します。以後,秀吉の中国地方経営に従って,備前・美作(みまさか)の各地で毛利氏と戦いますが,同9年,岡山城で病没しました。その直家の嗣子が秀家ですが,秀家の「秀」は,秀吉から与えられたものです。
直家が没したとき,秀家はまだ10歳の少年でしたが,秀吉の斡旋によって,信長から父の遺領相続を許されました。その後,秀家は,秀吉に寵遇(ちょうぐう)され,秀吉の養女(前田利家の娘)を妻に迎えて,豊臣家・前田家と縁戚関係になり,秀吉の四国征伐,九州征伐,また小田原征伐にも従軍して活躍しました。
このころから秀吉は,非情なる独裁者へと変貌します。天下人になったのはいいのですが,その考えはまさに誇大妄想です。日本を統一したのでは気がすまず,大陸に攻め入って明(みん)国を攻め取ろうというのです。そのためには,まず朝鮮半島に攻め入らなければなりません。
文禄元年(天正20年=1592),秀家は渡海して,小早川隆景や黒田長政らと共に明軍と戦い,碧蹄館(へきていかん)の戦いで大勝利を収めました。また,慶長2年(1597)の再度の朝鮮出兵にも従い,遠征軍を監督しています。この間,天正18年から岡山城の大改築を行ない,慶長2年には天守閣を竣工,城下町を形成すると共に,商工業の育成や新田開発にもつとめています。備中早島から倉敷にかけて潮止め堤防を築き,児島湾干拓事業の先蹤(せんしょう)ともなっています。今でも「宇喜多堤」の名が残されています。
また,慶長3年には,秀吉から五大老の一員に任じられ,秀吉没後も徳川家康らと共に,政務の中枢に位置して,豊臣政権を支えました。
しかし慶長5年(1600),関ヶ原の戦いが起こります。まさに天下分け目の大合戦で,日本史上有数の戦いです。徳川家康を総大将とした東軍と,石田三成と毛利輝元による西軍が,美濃国の関ヶ原(岐阜県不破郡)で激突します。関ヶ原は,古代から不破(ふわ)の関が置かれた,東西交通の要衝です。
9月15日,小雨もよいの中で行なわれた大合戦ですが,東軍が圧勝しました。西軍に属していた小早川秀秋らが寝返り,また毛利氏が参戦しなかったために,本来互格であったはずの戦力が,東軍に圧倒的な有利をもたらしたからです。秀家は1万6千の兵を率いて関ヶ原に臨んだものの,敗れて伊吹山中に隠れ,その後薩摩に落ちのびて島津氏を頼ります。しかし同8年に捕えられ,同11年に八丈島に流罪となりました。嫡子の孫九郎ら13人での渡島でした。その後,50年間八丈島で暮らし,明暦元年(1655)11月20日,病没しました。84歳でした。今も八丈島に墓碑が残されています。
徳川秀忠,二代将軍となる
秀忠は,徳川家康の3男です。それがなぜ,徳川家を継いで2代将軍になったのでしょうか。
家康の長男は,岡崎三郎の通称で知られた信康です。織田信長の女(むすめ)徳姫を妻とし,元亀元年(1570)11歳で岡崎城主となりました。しかし徳姫の讒言(ざんげん)によって,天正7年(1579),信長の命を受けて自殺させられてしまいます。次男は,秀吉の養子となり,さらに結城(ゆうき)家を継いだ結城秀康です。そこで,3男の秀忠が徳川家を継ぐことになったのです。
とはいえ,すんなりと将軍位を継げたわけではありません。慶長5年(1600),秀忠は父家康に従って,会津の上杉景勝を攻撃するために,東北へと進軍します。しかしこれは,石田三成に挙兵させるための罠でした。果たして三成挙兵の報が,下野(しもつけ)小山(おやま)まで進んだ徳川軍に届きます。徳川軍はすぐさま,西へと軍を返します。
このとき,家康は東海道を,秀忠は東山道を通って,決戦地である関ヶ原へと向かいました。ところが秀忠軍は,信州に至ったところで,真田昌幸率いる真田一族の軍勢に,行手を阻まれます。そこで,秀忠軍は,昌幸の籠る信州上田城を攻めるのですが,そのために時間を空費してしまい,関ヶ原に到着したときには,すでに戦いが終わっていたのでした。このため家康の勘気をこうむることになりますが,諸将の取り成しによって,やっと赦されます。
