Fujiwara

編集者のひとりごとを更新しました。

編集者のひとりごとを更新しました。「面白き こともなき世をおもしろく (  )ものは心なりけり

ちはやぶる日本史を更新しました

ちはやぶる日本史を更新しました。「幕府,尾張藩主徳川宗春を監禁

幕府,尾張藩主徳川宗春を監禁

 徳川御三家の筆頭である尾張徳川家の重臣5人が,江戸城に召喚されたのは,元文4年(1739)1月12日のことでした。そこで彼らは,時の将軍徳川吉宗から,次のような厳しい命を受けました。
 「尾張藩主徳川宗春(むねはる),行跡よろしからず,よって隠居謹慎すべし」
 御三家筆頭ということは,俗にいう徳川三百藩のトップに位置します。その尾張藩の長が謹慎させられたのです。まさに未曽有の大事件でした。ですが,各大名家の動揺も世間の評も,さして大きなものではありませんでした。むしろ幕府の動きは遅きに失するという評の方が少なくなかったのです。というのは,宗春の行跡にいろいろ問題があったからです。
 元文4年の時点で,宗春は44歳,藩主に就任して9年目でした。いっぽう徳川吉宗は56歳,将軍職に就任してより23年の実績を積んでいました。ですが宗春は,何かと将軍吉宗に楯つくのでした。将軍が吉宗でなければ,尾張藩は取り潰し,宗春は死罪ということになっていたかもしれません。
 もともと紀州藩から入って将軍となった吉宗と,尾張藩との間には,遺恨があったとされています。正徳6年(1716=享保元年)4月,7代将軍家継(いえつぐ)が,わずか8歳の若さで病没しました。家継に子供がいるはずはなく,将軍候補は御三家の3人にしぼられました。
 筆頭が尾張藩の徳川継友(つぐとも)26歳。
 次席が紀州藩の徳川吉宗33歳。
 末席が水戸藩の徳川綱條(つなえだ)61歳。
 当時幕府は,極度の財政困難にあえいでいました。これを立て直すには,紀州藩の財政再建に成功した吉宗しかいない,という評判が強かったのです。しかし内意を受けた吉宗は,
 「年齢と家格から申せば綱條殿,家格から申せば継友殿」
 と自らの将軍位を固辞したといいます。しかし,尾張継友には浅慮粗暴の噂があり,藩主としての経験も乏しく,実績は無いに等しかったのです。また,綱條は還暦を越えており,いい年でした。
 結局,8代将軍には吉宗が決まりました。尾張藩は,つい近年の三年の間に,吉通(よしみち),五郎太と藩主が連続して急逝していました。尾張藩ではこれを,将軍位を望む吉宗と紀州藩の陰謀ではないかと……。
 吉通は,6代将軍であった亡き家宣(いえのぶ)の信任が厚かったので,もし長生きしていれば,8代将軍は,尾張吉通ですんなりと決まっていたであろうと思われます。しかし吉通は,家継の在任中に,25歳の若さで急死してしまいます。尾張藩にとってみれば,まことに惜しむべきことでした。とはいえ,吉宗による暗殺説には無理があります。
 吉通の子の五朗太は,僅か3歳で藩を継いだものの,間もなく亡くなってしまいます。継友も享保15年(1730),39歳で病没しました。こうして尾張藩の家督を継いだのが,宗春でした。
 ですが,尾張藩の財政も逼迫(ひっぱく)していました。しかも複雑な派閥の状況下にありました。というのは,吉通には39人もの子があり,それぞれ母親が違いました。早世した子が少なくなかったのですが,それでも複雑な派閥が構成されていました。宗春は20男で部屋住みの身です。藩主を継げる位置ではありません。やっと陸奥梁川(やながわ)3万石の大名になれたのが34歳のとき,そしてこの年,本家の継友が急逝したため,何と思いもかけず尾張藩主となったのでした。
 当時,幕府財政および各大名家の財政は逼迫しており,いずれも質素倹約を旨としていました。しかし宗春は,豪華・華美な藩政を貫くのです。祭りも奨励し,芝居小屋や遊里を許し,自らも白牛にまたがり5尺(1.5メートル)もある大煙管(きせる)をくゆらせて城下を練り歩きます。結局尾張藩は内部崩壊し,宗春は吉宗によって名古屋の下屋敷に幽閉されました。しかし25年間監禁生活を送りつつ,宗春は明和元年(1764年)69歳まで生きました。ですが,死後も墓石は金網におおわれていたといわれています。

