二代将軍秀忠と娘和子の入内

 江戸幕府の第2代将軍徳川秀忠は,戦国時代真盛りの天正7年(1579年)4月7日,遠江(とおとうみ=現在の静岡県西部)の浜松城に,徳川家康の3男として生まれました。
 その3男が,なぜ徳川家を継ぎ幕府の総帥になったのでしょうか。長兄の信康が自害させられ,次兄の秀康が,羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)の養子となったからです。秀康はその後,結城(ゆうき)氏を継ぎ,関ヶ原の戦いでの活躍によって,越前国福井藩67万石の藩主となりました。
 さて,秀忠について語ることにします。天正18年(1590年)正月,秀忠は上洛して秀吉に拝謁(はいえつ)し,秀吉の偏諱(へんい)を受けて「秀忠」と名乗り,元服して従四位下侍従(じゅしいげじじゅう)に叙任されます。まだ11歳の少年です。とはいえ,同19年には正四位下(しょうしいげ)少将を経て参議兼右近衛中将(うこのえのごんのちゅうじょう)となり,翌,天正20年(1592年=12月に文禄と改元)には,従三位(じゅさんみ)権中納言に昇進するのです。まだ,満13歳です。本人は何が何だか解らなかったでしょう。
 慶長5年(1600年),21歳になった秀忠は父家康に従って,会津の上杉景勝を攻撃するために,先鋒として東北へと向います。これは,石田三成を挙兵させるための罠(わな)でした。案の定,三成は徳川軍の留守を狙って挙兵します。下野国小山(しもつけのくにおやま)で,その報に接した秀忠は,父家康と共に直ちに兵を返して西上します。家康は東海道を,秀忠は東山道をとりますが,8月,秀忠軍は真田昌幸の軍勢に進路を阻まれてしまいます。そのため秀忠は,真田軍を信州上田城に攻めますが,時間を空費し,関ヶ原の戦いには間に合わなかったのです。駆けつけたときには,戦いは終わっていました。秀忠は家康の勘気をこうむりますが,諸将の取りなしで,何とか赦(ゆる)されたのでした。
 こうしたことがあったとはいえ,秀忠は今や,まぎれもない徳川家の後継者です。慶長8年(1603年)2月,家康が征夷大将軍に任じられると,秀忠は右近衛大将(うこのえのたいしょう)となり,自らの娘 千姫を,秀吉の遺児豊臣秀頼に入輿(にゅうよ)させます。秀忠は3月21日入洛しますが,率いた軍勢は10万を超えていました。
 入洛して間もない4月16日,秀忠は徳川氏第二代征夷大将軍に任じられ,同11年9月には,新営がなった江戸城に入城したのでした。とはいえ,この後10年以上にわたって,実質は大御所家康が実権を握り幕府を支配します。諸大名の多くはこれに従いますが,大坂城には依然として豊臣秀頼が君臨していました。形の上では秀忠の娘婿ですが,徳川氏にとっては,秀忠がまぎれもなく滅ぼしてしかるべき存在でした。
 そして,慶長19年から翌,元和元年にかけての大坂冬・夏の陣で,ついに秀頼を自害させて豊臣氏を滅ぼし,元和2年(1616年)に家康が没してからの後は,まぎれもない主権者となりました。
 元和6年,秀忠は自らの娘和子(かずこ,あるいは「まさこ」とも)を後水尾(ごみずのお)天皇に入内(じゅだい)させ,後水尾を退位させると,和子の生んだ孫娘を即位させます。明正(めいしょう)天皇です。元和9年,秀忠は家光に将軍職を譲り大御所となりましたが,なお実権を握り続けました。秀忠は,家康を除けば最も強大な将軍であったのです。