3年後の慶長8年,家康が征夷大将軍に任じられ,秀忠は右近衛大将となりました。この年,秀忠の長女千姫が6歳で,16歳の豊臣秀頼のもとに入輿(じゅよ)しています。政略結婚にほかなりません。
そうして慶長10年2月下旬,家康と秀忠は,10万余の大軍を率いて上洛し,4月上旬,家康は将軍職を秀忠に譲ることを奏聞し,4月16日,秀忠が徳川家の第2代征夷大将軍に任じられたのでした。秀忠はすでに31歳になっていました。秀忠は,源氏長者・正二位内大臣に任じられ,翌年の9月,新営がなった江戸城に入城します。次いで慶長12年には朝鮮通信使が来日して拝謁を受け,同14年には,島津氏の琉球侵攻を許可しています。しかしこの時代は,実際には大御所家康が仕切っていて,秀忠は主に東国の大名統率に当たっていたに過ぎません。
慶長19年,秀忠は従一位右大臣となり,この年の大坂冬の陣と翌年の夏の陣で,家康と共に出陣し,ついに豊臣氏を滅亡させます。さらに翌年(慶長20年=元和元年)家康が没し,秀忠が名実共に徳川幕府のトップに位置したのです。その後の秀忠は,苛烈な将軍として辣腕(らつわん)を振るい,のべ41家の大名を取りつぶし,また自分の女(むすめ)和子(まさこ)を後水尾天皇に入内(じゅだい)させ,紫衣(しえ)事件によって天皇を退位に追い込んで,幼女の孫娘を天皇につけます。明正天皇です。元和9年(1623),家光に将軍職を譲りますが,なお江戸城西の丸にあって,大御所として実権を振るいました。亡くなったのは,寛永9年(1632)正月24日,54歳でした。
幕府,諸街道を整備し,一里塚を築く
一里塚というのは,一里(約4キロ)ごとに,道路の両側に塚を築き,主に榎(えのき)などの樹木を植えて,旅程の目印にしたものです。
徳川家康が,二代将軍秀忠に命じて,慶長9年(1604),江戸日本橋を起点として,東海道,東山道,北陸道に榎を植えた一里塚を築かせて,全国に普及させました。地方によって榎ではなく松の場合もありますが,なぜ榎なのかというと,榎は根を深く張って広がり,塚を固めるからだということです。すなわち榎の一里塚は崩れにくいのです。
なお一里塚の起源は古代中国だといいます。日本でも古くから国境の目印に塚が築かれていたといいますがはっきりとせず,室町時代に将軍足利義晴(あしかがよしはる)が,諸国に命じたのが始まりだといいます。その後織田信長・豊臣秀吉の時代から三十六町を一里として塚を築き諸国に普及していきました。一町(一丁とも)は,約109メートル。三十六町すなわち一里は,正確には3924メートルということになります。
豊臣秀吉は,一里ごとに五間四方の塚を築きましたが,新たに定めた度量衡制の全国的普及を意図したものでした。しかし,制度として確立したのは,前記したように,江戸時代の初期,徳川家康によってです。
一里塚の築造に際して家康すなわち幕府は,まず東海道および東山道の奉行として,永井弥右衛門白元と本多佐太夫光重をあたらせて,ひきつづいて北陸道は,山本重威(しげたけ)と米田正勝が築造に従いました。また,江戸の町年寄,樽屋藤左衛門や奈良屋市右衛門らがこれに属し,大久保長安が総轄しました。
なお大久保長安は,もとは武田信玄に仕えた猿楽師ですが,武田家滅亡後徳川家に仕えて,幕府の金銀山奉行として強大な権力と莫大な財産を有しました。しかし長安の没後,生前に不正があったとして,全財産を没収され,大久保家は断絶させられました。
