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山田長政シャムで毒殺される

 山田長政は,江戸時代の前期,シャム(今のタイ)に渡って活躍した日本人です。そのころ,シャムの都(みやこ)アユタヤ(アユチヤ)には日本人町があって,多くの日本人が在住していました。海外雄飛を試みた日本人が少なからずいたのです。
 長政の出身地は駿河国(するがのくに=静岡県)です。若いころは仁左衛門(にざえもん)といい,一時は沼津城主である大久保治右衛門忠佐(ただすけ)の駕籠舁(かごかき)をしていたといいます。
 しかし駕籠舁は一時のアルバイト,あるいは沼津城主とのコネを得るためだったかも知れません。このころから長政は,海外雄飛を夢見ていたと思われます。誰から,どのようにして海外の知識を身につけたのか判りませんが,当時,海外へ出て一旗挙げようという若者が,少なからずいたものと思われます。
 彼は慶長16年(1611)ごろ,朱印船に乗ってシャムに渡り,アユタヤの日本人町を訪れます。その当時日本人町には,千人以上の日本人が住んでいました。その中で長政は,次第に頭角を現していきます。そのころ,日本人町の長(おさ)として町を束(たば)ねていたのは,城井久右衛門という人物です。久右衛門は,シャムの政府にも重んじられていました。
 長政は,その久右衛門に認められて,港務長から日本人町の長へと,転身していきます。シャムの国使が日本に来朝することになったとき,長政は部下を派遣して,国交親善につとめました。
 長政は,シャムの国王ソンタムの信任を得て,オヤ・セナピモクという,シャム国最高の官位を得ることになります。
 また長政は,日本やマラッカ(マレー半島の南西部に位置した港湾都市)などとの貿易にも従事していました。
 1628年(寛永5年),ソンタム王が死去しました。すると王位継承をめぐって,争いが起こります。王の弟の派閥と,王子の派閥が争うのです。長政は王子派として,この争いに勝利しました。そして,王子を新たなるシャムの国王に擁立するのです。もちろん,新国王の最も有力なバックボーンが,山田長政です。
 しかし長政は王子派の一族ではありませんから,自らが国王となることはできません。あくまでも王子派を支える有力な外人部隊の司令長官にすぎないということになります。
 とはいえ,その長政が強大な力を持って,王子派の動向を左右していたのです。王子派の中に,そうした長政に対して,不平や不満を持った者がいたとしても,おかしくありません。王子派の実力者で王族の一であったオヤ・カラホムもその一人です。彼は,王位も伺っていました。
 そこで,長政を南方のリゴール(六毘)の総督に任命して,中央から遠ざけてしまいます。リゴールは,隣国のパタニ王国と紛争中でした。長政は,パタニからの侵入軍との戦闘中,足を負傷します。このとき治療したのが,オヤ・カラホムの密命を受けたシャム人で,彼は長政の傷口に毒薬を塗るのです。このため長政は1630年(寛永7年),死去しました。40歳前後でしたでしょうか。

