月: 2022年6月

古代天皇の謎(2)

 推古天皇までの33代の古代天皇の中に,かなり多くの架空の天皇が含まれていることは,まちがいありません。『古事記』にも『日本書紀』にも,神武天皇の事績は長々と記されていますが,2代から9代までの天皇(綏靖・安寧・懿徳・孝昭・孝安・孝霊・孝元・開化)に関しては,事績はほとんど記されていません。誰々の子であるとか墓がどこにあるかといったことが簡略に記されているだけです。
 この8人は,歴史の記述に欠けているところから,欠史八代といわれ,学者・研究者の多くは,架空の天皇であるとしています。初代の神武天皇にしても,東征伝説や建国神話に彩られていますが,架空の天皇とみてまちがいないでしょう。第10代の崇神は,もしかしたら初代の天皇であった可能性があります。その考証はさておき,他にも架空と思われる天皇が少なくありません。推古天皇までを33代と定めたのは「記紀」が編纂された8世紀の初めごろで,実際に初代から推古までは,15代~18代であったろうと考えられています。
 なぜ天皇を増やしたのかといえば,国史(天皇紀)を編纂するに当たって,建国の年を,推古期から1200年以上も遡らせて,紀元前660年と定めたことによります。なぜ紀元前660年なのかといえば,古代中国の讖緯(しんい)暦運説に基づく辛酉(しんゆう)革命思想によります。
 辛酉革命説とは,一元(いちげん=60年)ごとの辛酉年(かのととりの年)に革命が起こり,一蔀(いちぼう=21元すなわち1260年)ごとの辛酉年には国家的大変革が起こる,という思想です。
 そこで,当時の天文学や暦学または陰陽思想などに通じた学者たちは,推古9年(601年)が辛酉年であることから,この年を現国家体制の基点と考え,そこから一蔀すなわち1260年遡らせた紀元前660年を建国の年に定めたのです。なお,ここでいう紀元前660年は西暦ですが,わかりやすくするために用いています。日本の暦法からいえば神武元年(皇紀元年)ということになります。
 さて,推古天皇以前に1200年以上の歴史があったことにしたのはいいのですが,天皇の数が足りません。そこで架空の天皇をあれこれ加えて推古天皇までを33代とした,というわけです。ところが,それでもまだ足りません。そこで天皇の年齢を水増しし,百何十歳まで生きたということにして,辻褄を合わせたのです。『古事記』によれば100歳以上の天皇が8人,90代まで生きた天皇が2人です。
『日本書記』は100歳以上13人,80代が2人となっています。

古代天皇の謎(1)

 神武天皇が即位したのは,『日本書紀』によれば,「辛酉春正月庚辰朔」ということになっています。辛酉(しんゆう・かのととり)の年の正月朔日(ついたち)に,日本の初代天皇である神武が即位し,このときから天皇家の歴史が始まった,というのです。
 しかし,この年をもって「日本国家建国」としたのは,明治になってからです。明治5年(1872)政府は,「辛酉春正月庚辰朔」を太陽暦に換算して「BC660年2月29日」とし,1年後に「2月11日」に改め,「BC660年」を日本国家の紀元,「2月11日」を国民の祝日「紀元節」と定めました。
 しかし,日本国家の起源,すなわち大和朝廷の成立に関しては,さまざまな説があります。少なくとも,まだ縄文時代が続いていた紀元前660年でないことは確かです。そこで昭和23年,「紀元節」は学問的に何ら根拠のない皇国史観によるものとして,廃止されました。ところがその後に復活運動が起こり,昭和41年(1966),改めて2月11日が国民の祝日「建国記念の日」となり,現在に至っています。
 さて,それでは,神武以降の古代天皇について,見ていくことにします。
 古代国家の骨格がしっかりと定まったのは,6世紀末から7世紀にかけての推古朝のころです。推古10年(602)には,朝鮮半島から暦法や天文・地理学などが改めて伝来し,その暦法に基づく国家(天皇家)の歴史を創っていくことになります。『古事記』『日本書紀』の編纂が完了するのは8世紀の初頭になってからですが,その間にさまざまな試行錯誤があって,天皇紀が定まっていったものと思われます。
 初代神武から33代推古までの天皇は,以下のごとくです。神武・綏靖・安寧・懿徳・孝昭・孝安・孝霊・孝元・開化・崇神・垂仁・景行・成務・仲哀・応神・仁徳・履中・反正・允恭・安康・雄略・清寧・顕宗・仁賢・武烈・継体・安閑・宣化・欽明・敏達・用明・崇峻・推古。ところがこのうち,10人以上の天皇が100歳以上生きたことになっています(「記」と「紀」で多少違いますが)。たとえば,神武天皇は「記」では137歳,「紀」では,127歳。孝安が123歳と137歳,孝元・開化は「記」で57歳と63歳ですが,「紀」だと117歳と115歳です。まだまだ何人もの天皇が100歳以上です。崇神などは「記」だと168歳,垂仁も153歳。ありえない長寿です。 さて,次回はその謎を解き明かします。

