紫衣事件により沢庵和尚ら流刑

 吉川英治の名作『宮本武蔵』は,あばれん坊の少年武蔵(たけぞう)を,沢庵(たくあん)和尚が懲(こ)らしめるところから始まります。こうした話は,もちろんフィクションですが,武蔵も沢庵も,れっきとした歴史上の重要人物です。
 武蔵は,兵法「二天一流」の創始者であり,兵法書であると同時に哲学書でもある『五輪書』の作者で,さらに国の重要文化財に指定されている絵画三点の絵師でもあります。そして沢庵は,紫衣(しえ)事件で徳川幕府と真向からやり合った気骨の名僧です。紫衣というのは,読んで字のごとく紫の衣のことですが,勅許を得た高僧しか着ることができません。
 江戸時代の初期,その紫衣の勅許にからんで起こったのが紫衣事件です。
 寛永4年(1627)7月,宗教統制を明確にするため,徳川幕府は,重鎮である土井利勝,板倉重宗,金地院崇伝(こんちいん すうでん)の3人が相談して,5ヵ条の制禁を出します。その制禁とは,禅僧で元和元年(1615)以後に紫衣の勅許を受けた者に対して,これを取り消すなどとしたもので,彼らは「勅許紫衣之法度(ちょっきょしえのはっと)」や「禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)」に違反しているというものです。つまり,朝廷が出した紫衣の勅許に対して,幕府が異議を申し立ててこれを取り消すと通達したのです。
 ですが,寺院の側も負けてはいません。この通達によって,より大きな影響をこうむったのが大徳寺と妙心寺ですが,翌春,沢庵(たくあん)和尚ら大徳寺の強硬派の僧たちが,幕府に抗議文を送ります。かなり激しい内容で,起草したのは沢庵です。その内容は,「大徳寺法度」「妙心寺法度」の第2条に,「参禅修行就善知識三十年費綿密工夫,千七百則話題了畢之上」すなわち30年に及ぶ修行や1700の規則を暗記せよなどというのは現実的ではない,というのです。いっぽう幕府側も,正式に入院の儀を経た者や50歳以上の者の綸旨(りんじ)は許可するなど,既成の事実をある程度まで認め,その代わりに詫状(わびじょう)の提出を求めました。詫状の文案は,あらかじめ幕府が作ったものです。
 ともあれ多くは,詫状を提出して幕府の意に従うのですが,沢庵をはじめ何名かの僧は,なおも従いません。抗議のために元和6年閏(うるう)2月,江戸に下ります。幕府では,この問題に対して,崇伝は厳罰を主張し,天海は軽い処分を主張しました。結局,大徳寺・妙心寺の僧4名は,東北地方に配流(はいる)されることになります。沢庵は,出羽国上山の土岐(とき)氏に預けられましたが,同9年7月に天海の努力によって赦され,江戸に帰ります。しかし,11年9月まで,京には入れませんでした。
 こののち沢庵は,徳川家光の信任を得て,毎年江戸に参上し,紫衣勅許の制限も,緩和されることになるのです。