紫衣事件により沢庵和尚ら流刑

 吉川英治の名作『宮本武蔵』は,あばれん坊の少年武蔵(たけぞう)を,沢庵(たくあん)和尚が懲(こ)らしめるところから始まります。こうした話は,もちろんフィクションですが,武蔵も沢庵も,れっきとした歴史上の重要人物です。
 武蔵は,兵法「二天一流」の創始者であり,兵法書であると同時に哲学書でもある『五輪書』の作者で,さらに国の重要文化財に指定されている絵画三点の絵師でもあります。そして沢庵は,紫衣(しえ)事件で徳川幕府と真向からやり合った気骨の名僧です。紫衣というのは,読んで字のごとく紫の衣のことですが,勅許を得た高僧しか着ることができません。
 江戸時代の初期,その紫衣の勅許にからんで起こったのが紫衣事件です。
 寛永4年(1627)7月,宗教統制を明確にするため,徳川幕府は,重鎮である土井利勝,板倉重宗,金地院崇伝(こんちいん すうでん)の3人が相談して,5ヵ条の制禁を出します。その制禁とは,禅僧で元和元年(1615)以後に紫衣の勅許を受けた者に対して,これを取り消すなどとしたもので,彼らは「勅許紫衣之法度(ちょっきょしえのはっと)」や「禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)」に違反しているというものです。つまり,朝廷が出した紫衣の勅許に対して,幕府が異議を申し立ててこれを取り消すと通達したのです。
 ですが,寺院の側も負けてはいません。この通達によって,より大きな影響をこうむったのが大徳寺と妙心寺ですが,翌春,沢庵(たくあん)和尚ら大徳寺の強硬派の僧たちが,幕府に抗議文を送ります。かなり激しい内容で,起草したのは沢庵です。その内容は,「大徳寺法度」「妙心寺法度」の第2条に,「参禅修行就善知識三十年費綿密工夫,千七百則話題了畢之上」すなわち30年に及ぶ修行や1700の規則を暗記せよなどというのは現実的ではない,というのです。いっぽう幕府側も,正式に入院の儀を経た者や50歳以上の者の綸旨(りんじ)は許可するなど,既成の事実をある程度まで認め,その代わりに詫状(わびじょう)の提出を求めました。詫状の文案は,あらかじめ幕府が作ったものです。
 ともあれ多くは,詫状を提出して幕府の意に従うのですが,沢庵をはじめ何名かの僧は,なおも従いません。抗議のために元和6年閏(うるう)2月,江戸に下ります。幕府では,この問題に対して,崇伝は厳罰を主張し,天海は軽い処分を主張しました。結局,大徳寺・妙心寺の僧4名は,東北地方に配流(はいる)されることになります。沢庵は,出羽国上山の土岐(とき)氏に預けられましたが,同9年7月に天海の努力によって赦され,江戸に帰ります。しかし,11年9月まで,京には入れませんでした。
 こののち沢庵は,徳川家光の信任を得て,毎年江戸に参上し,紫衣勅許の制限も,緩和されることになるのです。

幕府,キリシタン多数を処刑

 キリスト教が日本に伝えられたのは,戦国時代真盛りの天文18年(1549)のことです。イスパニア(スぺイン)の宣教師フランシスコ・ザビエルによるものでした。
 戦国の三大英雄・信長・秀吉・家康によるキリシタン(キリスト教及びキリスト教徒)政策には,それぞれに特徴があります。
 信長はキリシタンを保護しますが,それは,信仰心の故ではありません。本願寺教団と長期にわたって戦っていたので,敵対する仏教勢力との対抗上,キリスト教を保護したのです。いっぽう,信長の後継者である秀吉は,サン・フェリッペ号事件を契機にキリスト教を大弾圧しました。
 サン・フェリッペ号事件とは,慶長元年(1596)に,遭難して神戸に入港した同船を,秀吉が没収した事件のことです。秀吉は増田(ました)長盛に命じて,同船の積荷及び所持金のいっさいを没収しました。さらに,その時の水先案内人のちょっとした失言から,キリスト教は日本国土征服の手段であるとして,秀吉のキリスト教への弾圧が始まったとされています。秀吉はこのとき長崎で信徒を処刑しましたが,現在もその跡地に記念碑がのこされています。二十六聖人の殉教碑です。
 家康は,幕府の基礎を固め海外諸国との和平交渉を進めるために,当初はその信仰を容認し,宣教師を利用したりもしました。そのため,フランシスコ会をはじめ,布教活動が活発となり,教線は関東から東北地方へと伸びていきました。いっぽう慶長5年,オランダ船のリーフデ号が漂着したことによって,プロテスタントの国であるオランダ,イギリスとの交渉が始まりました。家康の寵愛を受けたイギリス人のウィリアム・アダムス(三浦按針=みうらあんじん)はよく知られています。
 彼によるスペイン,ポルトガルへの中傷,特に,宣教師がカトリックの国々の国土侵略政策の一役を荷ない,信徒を煽動して反乱を起こさせることを謀んでいる,という示唆は,幕府に大きな危惧を与えました。
 幕府は,禁教令を出してキリスト教を禁ずるのですが,宣教師や信徒に対する圧迫・迫害は,江戸,京都をはじめ全国に及びました。
 各地の教会が破壊され,宣教師たちは長崎に集められて,マカオやマニラに追放されてしまいます。いわゆる「大追放」です。このとき,高山右近や内藤如安(じょあん)も,マニラに追放されました。遠藤周作の名作『沈黙』の背景をなす時代です。しかし,大追放にもかかわらず,国内に潜伏する宣教師は跡を断ちませんでした。
 幕府は,「五人組」の制度を設けて互いに監視させ,懸賞金制度をつくり,宣教師や信徒を密告させました。元和8年(1622)には,長崎で,イエズス会のカルロ・スピノラ以下55人の宣教師と信徒を処刑しています。
 三代将軍家光のころになると,禁教方針はさらに厳しくなり,やがて「島原の乱」が起こることになります。結局,幕府によるキリシタン断圧は,幕末まで続くことになります。さらに明治新政府も,これを受け継いでいきますが,諸外国から非難を受け,明治6年(1873)になって,やっと信教の自由が認められたのでした。