天皇陵ってなに?

 謎の3~6世紀の時代を解明する手掛かりがないわけではありません。古墳です。古墳こそは,タイムカプセルであり,すでに多くが盗掘されていたとしても,まだまだ沢山の手掛かりを遺してくれていることは,まちがいありません。
 ところが,畿内を中心とした重要な古墳の多くは,天皇陵あるいは皇族の陵また陵墓参考地として宮内庁が管理し,鉄条網で囲うなどして,いっさいの立入りを禁止しているのです。もちろん学術調査も認めません。明治以来の皇国史観の流れで,天皇の墓をあばくなどもってのほか,というわけです。
 しかし,明治初期に,陵墓と推定されるとした根拠は,極めてあいまいです。だいたい,「記紀」に登場する推古以前の30人の天皇は,矛盾だらけで不明な点があまりにも多い。100歳以上生きた,あるいは150歳を超えて生きた,さらには200歳以上などという天皇もいます。架空と思われる天皇も少なくありません。なぜそうなったのか。「古代天皇の謎」については,次回に述べますが,それらの天皇とその係累とされる皇族の墓として,数多くの古墳が宮内庁によって押さえられているというのは,納得いきません。古墳時代の陵墓で宮内庁指定と一致するのは,先にあげた天武・持統陵と,天智皇陵だけであると,考古学者は指摘します。では他の多くの天皇陵の被葬者は誰なのか,興味はつきません。
 いずれにせよ,それらの古墳の学術調査が実施されれば,古代国家成立の謎がかなり解明されることは,まちがいありません。そのことが現在の天皇家を貶しめることになる,などということも決してありません。戦前までならいざしらず,もはや万世一系を信ずる人はまずいないでしょう。むしろ,天皇家の先祖である大和大王家の歴史を明らかにし,日本国成立の謎を解明することの方が,天皇家を改めて見直し崇敬することにつながるのではないでしょうか。
 天皇陵とされる古墳は,宮内庁が抱え込んで隠蔽すべきものではなく,国民共有の貴重な文化遺産であり,学界の叡智を結集して調査研究すべき遺跡なのです。