なお筆者は,NHK大河ドラマになった新田次郎の「武田信玄」の連載を15年間にわたって担当し,その後「続武田信玄」として「武田勝頼」も担当しました。さらに「続々武田信玄」として「大久保長安」を書き始めたとき,新田次郎は急逝しました。新田次郎は,ライフ・ワークとして,信玄と勝頼さらに大久保長安を書くことによって,武田家の栄光と滅亡とその後を書こうとしていました。勝頼までですでに二十年を擁し,三部作が完結するにはじつに四半世紀がかかるという超大作です。新田次郎の享年は68歳。まだまだ書ける年齢でした。
さて,一里塚に話を戻しましょう。
一里塚は,旅人にとって,なくてはならない場所でした。まずは里程の目安です。その日どれぐらい歩いたか,一里塚によって知ることができました。また旅人は,荷物を人馬に托しましたが,その賃金の目安ともなりました。さらに,植えられた榎の木陰は,旅人たちの憩いの場ともなりました。しかし,18世紀後半ごろより,一里塚もさほど必要とされなくなり,明治以降,鉄道の発達と共に廃れていきました。いまは,一部が史跡として残るだけです。
幕府,外様大名に参勤交代を命ず
関ヶ原の戦い(慶長5年=1600年)によって徳川家康が勝利し天下の覇権を握ると,外様大名などのうち,江戸に参勤する者が現われます。さらに,家康が征夷大将軍になると(慶長8年),その傾向に拍車がかかります。幕府(徳川家)に忠誠を誓うためにほかなりません。
家康は,外様大名の江戸参勤を奨励し,参勤の大名には屋敷地(大名屋敷)のほか,刀剣や書画,鷹や馬,糧米(りょうまい)などを下賜し,大大名の場合は,東海道は高輪(たかなわ)御殿,中山道は白山御殿,奥州街道は小菅御殿まで出迎えるなど気を使っています。しかし慶長16年,家康は豊臣秀頼を京都二条城に謁見して,豊臣氏以下全国の大小名との主従関係を確定させます。
大坂夏の陣(元和元年=1615年)後,徳川幕府は「武家諸法度(ぶけしょはっと)」によって,諸大名の徳川氏への参勤規定を掲げ,事実上,隔年の江戸参勤をさせます。そのことを踏まえて,寛永12年(1635)の「武家諸法度」において,「大名小名在江戸交替所相定也,毎歳夏四月中可致参勤」と,各大名は毎年4月交代で江戸に参勤することを規定したのです。さらに寛永19年,譜代大名にも参勤を命じ,全国すべての大名が,江戸と自領の間を往ったり来たりすることになったのです。旗本30余家にも,隔年の参勤が義務づけられました。
もっとも例外もありました。北九州と朝鮮半島の中間に位置する島国対馬(つしま)の宗氏は三年に一度,蝦夷地(えぞち=北海道)の松前氏は五年に一度の参勤でした。また,水戸徳川家や,幕閣として重要な役割を担う大名は定府(じょうふ=一年中江戸に滞在)でした。
参勤のときの行列が,「大名行列」です。「下に,下に」といいながら整然と行列を作って歩きました。もともとは軍時の行列すなわち行軍が始まりですので,当初は槍隊や鉄砲隊などを中心として質実剛健なものでした。しかし,時がたつに従い,家格を誇る華美なものへと変化していきます。もっとも何百人もの藩士ほかが移動するわけですから(加賀前田家などは二千五百人を超える大行列であったといわれます),経費も大変です。弱小の大名家の場合,宿場町を通るときと江戸に入ってから以外は,ほとんど駆け足であったといいます。
なお,行列したのは大名とその家臣のみです。大名の妻子は江戸常住が義務づけられ,領地に帰ることはできませんでした。つまり,大名の家族は,人質として江戸に留め置かれていたということです。ともあれ多くの大名は,江戸と領国との二重生活によって,繁忙と経済的窮乏に苦しむことになります。もっともそれが,幕府徳川家の狙いでした。しかし一方で,街道の整備,宿場町の発展,物資だけでなく文化の移動などによる庶民文化の発展をもたらしました。この制度が実質的になくなったのは,幕末の文久二年(1862)のこと。幕府が弱体化したからにほかなりません。
家康,征夷大将軍となる