二代将軍秀忠と娘和子の入内

 江戸幕府の第2代将軍徳川秀忠は,戦国時代真盛りの天正7年(1579年)4月7日,遠江(とおとうみ=現在の静岡県西部)の浜松城に,徳川家康の3男として生まれました。
 その3男が,なぜ徳川家を継ぎ幕府の総帥になったのでしょうか。長兄の信康が自害させられ,次兄の秀康が,羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)の養子となったからです。秀康はその後,結城(ゆうき)氏を継ぎ,関ヶ原の戦いでの活躍によって,越前国福井藩67万石の藩主となりました。
 さて,秀忠について語ることにします。天正18年(1590年)正月,秀忠は上洛して秀吉に拝謁(はいえつ)し,秀吉の偏諱(へんい)を受けて「秀忠」と名乗り,元服して従四位下侍従(じゅしいげじじゅう)に叙任されます。まだ11歳の少年です。とはいえ,同19年には正四位下(しょうしいげ)少将を経て参議兼右近衛中将(うこのえのごんのちゅうじょう)となり,翌,天正20年(1592年=12月に文禄と改元)には,従三位(じゅさんみ)権中納言に昇進するのです。まだ,満13歳です。本人は何が何だか解らなかったでしょう。
 慶長5年(1600年),21歳になった秀忠は父家康に従って,会津の上杉景勝を攻撃するために,先鋒として東北へと向います。これは,石田三成を挙兵させるための罠(わな)でした。案の定,三成は徳川軍の留守を狙って挙兵します。下野国小山(しもつけのくにおやま)で,その報に接した秀忠は,父家康と共に直ちに兵を返して西上します。家康は東海道を,秀忠は東山道をとりますが,8月,秀忠軍は真田昌幸の軍勢に進路を阻まれてしまいます。そのため秀忠は,真田軍を信州上田城に攻めますが,時間を空費し,関ヶ原の戦いには間に合わなかったのです。駆けつけたときには,戦いは終わっていました。秀忠は家康の勘気をこうむりますが,諸将の取りなしで,何とか赦(ゆる)されたのでした。
 こうしたことがあったとはいえ,秀忠は今や,まぎれもない徳川家の後継者です。慶長8年(1603年)2月,家康が征夷大将軍に任じられると,秀忠は右近衛大将(うこのえのたいしょう)となり,自らの娘 千姫を,秀吉の遺児豊臣秀頼に入輿(にゅうよ)させます。秀忠は3月21日入洛しますが,率いた軍勢は10万を超えていました。
 入洛して間もない4月16日,秀忠は徳川氏第二代征夷大将軍に任じられ,同11年9月には,新営がなった江戸城に入城したのでした。とはいえ,この後10年以上にわたって,実質は大御所家康が実権を握り幕府を支配します。諸大名の多くはこれに従いますが,大坂城には依然として豊臣秀頼が君臨していました。形の上では秀忠の娘婿ですが,徳川氏にとっては,秀忠がまぎれもなく滅ぼしてしかるべき存在でした。
 そして,慶長19年から翌,元和元年にかけての大坂冬・夏の陣で,ついに秀頼を自害させて豊臣氏を滅ぼし,元和2年(1616年)に家康が没してからの後は,まぎれもない主権者となりました。
 元和6年,秀忠は自らの娘和子(かずこ,あるいは「まさこ」とも)を後水尾(ごみずのお)天皇に入内(じゅだい)させ,後水尾を退位させると,和子の生んだ孫娘を即位させます。明正(めいしょう)天皇です。元和9年,秀忠は家光に将軍職を譲り大御所となりましたが,なお実権を握り続けました。秀忠は,家康を除けば最も強大な将軍であったのです。