謎だらけの古墳時代

 前回,宮内庁が陵墓に指定している奈良県桜井市の箸墓古墳と,奈良県天理市の西殿塚古墳の学術調査が許可されたというニュースを記しました。その結果,邪馬台国の謎が解明されるかも知れないと。しかし結果は,残念ながら何の成果も得られませんでした。学術調査を認めたというのは名ばかりで,ふだんは厳重な柵に囲まれて立ち入ることのできない墓域にちょっとだけ,学者・研究者が入ることを許されたというだけのことで,発掘調査はもちろん,石一つ拾うことも許されなかったのです。何ともばかばかしい結果で,腹が立ちます。
 箸墓と西殿塚は,宮内庁の指定ではそれぞれ,孝霊天皇の皇女ヤマトトトビモモソヒメと継体天皇の皇后タシラカ皇女の墓とされていますが,考古学的には邪馬台国の女王ヒミコと,ヒミコの次の女王トヨの墓の可能性が指摘されてきました。もし発掘調査されれば,仮にヒミコの墓でなかったにせよ,謎の3世紀を解明する手掛かりが得られたに違いありません。共に3世紀の中ごろから後半にかけて造られた古墳であると推定されているからです。
 日本で巨大古墳が造られるようになるのは3世紀からで,7世紀に天武・持統天皇の合葬陵を最後に消滅します。この間にいくつかの画期があり,畿内の大豪族である大和の大王家が,大和朝廷を成立させて,古代王権を確立します。そして,6世紀末の推古朝のころから,国家としての体裁が整い,大化の改新を経て律令国家となって,天皇家が確立されることになります。 この3世紀から7世紀にかけては,古墳時代とも呼ばれてます。巨大な前方後円墳や円墳が盛んに造られたからです。しかし,この間の歴史はかなりあいまいです。文献がないのですから,やむをえません。『古事記』『日本書紀』という,日本国の歴史を記した文献が登場するのは,8世紀になってからです。その「記紀」に記された「歴史」も,6世紀末ぐらいからはともかく,それ以前は伝承や創作によるもので,とても史実とはいえません。邪馬台国が登場し,大和朝廷が確立されるまでの,すなわち日本国の成立にかかわる3~6世紀の時代は,謎だらけなのです。


箸墓古墳


西殿塚古墳

*この空中写真は,国土地理院長の承認を得て,同院撮影の空中写真を複製したものです(承認番号 平25情複, 第64号) ホームページ内に記載されている情報及び画像の無断転載を禁止します。複製する場合には,国土地理院の長の承認を得なければならなりません。

邪馬台国の謎(2)

 邪馬台国は発見されるのか? 今年になって新たな動きがあり,考古学ファン・古代史ファンの注目が奈良に集まっています。桜井市の箸墓(はしはか)古墳と,西殿塚古墳の学術調査を宮内庁が許可したからです。
 昭和61年(1986)から63年にかけて,佐賀県で吉野ヶ里遺跡の発掘が進み,これまでの常識を覆す大規模な環濠集落が明らかになりました。その結果,ヤマタイ国北九州説が現実味を帯びて,改めてクローズアップされました。しかしその後,奈良県桜井市の纏向(まきむく)遺跡の発掘が進み,21世紀以降は,がぜんヤマタイ国大和説が有利になりました。ヤマタイ国の発見は,「魏志倭人伝」をいかに研究しても不可能で,考古学による決定的な発見に待つほかはない,というのは前回に述べた通りです。
 纏向遺跡は,3世紀初めごろに営まれたと推定される巨大集落遺跡です。古墳時代が始まるころ,奈良盆地の弥生のムラはほとんど衰退していますが,突如纏向遺跡が出現します。全国の古墳時代前期の遺跡の中でも飛び抜けて規模が大きく,何か大きな画期があって出現した大集落と考えられます。つまりヤマタイ国の遺跡の可能性が指摘されるようになったのです。とはいえ,今のところ,決定的な証拠は見つかっていません。しかし,すぐ近くにある箸墓古墳と西殿塚古墳の発掘調査ができれば,何らかの手がかりをつかめる可能性があります。いや決定的な物的証拠が出てくるかも知れない,と考える人も少なくありません。じつは,箸墓と西殿塚は,古くから,卑弥呼と卑弥呼の跡をついでヤマタイ国の女王となった台与(とよ)の墓ではないかという説があるからです。
 ところが,この二つの古墳は,宮内庁が陵墓として管理していて,学者・研究者を含めて一般の人は,いっさい墓域内に立ち入ることができませんでした。箸墓は,『日本書紀』により第7代孝霊天皇の皇女倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトビモモソヒメノミコト)の陵とされ,西殿塚は,第26代継体天皇の皇后手白香(タシラカ)皇女の陵とされているからです。しかし100歳以上生きたという孝霊天皇の実存は疑わしく,箸でホトを突いて死んだというヤマトトトビモモソヒメも伝説上の女性にすぎません。西殿塚は,箸墓にやや遅れて3世紀に造られたと推定され,6世紀に比定される手白香皇女の墓ではないことは明らかです。
 さて,この両古墳の発掘調査を宮内庁が認めたことは,日本の考古学にとって大きな前進です。じつは宮内庁が陵墓あるいは陵墓参考地として管理している古墳は600もあります。これらの古墳が公開されれば,謎の3~6世紀の歴史が大きく解明されるはずです。二墓に続いてその他の陵墓とされる古墳の公開があるのか,注目されています。さて,ヤマタイ国とヒミコの墓は発見されるのか,やはり幻に終わるのか?

