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ちはやぶる日本史を更新しました。

ちはやぶる日本史を更新しました。「幕府,加賀藩の御家騒動に介入

幕府,加賀藩のお家騒動に介入

 18世紀の中ごろ,加賀藩で大規模なお家騒動が起こりました。一名大槻(おおつき)騒動とも呼ばれる「加賀騒動」です。
 加賀前田家6代藩主前田吉徳(よしのり)の寵臣(ちょうしん)大槻伝蔵(おおつきでんぞう)が,門閥・守旧派に弾劾されて失脚し,流刑地で自刃(じしん)した事件です。これに連動して,吉徳の愛妾お貞の方(真如院=しんにょいん)とその男子たちが幽閉されて死んだ事件がからみます。
 大槻伝蔵は,足軽の子にすぎませんでしたが,吉徳の遊び相手として近侍したことにより,禄高3千8百石の上級家臣に出世しました。大槻は14歳で,世子吉徳の御居間方坊主,すなわち遊び相手として出仕しますが,吉徳と気が合ったことにより重用され,享保11年(1726),士分に列しました。その後18年間に,17回の加増・昇進を見るという異例の出世をとげました。そして寛保元年(1741)に人持組という上級家臣となり,同3年には禄高3800石となったのです。
 その間,終始吉徳の御側御用を勤めて信任が厚く,吉徳やその子供たちが,大槻の屋敷に遊びに行くことも少なくなかったといいます。大槻一族もそれぞれ立身しました。
 寛保元年秋,江戸より帰国した吉徳は,厳しい倹約策を取りました。とはいえ,吉徳は病弱であり,実際に政務を司ったのは大槻伝蔵でした。大槻は,費用節減・大坂借銀(借金)の調達・新規課税などの財政策を行ないましたが,なかなかうまくはいきませんでした。
 金沢藩財政の赤字は,5代藩主綱紀(つなのり)が文化事業を大いに行なって「ぜいたく大名」と呼ばれた17世期末からすでに始まっていて,藩士の経済生活の破綻も,おおいがたいものがありました。それが元禄の華美な風潮のなかで,遊侠の風体,刃傷沙汰など士風の頽廃となってすでに現われていたのです。
 農村では,商品・貨幣経済の浸透がすすみ,奉公人を雇傭する大手作り経営が行きづまって,改良農具・金肥の需及とともに,家族労働による自作・小作の小経営へ移行する転換期にありましたが,その不安定性の中で多くの農民は疲弊していたのです。
 不作の際の滅租・貸米の措置が不充分なため,正徳・享保期は百姓一揆の高揚をみるに至ります。この結果,寛保元年には,加賀藩の借銀は2万貫にのぼり,翌年にはさらに3~4千貫も増えることが予想されました。こうした情況下で,大槻伝蔵は,加賀藩の政務を担当することになったのす。
 しかし,延享2年(1745),吉徳が没したことにより,大槻伝蔵への厳しい弾劾が開始されます。大槻は,吉徳死後の翌年蟄居を命ぜられ,襲封一年後に急死した7代宗辰の一周忌のあと,遠島の刑となり,寛延元年4月,越中五箇山へ配流されました。その年の6月と7月,江戸本郷の藩邸で毒入りの茶釜の事件が起こり,真如院の娘楊姫付中老浅尾が捕えられ,真如院にも嫌疑がかかって金沢に幽閉されました。物証は何もなかったのですが,大槻と浅尾の密通が露顕したのだといいます。大槻は9月に,隠し持っていた小刀で自害を遂げ,浅尾は金沢に送られてひそかに殺されました。真如院は,翌年の2月に没しています。本人の希望によって,縊死(首をくくっての死)による死であったといいます。
 この事件の関係者全員の処罰が決定したのは,宝暦4年(1754)2月のことでした。この事件については,世上様ざまなうわさが流れ,いろいろに脚色された稗史(はいし)が登場します。また義太夫本や芝居の脚色も少なくありませんでした。