江戸・大坂の海運に携わった菱垣廻船

 江戸時代,多くの物資が海運によって江戸・大坂間を往き来しました。陸路で馬や荷車で運んだのでは,山坂道も多く,いくらも運べません。ですが船であれば大量の物資を運ぶことができました。その海運に,樽廻船(たるかいせん)と共に活躍したのが,菱垣(ひがき)廻船です。
 通称「千石船」と呼ばれた弁才船(べざいせん)で,大和型帆船です。なお弁才船は,中世末期に瀬戸内海で使われ出した輸送船の一船型。弁財船とも書きます。江戸時代の中期以後,海運隆盛時の主要廻船として,全国的に活躍しました。なお「ベザイ」の意味は不明です。五百石積以下の中小型船でしたが,17世紀末には四角帆一枚の主航と船首の弥帆(やほ)という小帆一枚の伝統的帆装ながら,逆風帆走も可能な帆走専用船化に成功して人力航海を不用とさせ,他の型の船より優位に立ちました。
 18世紀には,さらに改良が加えられ,航海の迅速化,船組員の削減,大型船化という海運業の能率改善に大きく貢献しました。そのため,最も経済性の高い廻船として,建造技術が全国的な普及をみました。小はローカル用の百石積級から,大は長距離幹線航路用の2千石積に及び,俗称「千石船」と呼ばれました。この場合の「千石」は石高ではなく,大型の意です。
 さて,樽廻船と共に,江戸と大坂間の海運の主力となった菱垣廻船について述べることにしましょう。
 菱垣廻船は,菱垣廻船問屋仕立ての廻船で,その名は,廻船の玄側(げんそく)の垣立(かきだつ)の下部を菱組の格子で装飾したことに由来します。一見して,菱垣廻船問屋仲間の船であることが判りました。
 菱垣廻船の始まりは,江戸時代初期の元和五年(1619),泉州堺の商人が,紀州富田浦より250石積の廻船を借り受け,大坂より江戸へ日常物資を積み送ったことに由来します。この後,寛永元年(1624)には,大坂北浜の泉屋平右衛門が江戸積船問屋を開業し,寛永4年に「毛馬屋」「富田屋」「大津屋」「顕屋(あらや)」「塩屋」の5軒が,同じく江戸積船問屋を始めるにいたって,大坂の菱垣廻船問屋が成立しました。この廻船問屋によって,菱垣廻船が仕立てられたのです。
 こうして江戸,大坂間の海運が盛んになり,元禄7年(1694)に江戸の菱垣廻船積合荷主が協議して江戸十組(とくみ)問屋を結成,廻船はその共同所有となりました。同時に十組問屋は,菱垣廻船問屋運航の差配機関となりました。しかし,享保15年(1730)に,十組問屋の仲間から「酒問屋(さかどいや)」が脱退,酒荷専用の樽廻船を独自に運航させました。しかも,その樽廻船は,迅速性,安全性に勝り,低運賃であったことから,菱垣積荷物から樽廻船への洩積(もれづみ)が起こり,菱垣・樽間の紛争が続くことになります。
 洩積によって弱体化した菱垣廻船を強化するため,菱垣廻船積仲間を結成,商品流通の独占強化をはかりましたが,天保改革によって,菱垣・樽両廻船に自由に積み込まれるようになり,以後菱垣廻船は樽廻船に圧倒されて幕末に到るのです。