邪馬台国の謎

 邪馬台国は,いったい日本のどこにあったのでしょうか。古代史上の最大の謎です。3世紀初頭の倭(わ)の国に君臨し,30もの国々を従えていたというヤマタイ国は,卑弥呼という女王が統治する強大な国でした。7万余戸もあったといい,1戸あたり5人とすれば,35万人もの人口をもつ大国です。中国大陸の魏(ぎ)の国に使者を送り,魏からも使者が来たほどで,ヒミコは魏の皇帝から「親魏倭王」の金印を授けられたとされます。ヒミコが死ぬと,巨大な墓が築かれたと「魏志倭人伝」は記しています。そのような大国の遺跡が,なぜ発見されないのでしょうか。
 ヤマタイ国について記した文献は,「魏志倭人伝」が唯一のものです。正しくは,「三国志」のうちの『魏書』の中に出てくる約2000字の「東夷伝倭人条」で,俗称が「魏志倭人伝」です。ヤマタイ国は,古代日本の文献には一切登場しません。『古事記』や『日本書紀』ができる約500年前にあったとされる幻の国ですから,記録がないのは当然です。
 そのヤマタイ国が,なぜかくも人気が高いのかといえば,「魏志倭人伝」に,3世紀はじめころの日本(西日本)を指すと思われる倭国の様子が,それなりのリアリティーをもって記され,強大な女王国の存在を彷彿とさせるものがあるからです。とはいえ,ヒミコについてもヤマタイ国の所在地についても,皆目不明です。そのことがかえって想像力を刺激し,ロマンを育んだといえます。ヤマタイ国の謎解きは,すでに奈良時代から始められています。それから千数百年,ことに近代以降は研究が盛んで,現代に至ってまさに諸説紛紛・百花繚乱です。しかし,謎はまったく解明されていません。
 所在推定地は,大きく北九州説と大和説に分かれますが,他にも沖縄や中国・四国・中部・関東・東北さらには朝鮮半島などの海外説等々,100を超える説があります。ヤマタイ国の発見は,もはや「魏志倭人伝」をどのように解釈しても不可能です。あらゆる可能性は,研究され尽くされたといっていいでしょう。決め手は考古学的発見だけです。ヒミコの墓やヤマタイ国の遺跡と証明される発掘が不可欠です。「親魏倭王印」の発見,あるいは魏との関係を記す文字遺物の発掘など。その可能性は極めて低いといわざるをえませんが,ヤマタイ国の存在が全否定されない限り,ゼロではありません。これからも,「ついに邪馬台国発見!」とか「卑弥呼の墓か!」などというニュースが,何年かに一度は登場し続けるに違いありません。その都度,日本人の多くは,ワクワク・ドキドキすることになります。さて今年は……。