幕府,天文台を神田佐久間町に建立

 天文方(てんもんかた)は,編暦や改暦の仕事に携るきわめて重要な役職で,延享3年(1746年)から幕末まで続きました。渋川春海(しぶかわしゅんかい)が,貞享改暦の功により,はじめて天文方に任じられて以来,幕末まで渋川家のほか,猪飼・西川・山路・吉田・奥村・高橋・足立の8家が天文方でした。
 世襲制ではありますが,養子を迎えることが少なくありませんでした。実子が必ずしも優秀であるとは限りません。また改暦のような重要な仕事のためには,輩下や民間から,新しく天文方を取り立てることもありました。
 江戸時代の天文学を語るとき,高橋至時(よしとき)の存在を忘れるわけにはいきません。至時は,明和元年(1764年)11月30日,大坂(大阪)で生まれました。幼少時から算学を好み,15歳で家督を継ぎます。そして天明7年(1787年),医者で天文学者であった麻田剛立(あさだごうりゅう)の門に入りました。剛立は,医者として患者の治療に当たる傍ら,数学や暦学を教えるという,きわめて優れた人物でした。
 至時は,その麻田剛立に,天文医算学を学びます。そして,その当時の最新の西洋天文説を伝える「歴象考成」後編のうちのケプラー楕円軌道論の研究につとめました。寛政7年(1795年)3月,至時は,暦学御用のため,同じ麻田剛立門下の間重富(はざましげとみ)と共に,江戸出府を命ぜられ,同年11月,天文方に任命されます。そして翌8年8月,改暦御用を仰せつけられ,翌9年末まで,改暦作業の中心的人物として活躍したのです。
 至時は,享和3年(1803年),フランスの天文学者ラランデの天文学書の蘭訳本を入手,半年間その研究に没頭して『ラランデ歴書管見』を著わしますが,文化元年の正月5日,41歳の若さで病没してしまいました。おそらく無理がたたったのでしょう。至時は,江戸下谷(したや=東京都台東区東上野)の源空寺に葬られました。
 なお,井上ひさし著『四千万歩の男』で知られた伊能忠敬は,はじめ至時に師事しました。浅草清島町の源空寺には,忠敬の遺言によって,至時と忠敬の墓が並んで立っています。
 さて,天文台に話を移しましょう。当初「天文台」という呼称はありませんでした。天体観測や天文学に関する研究などが行われた場所は,いろいろな呼ばれ方をしましたが,「司天台」また「観象台」といわれることが多かったようです。江戸時代,京都の梅小路の土御門(つちみかど)家に,司天台が置かれていました。また江戸では,渋川春海が天文方に任じられた貞享2年(1685年),牛込藁店(うしごめわらだな)に司天台が設けられました。その後,元禄2年(1689年)に本所(ほんじょ),さらに同14年に駿河台に移されました。春海の没後しばらくして,神田佐久間町に,延享3年(1746年)から宝暦7年(1757年)まで司天文台が置かれました。また明和2年(1765年)から天明2年(1782年)までは牛込に司天台が置かれ,その後,浅草福富町に移されました。
 この浅草・牛込の司天台は,高橋至時や間重富が,寛政の改暦に際して観測を行なった場所です。また天保13年(1842年)に九段坂上に司天台が建てられ,天保9年から弘化3年(1846年)までの観測記録が,『霊憲候簿』として99冊にまとめられています。当時の江戸の夜空は,いまでは考えられないほどに美しく,多くの星ぼしが輝いていたにちがいありません。