大坂冬の陣へ,鐘名事件

 徳川秀忠に将軍職を譲り,駿府に隠居しとはいえ,家康こそが揺るぎのない天下人でした。しかし,その家康にとって,唯一心配事がありました。大坂城に君臨する豊臣秀頼の存在です。太閤秀吉の遺児である秀頼の存在は,決して小さなものではなかったのです。秀頼を立てて徳川幕府と対抗しようという,旧豊臣方大名たちが,少なからずいたからです。
 そのうえ秀頼は,太閤秀吉が貯えた莫大な財産を有していました。大坂城の地下には,金銀がうなっていたといいます。財力はイコール兵力でもある。どれだけの兵が集められるかには,財力がかかっているのです。
 家康は何とかこの金銀を消費させようと,秀頼に寺社の造営や修理をすすめます。山城国(京都府)や大阪,近江(滋賀県)を中心に,秀頼造営の寺社が数多くあります。かなりの金銭が必要であったと思われますが,大坂城の蓄財はびくともしませんでした。そこで家康は,方広寺(ほうこうじ)大仏殿の再興を秀頼にすすめます。
 方広寺大仏殿は,慶長元年(1596)に地震で破壊されたままになっていたものを,慶長7年に再興にかかりました。しかし,完成直前に失火によって灰燼(かいじん)に帰してしまいました。家康が人をつかって放火したのではないかとも噂(うわさ)されました。そして慶長13年,家康は秀頼に対して,再び造営をうながします。太閤殿下の冥福のため,豊臣家の隆昌と秀頼の武運長久を祈るため,というのが造営の理由です。しかし,豊臣家の財源を減らすことが目的であることは,いうまでもありません。
 この事業で膨大な経費がかかり,「太閤御貯えの金銀払底」と『当代記』に記されているほどです。さすがの豊臣家も,財産の多くを遣い果たしてしまったのです。取りあえず家康の目的のひとつは叶いました。あとは豊臣家とどう戦うかです。理由もなくいきなり攻めたのでは世間は許しません。戦いの口実をつくる必要がありました。
 秀頼が,片桐且元ら30名ほどを引き連れて上洛したのは,慶長16年(1611)のことでした。二条城で秀頼と対面した家康は,大変上機嫌であったといいます。本多正信は,「秀頼は愚鈍だと聞いていたが,なかなか賢明なお人ではないか」と語っています。それは家康も同じでした。立派で身体も大きく賢明な人物となれば,いいかえれば徳川家にとって危険な人物ということになります。この頃の落首に,つぎのようなものがあります。「御所柿は独(ひとり)熟して落(おち)にけり木の下に居て拾う秀頼」。家康はすでに老齢であり,このままだと何もせずに秀頼の天下となるだろうというのです。
 家康とすれば,至急大坂城を攻め滅ぼさなければなりません。しかし理由が必要です。
 慶長19年の夏,春に完成した方広寺大仏殿の開眼(かいがん)供養の日を迎えることになりました。その供養のありかたを巡って,幕府側は,あれこれと難くせをつけるのですが,きわめつけは,方広寺の巨大な梵鐘の鐘名でした。当時の名僧である清韓文英(せいかんぶんえい)による名文でした。それに,五山の長老たち林羅山(はやしらざん)ら曲学阿世(きょくがくあせい)の学者たちが,ケチをつけるのです。文章の中に「国家安康」と「君臣豊楽」という文言を見つけるのです。前者は国家が安泰であること,後者は君も民も楽しく,という意味にほかなりません。しかるに,前者は家康の名を分断しており,後者は豊臣氏が栄えるという意味だというのです。かくて幕府は,秀頼に難題をつきつけることになります。一大名として江戸に参勤するか,国替えしてどこかの地方の城へ行くか,母の淀殿(淀君)を人質として江戸に送るか,といういずれも秀頼というより大坂方としては飲めぬ条件です。かくして,大坂冬の陣が始まることになります。