慶長5年(1600年),天下分け目の関ヶ原合戦に大勝した徳川家康は,いよいよ天下人への道を歩み始めます。もはや家康に対抗できる勢力はいません。とはいえ,大坂城には,秀頼を頂天に頂く豊臣政権が,厳然として続いていました。関ヶ原の戦いは,その政権下における五大老筆頭の家康と,五奉行筆頭の石田三成による主導権争いでもあったのです。
三成は,あくまでも豊臣政権を維持しようと考えていました。しかし家康は,形の上では豊臣政権を立てていますが,実質的には,いよいよ徳川の時代が始まった,と考えていたに違いありません。
家康は慶長6年の1月,東海道への伝馬(てんま)制度を整備します。京と江戸を結ぶ重要な街道を,徳川氏の管理下に押さえたということです。また,徳川氏の譜代の家臣たちを,次々に関東や東海の大名に封じます。そして3月,家康は大坂城を出て,京都伏見の自らの城に移るのです。同時に,関東地方を検地します。自らの覇権の地を,京・大坂から距離を置いた関東の江戸にしようと考えていたからに他なりません。この年の10月,家康は江戸に帰っています。
しかし,翌年1月には再び伏見に戻ります。島津氏の薩摩・大隅・日向の所領を安堵し,朝廷に赴いたり,二条城と伏見城を修復したりします。6月には交趾(コーチまたはコーシ=現在のベトナム北部)の船が備前にやって来て,家康に孔雀・象・虎などを贈っています。佐竹氏を水戸から秋田へ転封したのも,この年のことです。またこの年に,中山道にも伝馬制を設けています。さらにこの年,佐渡や石見(いわみ)の鉱山から,多量の金銀が採掘されました。それらもまた,徳川氏の財政を支えたことはいうまでもありません。
さて,慶長8年1月1日,家康は62歳の新春を迎えます。そして1月21日,家康のもとに,勅使の権大納言広橋兼勝が訪れました。家康を征夷大将軍に補任(ぶにん)するという内旨を伝えに来たのです。家康は使者に,黄金三枚と小袖ひとかさねを贈っています。それから3週間後の2月12日,家康は後陽成(ごようぜい)天皇の勅使である参議勧修寺光豊(かじゅうじみつとよ)から,将軍宣下(せんげ)を受けました。その内容は,右大臣・征夷大将軍・源氏長者・淳和奬学(じゅんなしょうがく)両院別当に任じ,牛車(ぎっしゃ)・兵仗(へいじょう)をゆるすというものでした。これほど多くの宣旨を同時にもらったのは,史上徳川家康だけです。
「鹿苑日録」(ろくおんにちろく=京都鹿苑院の僧の日記で,戦国史の重要史料)によれば,その日は早朝から雨でしたが,午前8時ごろには晴れたということです。日録は,内府(家康)が将軍宣下を受ける日なので,天も雨天を晴天にしたのであろう,と記します。
そして3月21日,家康は衣冠束帯(いかんそくたい)姿で参内(さんだい)し,将軍拝賀の礼を行なったのでした。また3月27日には,勅使を迎えて将軍宣下の賀儀が行なわれました。こうして家康は江戸に幕府を開き,以後265年間続く,徳川15代将軍の初代となったのです。
関ヶ原の戦い
慶長5年9月15日(現在のグレゴリオ暦に換算すると1600年10月21日に当たります),美濃関ヶ原(現在の岐阜県不破郡関ヶ原町)で,1日の戦いとしては,史上最大の合戦が行なわれました。関ヶ原は東西1里(約4キロ),南北半里(約2キロ),伊吹山地と鈴鹿山脈に挟まれた小盆地です。中仙道の宿場町ですが,古代三関の一つ不破の関のあったところで,交通の要衝でした。あとの二つは,東海道の鈴鹿の関と北陸道の愛発(あらち)の関です。
ともあれ,その関ヶ原に東西合わせて17,8万もの軍勢(一説に20万)が押し寄せて,まさに天下分け目の大会戦が行なわれたのです。
戦いの発端は,慶長3年(1598年)8月,豊臣秀吉が没したことによります。豊臣政権は,秀吉の子豊臣秀頼を中心に,徳川家康を筆頭とする五大老と,石田三成を筆頭とする五奉行によって行なわれることになりました。秀吉の遺命によるものです。
