月: 2023年12月

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ちはやぶる日本史についてお知らせ

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ちはやぶる日本史を更新しました。「平賀源内

平賀源内

 平賀源内は,享保14年(1729),讃岐国志度(さぬきのくにしど)(香川県さぬき市)で生まれました。源内は通称で,名は国倫(くにとも),のちに号を鳩渓(きゅうけい)とつけ,文名を風来山人(ふうらいさんじん),また天竺浪人(てんじくろうにん),浄瑠璃作家としての筆名を福内鬼外(ふくちきがい)としました。父は藩の薬園掛りでした。
 源内は19歳で父の跡を継ぎ,間もなく,お薬坊主に立身,藩命により25歳で長崎に遊学しました。さらに翌年,江戸に遊学を命じられて,官医の田村元雄(げんゆう)について本草学(ほんぞうがく)(薬物学を中心とした博物学)を専攻しました。
 師の田村元雄は,向学心旺盛な源内を愛してやまなかったといいます。宝暦7年(1757年),源内は,師の元雄と協力して,江戸の湯島で日本初の物産会を開きました。このことが源内の名を高めることになりました。源内29歳のときでした。物産会とは,ようするに博覧会のことです。この物産会は,会を重ねるごとに大いにうけて,その集大成として『物類品隲(ぶつるいひんしつ)』という博物書ができることになりました。そうしたいっぽうで源内は,甘藷(かんしょ)や朝鮮人参(にんじん)の試作にも熱中して成功しました。
 その源内が高松藩の士籍を脱することができたのは,宝暦11年(1761年),33歳のときでした。ですが源内は,多くの才能を有しながら,結局世にはばたくことができませんでした。ひとつには,高松藩が狭量であったことによります。源内がきわめて優秀な人物であることを解っている高松藩は,暇頂戴(いとまちょうだい)を許したものの,他藩への奉公は,いっさい許さずと,全国に通達するのでした。したがって源内は,どこへも奉公することができず,引く手あまたでありながら,就職がかなわなかったのです。高松藩のいやがらせのために,浪人として後半生を送らざるを得なかったのでした。
 とはいえ源内は,きわめて才能豊かでした。宝暦13年(1763年),35歳のとき,戯作としての第一作「根無草(ねなしぐざ)」を刊行して評判となります。翌年の明和元年(1764年)には,燃えない布「火浣布(かかんぷ)」(石綿)の製作に成功し,さらに翌年には,武蔵国(埼玉県)秩父(ちちぶ)の金山や鉱山の採掘に乗り出します。そして42歳になった明和7年(1770年)正月,福内鬼外(ふくちきがい)のペンネームで,浄瑠璃本の処女作「神霊矢口渡(しんれいやぐちのわたし)」を書き,同作はさっそく操り芝居にかけられて人気となりました。ですが同年,源内はこだわることなく,再度長崎遊学に踏み切ります。
 このとき源内が,文人として立つ決意をしたならば,その後半生は大きく変わったに違いありません。ですが源内にとって戯作や浄瑠璃は余技でしかありませんでした。というより源内の才能は,余りにもあふれかえっていたといってよいでしょう。
 長崎再遊で持ち帰ったものは,「オランダ焼」と称した製陶と,緬羊(めんよう)を飼育して毛織物を作る技法でした。源内は共に讃岐国で企業化を図りました。もう一つの長崎土産は,摩擦発電機すなわち「エレキテル」でした。
 源内とすれば,いずれも辛苦の末に製作に成功したものですが,人々の注目を集めはしたものの,企業として軌道に乗ることはありませんでした。世間の人々の多くは,源内を山師呼ばわりしました。源内の真価を理解できたのは,杉田玄白ら一部の勝(すぐ)れた人物のみでした。結局源内は,「放屁論(ほうひろん)」や「風流志道軒伝(ふうりゅうしどうけんでん)」などを書いて世相を風刺しましたが,その胸のうちにあった“志”は,理解されませんでした。
 安永8年(1779年),源内は弟子の要助を誤って殺し,殺人犯として入牢します。そして約1ヵ月後の安永8年師走(12月)18日,牢内で病死しました。52歳でした。もし生きていたら,まだまだ多くの発明や仕事をしたにちがいありません。まことにつまらない死でした。
 友人の杉田玄白が源内の墓を建てた碑には,こう刻まれています。
 磋非常人(ああ,非常の人か)
 好非常事(非常の事を好む)
 行是非常(行(おこない)これ非常なり)
 何非常死(なんぞ非常に死す)
 なお源内は,キャッチコピーを書いています。
 「本日は土用丑(うし)の日うなぎの日」
 源内先生の看板で,店は大いに繁昌したといわれています。

編集者のひとりごとを更新しました

編集者のひとりごとを更新しました。「歌えない音

歌えない音

イルミネーションがきらびやかになり
クリスマスソングが街中で流れる季節になりました。


クリスマスソングと言えば、誰のどの歌を思いつきますか?

マライア・キャリー?
アリアナ・グランデ?
山下達郎?

王道のフランク・シナトラやナット・キング・コールの歌う
クリスマスソングも素敵ですね。


ついつい、口ずさんでしまうクリスマスソングですが
先日、気持ちよくある曲を口ずさんでいたら
「なんか上手くいかないなあ」と思う瞬間がありました。


ある部分の音が分からなくなり歌が続かないのです。


特別高かったり、低かったりというわけでもなく、
元の曲を聴きながらだと歌えるのに
自分ひとりで歌おうとすると音が出てこない。


ピアノで音を探してみると、「それらしい」音は見つかります。

ただ、なんだか違う。



もちろん、歌手は音を外しているわけではありません。



ではこの音は?



あまりに気になったので、少し調べてみると
私がとれなかった音はどうも微分音らしい
という結論に至りました。



微分音とは?

普段、私たちに馴染みがあるのは、
十二平均律という、1オクターブを12等分した音です。


ピアノの鍵盤で分かれている音ですね。


ただ、これは1オクターブの音を便宜上12等分しているだけなので、
たとえばピアノの鍵盤にはない
「シとドの間の音」というものも存在するわけです。


つまり、「シとドの間の音」のような
平均律をもっと細かく分けた音が微分音とよばれる音です。


おそらく、私が音を再現できなかった理由は
平均律の音に慣れすぎていて
平均律では再現できない音(微分音)を
聞き取れず、再現できなかったから
ということのようです。



微分音は、平均律に吸収されてしまっているので
微分音に近い平均律の音で歌うこともできますが、
やはり微分音にすることで、微妙なニュアンスが加わって
その歌がぐっと良くなるような気がします。



音楽科担当にも聞いてみました。

   
   時代はさかのぼりますが、音楽CDが出始めたころ、
   ある人に「CDを聴いてみたが今までとなんだか違う、
   どちらかというと前の(アナログ)の方が良かった。
   自分がおかしいのかな」ときかれました。

   「くわしいことは専門家でないので説明ができませんが、
   アナログ音源をデジタル処理する際に容量の関係などで
   カットされる音があるみたいですよ。
   連続したもの(アナログ)と段階的なもの(デジタル)の
   違いみたいです」と答えたところ、納得してくれました。

   色と色との間には無限の色があるように、
   音と音との間にも無限の音がありますよね。

―音楽科担当Tさん



無限の音の中に、
デジタルでは再現できない美しさや心地よさがあるのかもしれません。

今年の冬はちょっと音を気にして過ごしてみようと思います。

歌えない音のイラスト

〈英語担当T〉         

#音楽 #クリスマス #クリスマスソング #微分音 #無限の音

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