聖徳太子の謎とキリスト

 古代史の人物で聖徳太子ほど,多くの人々に親しまれ尊敬され続けてきた人物はいません。偉大な政治家であり,思想家であり,宗教家であり,聖人と称えられてきました。日本における最高額の紙幣一万円札の顔は,長らく聖徳太子でした。
 ですが,聖徳太子の実像は,濃い霧の彼方にあって,ほとんど判っていません。そのため架空の人物説が出されたほどです。
 太子には多くの名がありますが,すべて称号で,生前の実名は不明です。「聖徳太子」の名は,現存する最古の漢詩集『懐風藻(かいふうそう)』の序文に見えるのが最初で,『日本書紀』を初め,それまでのどの文献にも「聖徳」の名は登場しません。『懐風藻』は,太子が没して130年近くも経ってから出された書です。
 太子の呼称のひとつに「厩戸皇子(うまやどのみこ)」というのがあります。『日本書紀』には,この名にちなむ次のような話が載せられています。
 太子誕生の日,母の穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ=用明天皇の皇后)が,宮中をめぐって各官司を視察し,馬官(うまのつかさ)まで来たとき,厩(うまや)の戸にぶつかって急に産気づき,その場で太子を産み落とした,というのです。
 何ともドジな話です。というより,皇妃が臨月のお腹をかかえて宮中を歩きまわり,厩舎の戸にぶつかったなどというのは,いかにも不自然です。あえて『日本書紀』が記したのには,意味があるにちがいありません。
 じつは,おそらくこの話は,イエス・キリストの生誕伝説に基づくものなのです。
 キリストは,ベツレヘムに行った母マリアによって,村の入り口の厩で産み落とされました。そして苦難の宗教活動ののち,非業の死を遂げますが,やがて偉大な救世主としてよみがえります。
 太子が生まれたのは西暦574年ごろ,没したのは622年です。キリストの誕生は西暦元年ですから,6世紀以上を経ています。しかし,西暦600年代の前半には,すでに景教(キリスト教)が唐の都である長安(いまの西安)に伝えられていました。
 『日本書紀』の編纂が終ったのは720年ですが,その間に遣唐使たちがキリスト伝説を持ち帰り,尊い話として太子誕生説話が作られた,と考えればつじつまが合うのです。

海を渡ってきた日本の神話

 『古事記』と『日本書紀』(「記紀」)は,奈良時代の8世紀に編纂された日本最古の歴史書です。「記」の方がやや古く,物語性に富み,倭語(やまとことば)すなわち日本語で記されています。「紀」は,日本の国家(大和朝廷)が編んだ最初の国史で,中国の史書にならい漢文体で記されています。内容は似通っていますが,違いもあります。
 「記紀」に記された,神々とその子孫の,天皇家の遥かなる先祖と初期の天皇についての記述は,記紀神話といわれています。すなわち歴史的な記録に基づくものではなく,遠い古代から語り伝えられてきた「神話」というわけです。いつごろ成立したのか,はっきりしませんが,ギリシア神話や旧約聖書,東南アジアの古い伝承などと同じ話がいくつもあって,興味が尽きません。
 たとえば,スサノオノミコトがヤマタノオロチを退治する話は,ギリシア神話のアンドロメダの話とほとんど同じです。アンドロメダ神話は,怪物の人身御供にされたエチオピアの王女アンドロメダを,勇士ペルセウスが救う話です。ペルセウスが退治した怪物は八つの頭を持つ巨大な海竜でした。やがてペルセウスはアンドロメダを妻とし,やがて天に昇って星座になりました。スサノオは,天から下って出雲国のヒの川の上流で,八つの頭を持つ大蛇を退治してクシナダヒメを救い,彼女を妻として出雲の国をつくります……。
 「記紀」神話のひとつアメノワカヒコの話は,『旧約聖書』創世記のニムロッド説話と同型です。神を信じないニムロッドは,天上の神に向って矢を放ち,神の投げ返した矢に当たって死にます。アメノワカヒコも同様です。高天原から地上に遣わされたワカヒコは,使命を忘れて妻をめとり,天からの使者の雉(キジ)を弓矢で射殺してしまい,天上まで飛んで行ったその矢を天上の神が投げ返し,ワカヒコは死にます。
 因幡(いなば)の白兎の話もよく知られています。ワニをだまして赤裸に皮をむかれたシロウサギを,大国様(ダイコクサマ・オオクニヌシ)が助ける話です。陸上の動物が水中の動物をだまして川を渡り,報復される話は,インドネシアや東インド諸島に広く分布しています。
 まだ「記紀」には,外国と共通の話がいくつもあります。偶然の一致もあるかも知れませんが,はるか太古から,地球上を人が移動し,文化が行き交っていた証拠です。