しかし,翌慶長4年になると,五大老,五奉行間がゴタゴタし始めます。ですが前田利家が睨みをきかせており,何とか収まっていました。ところが,この年の閏(うるう)3月3日,利家が病没すると,細川忠興,蜂須賀家政,福島正則,藤堂高虎,黒田長政,加藤清正,浅野幸長(よしなが)の七大名が,石田三成を襲うという事件が起こります。三成は大坂を脱出して,家康に救けを求めて,何とか危地を脱しました。家康はこのとき三成を殺すこともできたのですが,それでは大義が立ちません。家康は,三成に挙兵させて一気に叩き,天下を我がものにしようと考えていたのです。
8月を過ぎると,他の4大老が前後して帰国し,家康が一人大坂城西の丸に入ります。五大老の権限を,事実上一人で担うことになったのです。いっぽう,会津に帰国した五大老の一人上杉景勝は,城の修築や道路の整備などを行ないます。これを戦争の準備と受け止めた家康は,景勝に上洛を命じますが,景勝は応じません。そこで家康は,諸国の大名に動員令を下し,諸大名を率いて江戸を発ち会津へと向かいます。7月21日のことです。
しかしこれは,三成を挙兵させるための好妙な罠でした。もともと会津を攻める気のない家康は,ゆっくり兵を進め,下野小山に陣します。7月24日のことです。はたして,この陣に,危急の使者が駆けつけます。「三成挙兵」の報です。家康の東軍は急遽兵を返し,大坂へと向かいます。いっぽう三成の西軍は,これを阻止するため,9月15日の午前1時ごろ,雨の降るなか,主力部隊を関ヶ原に進出させ迎撃態勢に入ります。
かくて午前7時すぎから,東軍9万余,西軍8万余の大軍勢が激突することになったのです。結果は,西軍小早川秀秋の裏切りや島津勢の不戦などもあって,東軍の圧勝に終わりました。この戦いは豊臣家の内部抗争ですが,家康の胸中に,すでに天下人への思いがあったことはまちがいありません。
小田原征伐(おだわらせいばつ)
小田原城は,北条早雲に始まる後北条氏(小田原北条氏とも)5代の拠城です。戦国時代,後北条氏はこの城に拠って,約100年の間,関東地方に君臨しました。しかし,後北条氏は豊臣秀吉によって滅ぼされ(小田原征伐),その豊臣氏も大坂の陣で滅ぶと,江戸時代は譜代大名・小田原藩大久保氏の居城となって,明治維新まで続きました。
さて,小田原征伐は,小田原の役とも呼ばれる,戦国最大級の戦いのひとつです。1日の戦いでは関ヶ原合戦が最大ですが,小田原征伐は,秀吉が全国の大名を総動員して,陸と海の四方八方から小田原城を攻撃した,大規模な戦争です。それでは,戦いの模様を見ていくことにしましょう。
中国地方から九州まで,西日本をほぼ手中に収めた秀吉は,天正16年(1588年)4月,京都の聚楽第(じゅらくだい)に諸国の大名を集め,その権勢を誇りました。しかし,関東の北条氏政・氏直の父子は,秀吉の命令に応ぜず,上洛をしませんでした。関八洲(関東の八カ国)を支配下に収めた後北条氏は,秀吉の実力を甘く見ていたといわざるをえません。このとき秀吉は,すでに関白太上大臣の地位にあって,関東と東北地方を除く,日本の大半を支配下に収めていたのです。
秀吉が,北条氏直征伐の朱印状を発したのは,天正17年11月24日のことでした。しかし後北条氏は,秀吉軍との決戦の近いことを知って,支城を修復したり,兵員や糧食を貯えたりするのです。関八洲を攻め取った実績を過大評価していたのです。一方で,徳川家康に期待して,家康がうまく和睦に持ち込んでくれるであろうとも考えていたようです。しかし,それらは後北条氏側の勝手読みでした。
天正18年3月1日,秀吉は自ら京都を出発します。すでに東海道へ家康や織田信雄ら,東山道には上杉景勝や前田利家ら,海上からは九鬼嘉隆や長宗我部元親らの大軍が,関東へと向かっていました。中国の毛利氏や吉川(きっかわ)氏らも,後詰(ごづめ)として家康の支城らに陣取っていました。