岡本大八事件と有馬晴信

 岡本大八は,本多正純の与力(よりき)で,キリシタンでした。洗礼名はパウロ。本多正純は徳川家康の側近で,幕府の実力者です。


 岡本大八事件とは,慶長14年(1610)12月,キリシタン大名の有馬晴信が,長崎港外でポルトガル船を撃沈しますが,その恩賞斡旋にかこつけて,岡本大八が多額の金品を詐取した事件です。
 晴信のポルトガル船撃沈は,もちろん家康の許可を得てのことです。すでに江戸幕府は成立しています。晴信はこの働きに対して,当然,幕府から恩賞があるものと信じていました。
 岡本は一大名の家臣でしかありませんが,その大名が幕府随一の実力者本多正純となれば話は別です。その岡本が,晴信に,約束したのです。晴信の旧領であった肥前(長崎県・佐賀県)藤津・彼杵(そのき)・杵島(きしま)の三郡を晴信に賜わるよう幕府に斡旋すると。そして晴信から多額の賄賂を受け取るのです。
 ところが,幕府からは何の音沙汰もありません。大八に問いただすと,大八は幕府の朱印状を晴信に渡します。ところが,この朱印状は偽造したものであったのです。
 事件の発端は,慶長17年春,有馬晴信が,家康の側近本多正純に一通の書状を出したところから始まります。書状は,岡本大八より旧領返還の朱印状を得ていますが,いつこれを実施してくれるのですか,というものでした。
 有馬晴信は,大友義鎮(宗麟)や大村純忠らと共に,天正少年遣欧使節団をローマに送った人物で,戦国の勇将としても知られていました。しかし,晴信から書状を受け取った本多正純には,一体何のことか訳が解りません。そこで大八を呼んで直接問いただしましたが,大八は,身に覚えがないことであると言い張りました。しかし調査の結果,晴信の言い分に理がありました。そこで,晴信と大八が駿府へ呼び出され,両者の言い分が述べられましたが,結果は大八が,朱印状まで偽造したことを白状し,この事件に幕が下りました。しかし正純に大きな汚点を残したのでした。
 慶長15年3月21日,岡本大八は駿府城下を流れる安倍川の河原で,火あぶりの刑に処せられました。晴信はその翌日,甲斐国の都留(つる)郡に配流されたあと,5月6日に切腹させられて没しました。
 しかし,これでこの事件が終わったわけではありません。家康は,有馬晴信と岡本大八が共にキリシタンであることを知ると,大八が処刑されたその日に,京都や長崎,有馬地方などにキリシタンの禁制を命じたのです。また旗本の中にもキリシタン信徒がいて,なかには火あぶりの刑に処せられたものもいました。さらに,家康の愛妾のひとり阿滝(おたき)の方も大島に流罪となりました。彼女は朝鮮貴族の出身で,絶世の美女であったといいます。洗礼名はジュリア,家康は島役人に,もし彼女に改宗の気持がみえたら,すぐに駿府へ戻すようにと命じたといいます。
 ともあれ慶長18年12月,家康は再度キリシタン弾圧を行い,同年末に,公式に「伴天連(ばてれん)追放令」を全国に布告しました。これにより,日本国中のキリスト教の教会が焼き払われ,キリシタン信徒は徹底的に弾圧されて,沈黙しました。復活するのは幕末になってからです。