古代からあった国々

 日本は明治時代のはじめまで,蝦夷地(北海道)と琉球(沖縄)を除き,73ケ国に区分されていました。関東地方ですと,武蔵国,相模国,上野国,下野国,常陸国,下総国,上総国,安房国のいわゆる関八州です。州(洲)は,訓で「ス」「シマ」「クニ」などと読みます。もとは川の中にある島のことですが,行政上の一区域の呼称となりました。漢の武帝は天下を12の州に分け,その下に郡を置いています。
 古代のわが国では中国にならって,日本を多くの国に分けました。古代日本の場合「国」は「州」と同義です。奈良時代が始まったとき,日本は五畿(畿内)七道という大きな地域区分のもとで,68ケ国に分類されていました。「畿」というのは,古代中国では天子が直接支配する王都を中心とした千里四方の土地,また王都そのものをいいますが,日本の場合は,大和,山城(山背),河内,和泉,摂津の五国を指します。今でいう,奈良,京都,大阪が畿内で,日本の中心というわけです。
 七道というのは西から,西海道,南海道,山陽道,山陰道,東海道,北陸道,東山道。このうち西海道は9つの州(くに)に分類され,のちに九州と呼ばれます。南海道は4つの国から成る四国と淡路・紀伊の6ヶ国をいいます。東山道は,近江(滋賀県)から日本列島の中央山地である脊梁(せきりょう)山脈に沿って本州の最北端までの広大な地域ですが,関八州以北は,陸奥国と出羽国の2国だけでした。のちに羽前,羽後,陸奥,陸中,陸前,岩代,磐城の国々に分かれますが,古代における東北の地は,最後まで「畿」の勢力が及ばなかった地域ということになります。
 ところで,これらの国々が,中央政府に属する行政区域のクニであった時代は,古代で終わりをつげます。古代,それぞれの国には,中央から地方長官である「守(かみ)」が派遣されましたが,中世以後の守は形式的な官職名になります。それでも旧国名は生き続け,武蔵守,信濃守などという国守名も,武家の肩書きとして生き続けることになります。
 いや現代に至っても,旧国名は地名や学校名や商品名など様々な分野で生き続けています。長野県人や山梨出身の経済人というより,信州人や甲州商人といった方が,今でも判り易い。そういった例は数多くあります。「国」とは何か? 改めて一考の余地がありそうです。ところで,今から千数百年前にはすでに,旧国名のほとんどが成立していたことを,ご存じでしたか?

日本語のタイムカプセル

 日本語が,いつどのようにして成立したのか定かではありませんが,縄文時代に遡ることはまちがいありません。縄文時代は1万数千年つづきましたから,日本語の起源は,少なくとも1万年以上前ということになります。縄文人は,縄文式土器をつくり,集落を営み,日本列島の他地域に住む縄文人たちと交易を行なっていたことが判っています。
 青森県の三内丸山遺跡は,今から約5500年前から4000年前ぐらいまでの間,縄文人たちが生活した大遺跡ですが,厖大(ぼうだい)な遺物が出土し,巨大な木造建造物や墓制があったことが判明しています。文字はありませんでしたが,言葉があったことはまちがいありません。彼らが話していた言葉が,今日の日本語の源流の一つであることは,おそらく確かです。
 やがて紀元前300年(あるいはも少し前)ごろから弥生時代となりますが,縄文人と弥生人が入れ替わったわけではありません。両民族が同化しつつ共通の言語ができ上がり,やがて古代日本におけるグローバルな言語である倭語(やまとことば)が成立したものと思われます。
 弥生時代が始まってから千年の時を経て,すなわち奈良時代始めの8世紀初頭,私たちの祖先はすでに厖大な語彙の日本語を成立させていました。
 8世紀の前期に成立した『古事記』や,中期以降に成立した『万葉集』によって,私たちはそれ以前の日本語に触れることができます。そして驚くべきことに,現在私たちが使っている日本語の語彙の多くが,当時すでに使われていたことを知ります。
 じつは『古事記』と『万葉集』は,ヤマトコトバを後世に伝えるためのタイムカプセルなのです。『古事記』の序文は漢文で書かれていますが,本文はほとんどすべてがヤマトコトバすなわち当時の日本語で記されています。漢字は日本語を表記するための記号であって,漢語が入り混じっているわけではありません。『万葉集』には4516首の歌が収録されていますが,漢語を混えた歌は16首にすぎません。4500首が倭歌すなわちヤマトコトバウタです。つまり『古事記』と『万葉集』は,明らかに,当時の日本語を,物語や歌に託して,後世に伝える意図で作られたものといえるのです。ぜひ,ひもといてみてください。