後北条氏側も,箱根の西に山中城を築き,関東の各支城も固め,主だった北条一族の首将を小田原城に集めます。後北条氏にはかつて,籠城戦によって武田信玄や上杉謙信の大軍から小田原城を守った実績があります。しかし,今回の秀吉軍は,あまりにも強大でした。小田原城では,次々に落とされていく支城からの報告を前に,評定を繰り返すのみでした。ぐだぐだと会議を繰り返して結論が出ないときなどにいう「小田原評定」の語は,ここから出ました。
また,石垣山に砦を築き,ここから秀吉と家康が並んで,小田原城を見下ろし,立ち小便をしたという伝説があります。属にいう「関東のツレしょん」です。結局,7月5日に至って北条氏直は降伏し,北条氏は滅びることになります。いっぽう秀吉は,関東を支配下に収め,さらに会津に至って東北地方も制圧,日本統一を成し遂げるのです。
人取橋(ひととりばし)と摺上原(すりあげはら)の戦い
18歳の政宗が伊達氏17代の当主となったのは,天正12年(1584)のことです。翌年,二本松を領していた畠山義継が,政宗の父,伊達輝宗の館に投降してきました。面談が終り,畠山軍は引き揚げるのですが,このとき,とんでもないことが起こります。畠山の兵が,なんと輝宗を拉致(らち)して逃げるのです。政宗は,兵を従えてこれを追いました。
畠山軍は阿武隈(あぶくま)川の渡し場に着きました。ここを渡れば二本松領です。川を渡らせるわけにはいきません。そこで政宗は苦渋の選択の末,一斉射撃を命ずるのです。そうすれば父親の輝宗も射ち殺すことになります。このとき輝宗が,ためらわずに射て,と叫んだといいます。ともあれ,伊達軍の一斉射撃によって切羽つまった畠山義継は,輝宗を殺し,自らも切腹して果てたのでした。こうして,政宗の仙道方面への侵出は,父輝宗の生命と引き替えで,開始されたのです。
義継の戦死によって,反政宗の連合軍が結成され,佐竹義重を中心に約3万に及ぶ大軍が安達郡に侵入し,人取(ひととり)橋(福島県本宮市荒井)での遭遇戦となったのです。政宗の軍は約8千であったといわれますが,伊達成実(なりざね)の別働隊1千の猛政によって,連合軍を追います。連合軍の死者は961人,伊達軍は380人余といわれています。
天正17年6月,政宗は,会津磐梯山の麓,猪苗代湖の北に広がる摺上原に大軍を進めました。相馬氏や岩城氏に攻められた三春の田村氏を救援するためです。いっぽう,伊達の大軍が迫った猪苗代城主の猪苗代盛国は,決断を迫られます。蘆名氏に所属しているのですが,目前に迫った伊達軍と戦って勝ち目はありません。結局,伊達軍に内通したのです。
6月5日,政宗は2万3千騎を従えて,安子島(あこがしま)から6里(約24キロ)ほど進んで,猪苗代に陣を布きました。いっぽうの蘆名軍はおよそ1万6千騎。劣勢なうえに,田村攻めの進軍途中に,いったん黒川まで引き返し,いちど兵を整え直して猪苗代に進軍したので,かなり疲労していました。しかし,猪苗代湖岸と磐梯山麓の二方面で両軍は遭遇戦となります。この日,強い西風が吹いていました。東から攻める伊達軍は,目もあけられず,苦戦を強いられます。ところが午後になって風向きが逆転します。戦況も逆転し,ついに伊達軍は蘆名義広の軍を摺上原から一掃します。蘆名軍の戦死者は約1800(一説に2500),対する伊達軍は約500,伊達政宗の完勝でした。
戦いの翌年,正月を黒川城で迎えた政宗は,「七種(ななくさ)を一葉に寄せてつむ根芹」の発句を詠みます。白河・石川・岩瀬・田村・安積・安達・信夫の仙道7郡を1身に収めたことを誇っているのです。こうして政宗は,奥州の王というべき立場に立つのですが,すでに時遅く,秀吉による天下制覇が進んでいたのでした。