前回,宮内庁が陵墓に指定している奈良県桜井市の箸墓古墳と,奈良県天理市の西殿塚古墳の学術調査が許可されたというニュースを記しました。その結果,邪馬台国の謎が解明されるかも知れないと。しかし結果は,残念ながら何の成果も得られませんでした。学術調査を認めたというのは名ばかりで,ふだんは厳重な柵に囲まれて立ち入ることのできない墓域にちょっとだけ,学者・研究者が入ることを許されたというだけのことで,発掘調査はもちろん,石一つ拾うことも許されなかったのです。何ともばかばかしい結果で,腹が立ちます。
箸墓と西殿塚は,宮内庁の指定ではそれぞれ,孝霊天皇の皇女ヤマトトトビモモソヒメと継体天皇の皇后タシラカ皇女の墓とされていますが,考古学的には邪馬台国の女王ヒミコと,ヒミコの次の女王トヨの墓の可能性が指摘されてきました。もし発掘調査されれば,仮にヒミコの墓でなかったにせよ,謎の3世紀を解明する手掛かりが得られたに違いありません。共に3世紀の中ごろから後半にかけて造られた古墳であると推定されているからです。
日本で巨大古墳が造られるようになるのは3世紀からで,7世紀に天武・持統天皇の合葬陵を最後に消滅します。この間にいくつかの画期があり,畿内の大豪族である大和の大王家が,大和朝廷を成立させて,古代王権を確立します。そして,6世紀末の推古朝のころから,国家としての体裁が整い,大化の改新を経て律令国家となって,天皇家が確立されることになります。 この3世紀から7世紀にかけては,古墳時代とも呼ばれてます。巨大な前方後円墳や円墳が盛んに造られたからです。しかし,この間の歴史はかなりあいまいです。文献がないのですから,やむをえません。『古事記』『日本書紀』という,日本国の歴史を記した文献が登場するのは,8世紀になってからです。その「記紀」に記された「歴史」も,6世紀末ぐらいからはともかく,それ以前は伝承や創作によるもので,とても史実とはいえません。邪馬台国が登場し,大和朝廷が確立されるまでの,すなわち日本国の成立にかかわる3~6世紀の時代は,謎だらけなのです。
箸墓古墳
西殿塚古墳
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