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新刊の主な実績を更新しました

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江戸時代最大の大水害

 徳川幕府による支配体制は,250年間に及びました。江戸時代です。その間,初期には島原の乱や大坂の役があったものの,概(おおむ)ね平和な時代が続き,武家文化,町人文化が栄えました。徳川氏の居城江戸城を中心に,江戸の町には多くの人びとが居住し,様ざまな文化が花開いたのです。
 とはいえ,常に江戸の町が平和であったわけではありません。避けようのない災害,すなわち天災が,少なからず江戸市民たちの生活を脅かしました。ここでは,水害を見ていきたいと思います。とりあえず,江戸時代を通じて忘れることのできない9つの水害を挙げることにしましょう。
 延宝8年(1680年)の水害。8月5日の夜半より大暴風雨となり,6日の昼ごろから倒壊する家屋が続出しました。さらに午後2時ごろに津波が襲って,本所(ほんじょ)や深川,築地(つきじ)のあたりに大きな被害が出ました。溺死者700人,20万石の米が水に流されたといいます。
 宝永元年(1704年)の水害。6月半ばからの大雨で,7月3日に利根川猿が股の堤防が決壊。葛西一帯から亀戸,本所,深川,浅草方面が水びたしになりました。
 寛保2年(1742年)の水害。江戸第一の水害といわれています。7月28日以来の大雨に加え,8月1日2日と大暴風雨に。関東郡代の伊奈氏が,江戸を救うために猿が股の上流で堤防をきり,水を葛西に流しました。このため江東方面は水びたしとなり,綾瀬(あやせ)や千住三丁目の堤防もきれ,浅草から下谷(したや)一帯まで泥の海と化しました。8月いっぱいの幕府の炊き出しは,延べ18万6千人分に達したといわれています。
 安永9年(1780年)の水害。6月20日ごろから利根川,荒川の増水で江東方面が水びたしとなり,両国橋,永代橋,新大橋が決壊して大騒動となりました。
 天明6年(1788年)の水害。7月12日夜から大雨。18日になってもやまず,大洪水に。江東地帯は,寛保の水害の時より四尺(1.2メートル)深く水が出たといわれています。
 寛政3年(1791年)の水害。8月以来の雨で隅田川が増水し,新大橋,大川橋が決壊。9月4日に大暴風雨,さらに深川,築地,芝浦方面を津波が襲い,大災害となりました。
 享和2年(1802年)の水害。6月来から7月上旬にかけての大雨で権現堂堤がきれ,綾瀬川が氾濫し,葛西方面から本所,深川にかけて大被害が出ました。
 弘化3年(1846年)の水害。6月中旬以降の大雨で,28日,川俣村の堤防が決壊。30日以降,浅草,本所,深川から葛西一帯が水びたしとなり,「巨海の如し」という惨状になりました。
 安政3年(1856年)の水害。8月25日に大暴風雨となり,永代橋,新大橋,大川橋が決壊。本所,深川方面は出水によって被害が甚大になりました。また風による被害も大きく,特に佃島(つくだじま)の被害は大きかったといわれています。
 以上のうち,寛保2年,天明6年,弘化3年の水害が,江戸の3大洪水といわれています。
 なお,当初隅田川は,利根川がとうとうと江戸湾に流れ込んでいて,文字通り坂東太郎の名にふさわしい様相でした。ですが,2代将軍秀忠の時代から3代家光の時代にかけて,関東郡代伊奈氏の手によって,大規模な改修工事が行なわれ,ついに荒川筋を移しかえて,利根川を銚子口に流すようにしたのです。江戸市街地の発展と,水害をなくすことによって,埼玉一帯を肥沃な田地とするためでした。その上,荒川筋の本流が上流で入間川筋にきりかえられたので,事実上隅田川は入間川筋となりました。このことによって,今日に至ってなお,一朝危機あるときは利根川筋の水は,一挙に東京を目指して押し寄せるのです。
  隅田川は何百年もの間,時に荒れ狂って,江戸の市民,すなわち江戸ッ子たちに,少なからぬ被害を与え続けてきたのです。

3/16,おかげさまでカルチャー・プロは創立48周年を迎えました。

その創立記念日に,当社では「ワーキンググループ活動報告会」が行われました。
昨年4月,「外部スタッフ拡充推進グループ」「業務効率化推進グループ」「自社教材作成グループ」「ブランディング・広報推進グループ」の4つのワーキンググループに分かれ,活動がスタートしました。
各グループで課題を洗い出し,1年後までのアウトプットに向けて活動方針を定め,話し合いを重ねました。
報告会では,各グループより1年間の成果が報告されました。

成果の一つに,ブランディング・広報推進グループによる,名刺の裏面活用があります。

これまで名刺裏面は空白だったのですが,新たに「教科」「対象」「ホームページのQRコード」を追加しました。
主要5教科のほか,実技教科や資格検定ものも扱っていること,幼児~社会人までと幅広い学習者層に対応した教材を編集できることといった当社の強みをアピールすることができるのではないかと思います。また,QRコードを載せることで,昨年7月にリニューアルした当社のホームページへも,アクセスしていただきやすくなりました。
ぜひ,名刺を交換させていただく際には,リニューアルした当社の名刺をご覧いただけると嬉しいです。

それぞれのグループが1年間で成果を出し,社長からは「想像以上だった」という言葉がありました。今後はその成果を活用・改善し続けていくことや,残された課題を解決していくことが必要となります。時代の変化に柔軟に対応できる編集者であり続けるべく,自主的・主体的に考え,アウトプットをし続けていきたいと思います。
49年目のカルチャー・プロを,どうぞよろしくお願いいたします。
#WG

ちはやぶる日本史を更新しました

ちはやぶる日本史を更新しました。「江戸時代最大の大水害

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