家康,二条城で豊臣秀頼と会見

 慶長10年(1605)4月,伏見城で家康は征夷大将軍職を辞職し,二代将軍には息子の秀忠を任じました。豊臣系の大名の多くは,家康は二代将軍位を豊臣秀頼に譲るのではないかと見ていました。家康が孫娘の千姫を秀頼に嫁がせたのも,そのためではないかと。しかし家康は,征夷大将軍職は徳川家の世襲であることを示したのです。千姫の輿入れは,豊臣系大名の懐柔と時間かせぎに過ぎなかったのです。
 多くの大名は伏見城に来て,祝賀の言葉をのべました。だが,秀頼からは何のあいさつもありません。そこで家康は,秀吉の未亡人である高台院(北政所=きたのまんどころ)を通じて,秀頼の上洛をうながしますが,秀頼側は聞き入れません。それはそうです。秀頼の生母淀殿(淀君)が強く拒否したからです。高台院と淀殿の嫁姑の仲が悪いことを,家康は解っていて,あえて高台院を使者としたのです。こうした状況は,すぐに噂となって流布します。豊臣氏のひざもとである大坂では,すわ戦さかということで,避難する民衆で一時ごったがえします。しかし家康はその後,それ以上強く押さず,しばらく大坂と没交渉で過ごしました。
 慶長12年,家康は江戸城の普請に際して,多くの大名に夫役を課しますが,秀頼に対しても,500石に1人の割合で人夫を出すように通達しています。つまり,豊臣家も,幕府に従う一大名としての扱いです。
 慶長13年の春,秀頼が疱瘡にかかると,福島正則ら旧豊臣方の大名が,こっそりこれを見舞っています。しかし幕府(家康)をはばかって,大坂には近づかない大名の方が,むしろ多かったのです。
 豊臣政権における五大老の一人であった前田利長は,慶長10年,家康に頼って100万石の領地を弟の利常に譲り,自らは隠居して能登20万石となり,家康に名器の「茶入れ」と「名刀」それに黄金100枚を献上しています。また,同15年のことですが,秀頼と淀殿から,「太閤殿下以来のよしみをもって,豊臣家を支持してほしい」という手紙をもらいます。だが利長は,「亡父利家が秀頼公の傅役(もりやく)として大坂城に詰めて病没しましたが,自分は,関ヶ原の役で東軍に属して戦い,その後,家康・秀忠両公のおはからいで,三カ国の大守にしていただきました。そのご恩をもって幕府へのご奉公しか考えておりません」と答えています。また利長は,幕府の嫌疑を避けるために,わざと鼻毛をのばして馬鹿のふりをしたと伝えられています。
 慶長16年3月,家康は再び秀頼の上洛を要求します。このときも淀殿は,会いたいなら家康が大坂に来ればよい,と強硬な態度をとりますが,加藤清正や浅野幸長(よしなが)らが淀殿を説得して,秀頼は片桐且元らを従えて上洛し,二条城で家康と対面します。家康は上機嫌で秀頼を歓待しますが,立派に成人し賢明な人物であることに驚きます。秀頼は愚鈍であると聞いていたからです。このころの落首に,
「御所柿(ごしょがき)は独(ひと)り熟して落(おち)にけり 木の下に居て拾う秀頼」
 というものがあります。御所柿は家康にほかなりません。すでに家康は70歳を過ぎた老人です。秀頼より先に亡くなるのは解りきったことです。そうすれば天下は秀頼のものとなるだろうというのです。家康はこのとき,自分の目の黒いうちに,秀頼を亡ぼしておかなければ,と考えたにちがいありません。

徳川御三家が成立する

 家康は徳川家の始祖ですが,家康の直系によって徳川300年が続いたわけではありません。家康のあと2代将軍秀忠,3代家光,4代家綱と続きますが,家綱が実子のないままに亡くなり,家康の直系はここで跡絶えます。とはいえ,家康には多くの子があり,それぞれに一家をなしていました。
 家康の長男信康は,織田信長とのからみで自死させられてしまいますが,二男の秀康は越前松平家の祖となり,九男の義直は尾張徳川家,十男頼宣は紀伊徳川家,十一男頼房は水戸徳川家の祖となりました。この尾張・紀伊・水戸の徳川家が「御三家」です。
 家綱の没後,5代将軍職を嗣いだのは,綱吉です。綱吉は3代将軍家光の庶子です。なお,正妻が生んだ長男が嫡子で,相続権のトップとなります。相続権は男子にしかなく,正妻に男子がない場合には,側室の男子が生年順に相続権を有しました。とはいえ,側室は何人もおり,男子が何人もいる場合もあって,必ずしも,いつもすんなりと相続がまとまったわけではありません。そこでお家騒動が起こることになるわけです。各大名家も一緒です。お家騒動は,小説や芝居,映画などの絶好のテーマとなって今日に至っています。
 さて,徳川家の御三家成立に至る相続について,見ていくことにしましょう。
 家康のあと,徳川将軍家の嫡流は,家康の三男秀忠が継ぎます。先に記したように,長男は自死させられ,二男は越前松平家を継いでいたからです。秀忠のあと,3代家光,4代家綱と続きますが,家綱には実子が生まれませんでした。延宝8年(1680),家綱が死去したことにより,家康の直系は跡絶えたのです。
 家綱の跡を継いだのは,家光の庶子で家綱の2番目の弟である綱吉です。しかしこの綱吉にも男子が生まれませんでした。そこで綱吉の兄である綱重の子家宣が,徳川第6代将軍となったのです。次いでその子で,まだ幼少の家継が7代将軍となりましたが,家継は享保元年(1716),幼少のまま亡くなってしまいました。ここに秀忠の血統も絶えるのです。それどころか,徳川家の血統も危ういこととなってしまいました。
 そこで,紀伊徳川家から吉宗が迎えられて,8代将軍に就任することになります。吉宗は,紀州藩の藩政改革を成しとげ,極めて優秀な人物であると共に,血統的にも家康に近かったのです。その吉宗によって享保の改革が成されることになります。吉宗の登場がなければ,徳川幕府は,もう少し早く終わっていたかもしれません。
 さて,吉宗は成長した2人の庶子宗武(むねたけ)と宗尹(むねただ)を,大名として独立させず,それぞれ田安邸と一橋邸に住まわせました。また,九代将軍家重も,庶子の重好を清水邸に住まわせます。これが「御三卿」です。「御三家」「御三卿」は,徳川宗家に世嗣ぎが生まれなかった場合に,将軍を出すための大切な家柄でした。幕末,13代家定に至って実子が絶えたとき,大老井伊直弼のもと,水戸の推す一橋慶喜と紀伊慶福が激しく対立したことは,よく知られています。結局,水戸斉昭の推す慶喜が十五代将軍職を嗣ぎましたが,幕府が倒れ,慶喜が最後の将軍となったのです。

