「判官(ほうがん)びいき」という言葉があります。弱い方に応援したくなる心情をいう言葉ですが,もとは,源義経(九郎判官)を多くの人びとがひいきし続けてきたことに,由来します。源頼朝と義経の兄弟を比較した場合,歴史的には,頼朝の方がはるかに重要な人物です。しかし,人気という点になると,圧倒的に義経が勝ります。これは,『平家物語』や『源平盛衰記』,また『義経記(ぎけいき)』などによって,義経の薄幸な生い立ちと悲劇的な最期が,広く流布したからに他なりません。古今東西,常に文学は,史実を凌駕(りょうが)します。
では,義経は弱き人物だったのでしょうか。いや,とんでもありません。義経は,勇猛なる武人で,きわめて強き人物です。危険な人物といってもいいでしょう。
源平合戦が始まると,手勢を引き連れて頼朝のもとに馳せ参じた義経は,一年余りの間に四度の合戦を,すべて一日で勝利し,ついに平家を滅亡させました。なぜ,かくも強かったのでしょうか。勇猛果敢であり,機を見るに敏で,奇襲戦を得意とした,などに加えて,勝つためには手段を選ばない非情さを持ち合わせていたからです。
まず,寿永3年(1184)1月20日の「宇治川の先陣争い」で知られた戦い。義経軍は,敵の侵入を防ぐ逆茂木(さかもぎ)が並べられた真冬の冷たい川を,強引に押し渡って,木曾義仲軍を一蹴します。ずぶ濡れになって川を渡った多くの徒立(かちだち)の兵たちは,大声を上げて敵に突喚(とっかん)するしかなかったでしょう。もたもたしていたら,寒さにこごえてしまいます。続く2月5日夜,「一の谷の戦い」に先立ち,義経軍は三草山(みつくさやま)の平家の前衛部隊を急襲して壊滅させました。このとき,民家に火をつけて平家軍を追いつめますが,老人や子供や女性までも犠牲にしています。
翌年2月,「屋島の戦い」で,義経軍は,夜の荒海を乗り切って四国に渡ったとされます。義経の乗った船は大きく安全であったにちがいありませんが,波浪に翻弄されて海の藻屑と消えた兵士も,少なからずいたと思われます。「壇ノ浦の戦い」で,義経はついに平家を滅亡させますが,この海戦で義経は,平家方の小舟の「水夫(かこ)を射よ,梶取(かんどり)を殺せ」と命じたといいます。
小舟の漕手たちは,瀬戸内海の水夫や漁師たちで非戦闘員です。彼らに矢を向けないのは,陸の戦いで馬を射ないのと同じで,暗黙の約束でした。
しかし義経は,これまでの戦いのルールやセオリーを無視して,非情な戦いに徹しました。卑怯とされる夜討ち朝駆けはもちろん,民家も平気で焼き,女性や老人,子供であろうと容赦なく殺し,将を討つためには,まず馬を射るという戦い方をしました。だから,義経は強かったのです。
2022.6.17