徳川幕府が,小石川薬園(東京都文京区)内に,総合病院である養生所を設立したのは,享保7年(1722)12月のことです。町医者小川笙船(しょうせん)による施薬院(せやくいん)建設の建白(けんぱく)を幕府が採用したのは,この年の正月のことでした。
笙船が建白したこの養生所,じつは単なる施薬院(病院)ではありません。普通では医師に看(み)てもらうことのできない,極貧の病人たちのための施設なのです。
小川笙船は,寛文12年(1672)に生まれた江戸時代中期の町医者です。建白書を幕府に提出したときには,満年齢で50歳でした。もともとは近江(滋賀県)の人でしたが,笙船の代に江戸に出て小石川で開業し,幕府に養生所建設を建白したのです。施薬院を設けて貧しい病人を救うという意見が幕府当局によって採用され,幕府が管理運営する小石川薬園内に施薬院が開設されて,養生所と名づけられたのです。
杮葺(こけらぶき)の養生所を中心に,病人長屋,薬煎(やくせん)室,薬部屋,薬調合室,役人詰所,中間部屋,台所,物置からなる結構な病院施設です。しかし,この病院施設,一般の人は看てもらうことができません。対象となるのは,看病人のいない極貧の病人だけで,いっさい無料です。
設立時の収容人数は40人,あとは通い治療です。しかし翌年から,通いの治療は廃止されました。ただで病気を治してもらえるというので,通院者が増えて大変だったからです。それでも入院者は多く,享保18年(1733)には117人となり,以後,117人が定員となりました。逗留期間は8カ月です。江戸町奉行の支配下にあって,与力2名,同心10名が,運営にあたりました。設立当時の医師は,寄合医師と小普請(こぶしん)医師の2名で,小川笙船が肝煎(きもいり),すなわち院長でした。
享保8年以降,本道・外科・眼科の本勤が5名,それに見習医師も加わりました。
なお,養生所が開設されたときの江戸町奉行は,大岡越前守忠相(ただすけ)です。
幕府直営の小石川薬園の起源は,寛永15年(1638),江戸城の南北,品川と牛込(うしごめ)に薬園が設けられたのに始まります。北薬園は,牛込薬園また大塚薬園とも呼ばれ,小石川音羽(おとわ)の地(東京都文京区)に設けられました。いっぽう南薬園は,麻布広尾(あざぶひろお=東京都港区)に造られ,麻布薬園また品川薬園といわれました。
その後,北薬園は,天和元年(1681),この地に護国寺が創建されることになって,薬草木は,南薬園に移され,小石川薬園と称されることになります。以後,小石川薬園は,明治維新まで,薬用植物の栽培と生薬(しょうやく)の供給に,大きく貢献したのでした。なお,園地は東西各四千八百坪。青木毘陽が東側の薬園に甘藷(かんしょ=さつまいも)を試作したのは,享保20年(1735)のことでした。
明治元年(1868),小石川薬園は東京府の所轄となり,その後所轄が転々としますが,明治8年に文部省博物館の所轄となって,小石川植物園と改称され,次いで東京大学の付属となり,教育・研究用の植物園となって現在に至るのです。
なお養生所は,慶応元年(1865)江戸町奉行の支配を脱し,明治元年に鎮台府の管轄にかわり,貧病院と称しますが,間もなく廃止されました。
2022.12.7