平戸にオランダ商館ができる

 オランダ商館は,江戸時代,平戸(現長崎県平戸市)および長崎にあったオランダ東インド会社の日本支店です。オランダと徳川幕府との交流は慶長5年(1600年)にオランダ船「リーフデ号」が豊後(大分県)に流着したことに始まります。そして慶長9年(1604年),オランダとの国交が開始されたとき,商館が置かれたのが平戸でした。
 オランダは,ヨーロッパ諸国のなかで最も早くから日本と交渉を持った国のひとつです。また鎖国中も,欧米では唯一の交易国でした。ヨーロッパの文物は,もっぱらオランダを通じて輸入され,諸科学などもオランダ語で紹介されました。それらの学問は「蘭学(らんがく)」と称され,蘭学を学ぶ日本人も少なくありませんでした。
 なおオランダの呼称は,ポルトガル語の「Olanda」に由来しています。日本では,阿蘭陀,和蘭陀などと表記されました。
 さて,家康は海外との交易を官許制とします。すなわち,貿易に従事しようと望む者は,必ず家康に願いを出て,その承認を得なければなりませんでした。その承認のしるしとして,朱の印を押した「異国渡海朱印状」がさずけられました。これを携行した商船は,公海,領海を問わず侵犯されることはなく,交戦国の港湾の出入りや封鎖線の通過も許されたといいますので,その法的効力はとても大きなものだったのです。
 さて,その朱印船貿易に従事した貿易家は105家,派遣された船は356隻であったといわれます。大名では島津家久,松浦鎮信(まつらしげのぶ),有馬晴信,鍋島直茂(なべしまなおしげ),加藤清正,細川忠興(ただおき)など8家,それに角倉了以(すみのくらりょうい),茶屋四郎次郎(ちゃやしろうじろう),亀屋栄任(えいにん),末吉孫左衛門(すえよしまござえもん),尼崎屋又次郎(あまがさきやまたえもん),木屋弥三右衛門(きややそうえもん),末次平蔵(すえつぐへいぞう),荒木宗太郎,高木作右衛門(さくえもん),長谷川藤広(ふじひろ),長谷川藤正(ふじまさ)などが,当時活躍した豪商たちです。
 朱印船の渡航先は,台湾,澳門(マカオ)から,東はモルッカ諸島,南西はマレー半島に及ぶ地域です。はるか太平洋上のこれらの国々へ,よくも小さな帆船で往き来したものだと,感心します。おそらく難破したり漂流を余儀なくされた船も,少なからずあったことと思います。ともあれ,インドシナ半島の交趾(コウチ=ベトナム),柬埔寨(カンボジア),暹羅(シャム=タイ),呂宋(ルソン=フィリピン)などで活躍する者が多く,これら各地には日本人町がつくられました。
 シャムでは,日本人傭兵の隊長から六毘(リゴール)王にまでなった山田長政,台湾では,商権をめぐってオランダ人と争った浜田弥兵衛(やひょうえ)の話などが,知られています。
 ところでオランダ商館は,寛永18年(1641年)に平戸から長崎の出島に移転させられました。なお日本は,寛永16年から鎖国体制となりますが,ヨーロッパでは唯一オランダだけが,長崎の出島にあって日本と交流をつづけました。また,長崎市の「出島オランダ商館跡」の史跡や出島資料館で,往時をしのぶことができます。