平賀源内は,享保14年(1729),讃岐国志度(さぬきのくにしど)(香川県さぬき市)で生まれました。源内は通称で,名は国倫(くにとも),のちに号を鳩渓(きゅうけい)とつけ,文名を風来山人(ふうらいさんじん),また天竺浪人(てんじくろうにん),浄瑠璃作家としての筆名を福内鬼外(ふくちきがい)としました。父は藩の薬園掛りでした。
源内は19歳で父の跡を継ぎ,間もなく,お薬坊主に立身,藩命により25歳で長崎に遊学しました。さらに翌年,江戸に遊学を命じられて,官医の田村元雄(げんゆう)について本草学(ほんぞうがく)(薬物学を中心とした博物学)を専攻しました。
師の田村元雄は,向学心旺盛な源内を愛してやまなかったといいます。宝暦7年(1757年),源内は,師の元雄と協力して,江戸の湯島で日本初の物産会を開きました。このことが源内の名を高めることになりました。源内29歳のときでした。物産会とは,ようするに博覧会のことです。この物産会は,会を重ねるごとに大いにうけて,その集大成として『物類品隲(ぶつるいひんしつ)』という博物書ができることになりました。そうしたいっぽうで源内は,甘藷(かんしょ)や朝鮮人参(にんじん)の試作にも熱中して成功しました。
その源内が高松藩の士籍を脱することができたのは,宝暦11年(1761年),33歳のときでした。ですが源内は,多くの才能を有しながら,結局世にはばたくことができませんでした。ひとつには,高松藩が狭量であったことによります。源内がきわめて優秀な人物であることを解っている高松藩は,暇頂戴(いとまちょうだい)を許したものの,他藩への奉公は,いっさい許さずと,全国に通達するのでした。したがって源内は,どこへも奉公することができず,引く手あまたでありながら,就職がかなわなかったのです。高松藩のいやがらせのために,浪人として後半生を送らざるを得なかったのでした。
とはいえ源内は,きわめて才能豊かでした。宝暦13年(1763年),35歳のとき,戯作としての第一作「根無草(ねなしぐざ)」を刊行して評判となります。翌年の明和元年(1764年)には,燃えない布「火浣布(かかんぷ)」(石綿)の製作に成功し,さらに翌年には,武蔵国(埼玉県)秩父(ちちぶ)の金山や鉱山の採掘に乗り出します。そして42歳になった明和7年(1770年)正月,福内鬼外(ふくちきがい)のペンネームで,浄瑠璃本の処女作「神霊矢口渡(しんれいやぐちのわたし)」を書き,同作はさっそく操り芝居にかけられて人気となりました。ですが同年,源内はこだわることなく,再度長崎遊学に踏み切ります。
このとき源内が,文人として立つ決意をしたならば,その後半生は大きく変わったに違いありません。ですが源内にとって戯作や浄瑠璃は余技でしかありませんでした。というより源内の才能は,余りにもあふれかえっていたといってよいでしょう。
長崎再遊で持ち帰ったものは,「オランダ焼」と称した製陶と,緬羊(めんよう)を飼育して毛織物を作る技法でした。源内は共に讃岐国で企業化を図りました。もう一つの長崎土産は,摩擦発電機すなわち「エレキテル」でした。
源内とすれば,いずれも辛苦の末に製作に成功したものですが,人々の注目を集めはしたものの,企業として軌道に乗ることはありませんでした。世間の人々の多くは,源内を山師呼ばわりしました。源内の真価を理解できたのは,杉田玄白ら一部の勝(すぐ)れた人物のみでした。結局源内は,「放屁論(ほうひろん)」や「風流志道軒伝(ふうりゅうしどうけんでん)」などを書いて世相を風刺しましたが,その胸のうちにあった“志”は,理解されませんでした。
安永8年(1779年),源内は弟子の要助を誤って殺し,殺人犯として入牢します。そして約1ヵ月後の安永8年師走(12月)18日,牢内で病死しました。52歳でした。もし生きていたら,まだまだ多くの発明や仕事をしたにちがいありません。まことにつまらない死でした。
友人の杉田玄白が源内の墓を建てた碑には,こう刻まれています。
磋非常人(ああ,非常の人か)
好非常事(非常の事を好む)
行是非常(行(おこない)これ非常なり)
何非常死(なんぞ非常に死す)
なお源内は,キャッチコピーを書いています。
「本日は土用丑(うし)の日うなぎの日」
源内先生の看板で,店は大いに繁昌したといわれています。
2023.12.15