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カルチャーだよりを更新しました。「使用済み切手の寄付

新刊の主な実績を更新しました

新刊の主な実績を更新しました。

使用済み切手の寄付

当社では、社会貢献活動の一環として、使用済み切手の寄付を行っています。
寄付された使用済み切手は、収集家に買い取られ、その金額がアジア・アフリカの看護学校や助産師学校の教材費や実習費などの一部にあてられています。

切手収集といえば、未使用の切手が対象だと思っていましたが、消印を目当てに集めている人もいるそうです。消印には郵便局名と日付が入っています。
好みの郵便局や特別な記念日の消印を探している人がいるのかもしれません。ためしに、自分の名字で郵便局を検索したら、全国に9件もありました。
また、記念切手の発行に合わせて期間限定で使用される特別な消印もあるようで、消印の世界も奥が深いですね。

#SDGs

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ちはやぶる日本史を更新しました。「大飢饉で大くの餓死者が出る

大飢饉で大くの餓死者が出る

 「享保の飢饉」は,享保17年(1732)に畿内以西を襲った大飢饉で,天明・天保の飢饉と併わせて,江戸の三大飢饉と呼ばれています。
 餓死者はおよそ1万2千人,同じく餓死した牛馬は,1万4千匹にのぼりました。
 享保17年は,前年の冬以来天候が不順で,暖冬でしたが春になると雨の降る日が多く,夏になっても冷雨が続きました。その上,各地で洪水や,逆に水不足による田畑の荒廃が目立ちました。
 低温によって作物の成育は悪く,それに誘発されて虫害が起こったのです。飢饉の原因は,多くは虫害によるもので,作物の出来が例年の半作以下だった藩は,46藩に及んだといいます。虫害を起こした虫の種類は,『草間伊助記』によれば,
 「此虫,後に大きに相成りこがね虫の如く(中略),形ち甲冑を帯しるやうにありて,一夜の中(うち)に数万石の稲を喰ひ,田畑夥敷(おびただしく)損毛有之(そんもうこれあり),士民飢渇に及び,西国筋より五畿内大坂辺迄(おおさかあたりまで)道路に倒れ候もの数しれず……」
 とあります。また幕府の公式文書にも「蝗」の文字が頻出し,蝗害(こうがい)すなわち蝗(いなご)による虫害であったことが判ります。
 もっとも被害が大きかったのは伊予松山藩(15万石)で,それ以前5ヶ年平均で12万石を超える年貢収入があったのに対し,この年は皆無で,飢え死にしたもの3489人,斃死した牛馬は3097匹に及んだといいます。このため藩主の松平定英は,「備えが不充分であった」として,幕府への出仕を停止させられています。
 幕府の対応は素早く,すぐさま勘定所役人を現地に派遣し,勘定吟味役の神谷久敬を大坂へやって,救済の総指揮をとらせています。救援方法としては,被害のなかった東山,東海,北陸諸藩などの米を西国に回送するとともに,幕府自身も多くの救援米を送り,鹿児島藩など,蝗害のひどかった大名地に,それぞれの石高に応じて恩貸金を与えるなどです。この飢饉は大規模なものでしたが,幸いにして翌年は豊作であったため,一年で収まりました。
 しかし,この飢餓が社会に与えた影響は大きかったのです。享保18年正月26日,江戸で最初の打ちこわし「高間騒動」が起こります。本来江戸に入るべき米の一部が,救援米として緊急輸送されたため,困窮した日稼ぎなどの細民が,江戸の米問屋を襲ったのです。襲われたのは,高間伝兵衛の江戸日本橋店です。伝兵衛は,江戸米問屋八人組の筆頭で,かねてから,米の買占めなど暗躍していると噂のあった米穀商でした。
 また幕府は,享保19年正月,天領における定免破免条項を改訂し,同3月には諸国産物帳を令しています。それは丹羽正伯(しょうはく)に命じて諸国の産物を調べさせたもので,諸国に産する穀類はもちろん,すべての産物に及び,そのほとんどに「人食す」「人不食」「能書不知」など註釈が入っています。またその産物は,菌類,木類,魚類,鳥類,虫類,蛇類等あらゆる産物に及んでいました。また,享保17年12月,飢餓等によって社会不安が激化した場合,代官所の役人では対応できない非常に備えて,あらかじめ江戸に伺うことなく,近隣大名の兵力を借りることを認めるという布達も出しています。それまで諸大名は,幕府の許可なしには一兵も動かすことができなかったのです。なお,この飢餓を機に,害虫防除への関心が高まり,鯨油を用いてウンカを駆除する方法等が広まったのでした。

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