江戸城大奥には,多いときで,およそ千人の女性が居住していたといいます。大奥は,江戸城本丸の一郭を占め,将軍の正室(御台所=みだいどころ)および側室たちが居住し,将軍の居室である中奥と,お鈴廊下と呼ばれる長い廊下で結ばれていました。ただし,この廊下を通って大奥へ行くことのできる男性は,原則として将軍一人に限られていたのです。だから,もし大奥で子供が生まれれば,すなわち将軍の子とだということになります。
絵島は,天和元年(1681)に,江戸で生まれたといわれています。美人で才気煥発(さいきかんぱつ)。二十四歳のとき,六代将軍家宣(いえのぶ)の側室左京の局(後の月光院)の女中となって大奥に入りました。そして左京の局が将軍家宣の胤(たね)を宿し,出産のときにはその係として,御年寄という重職に取り立てられたのです。御年寄は,すなわち大奥の女中頭のことです。江戸城大奥を総轄するトップの地位にのぼったということです。このとき絵島三十三歳,まだまだ美貌の女盛りでした。
このころ,幕政を左右していたのは,家宣の寵臣であった間部詮房(まなべあきふさ)と在野の学者新井白石,それに月光院でした。譜代の重臣たちにとって,面白いはずがありません。家宣の正室であった天英院は,京都の五摂家の一つ近衛(このえ)家の出です。天英院にしてみれば,月光院はたかが町家の娘にすぎません。それが権勢を振るうなど,許すべからざることなのです。
家継は詮房によくなつき,詮房が帰ろうとするといやがったので,詮房はつい,大奥の月光院の部屋に長居することが多かったといいます。こうしたことは,天英院はじめ他の側室たちにとって,大いなる妬(ねた)みとなりました。詮房と月光院との間の,見てきたような醜聞が言いふらされたのは,やむをえません。しかし,絵島も月光院も詮房も,めげるどころか,ますます権勢を誇っていったのです。悪くいう者がいる一方で,すり寄ってくる者も多く,ことに絵島のもとには,大奥出入りの業者をはじめ多くの者たちが,その権勢の傘の下に入ろうと集まってきました。
とはいえ,嫉妬と陰謀の渦巻く女だけの世界です。人世の充足感,幸福感は望みえなかっでしょう。奥女中たちの最大の楽しみは,宿下(やどさが)りであったといいます。すなわち外出を許す日です。奉公三年目で,やっと年に六日の宿下りが与えられました。このほか,上級のものたちは,年に何回か主人の代参で寺社に行くなど,公用による外出がありました。
外出は一日限りで,外泊は許されませんでした。しかし,公用はほとんど午前中で,午後六時に御錠口(おじょうぐち)が閉まるまでの間は,自由でした。そのアフタータイムの最大の楽しみは,芝居見物であったといいます。
正徳四年(1714)正月,絵島は月光院の命で,芝増上寺の将軍家法会に代参することになりました。同じく大奥の年寄宮地(みやじ)も,上野寛永寺に代参しました。それぞれの一行は,代参をすませたのちに落ち合い,木挽(こびき)町の山村座へ観劇に行きました。山村座での主演は,人気絶頂の和事(わごと)役者,生島新五郎です。和事とは恋愛・情事のことです。桟敷席には酒肴が運ばれ,幕間には生島をはじめスターたちが次々にやってきて接待したといいます。
絵島は羽を伸ばし,帰城したのは門限ぎりぎりでした。酔った女中たちの嬌声が響き,吐いたりした女中たちもいました。このことは絵島失脚を狙う一派に,絶好の口実を与えることになったのです。特定の業者と癒着したり,代参に名をかりて役者遊びをしたりするなど,言語道断だというわけです。
結局絵島は,高遠の内藤家に預けられ,囲屋敷で,一汁一菜の食事が朝夕二回だけ。近くの寺院への寺参以外は一歩も屋敷を出ることが許されませんでした。墨や筆さえも与えられなかったといいます。絵島はそうした境遇のもとで,ひっそりと二十八年間を生き,寛保元年(1741)四月,六十二歳の人生を終えました。生島新五郎は,絵島の死んだ二年後,赦免となって江戸に戻りました。七十二歳。往年の人気役者を知る者は少なく,翌年,さびしく亡くなったといいます。
現在,高遠城の一郭に,絵島の囲屋敷が復元されている。その片隅に,絵島・生島の比翼塚があります。
2022.11.17