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2011年12月22日

関西支社かいわい

関西支社は6月からオープン準備と実務を始めました。
7月に入ると京都の町は祇園祭り1色になり、支社のある新町通りと隣の室町通りが山鉾建ての中心となります。2つの通りで12個の山鉾が建てられます。
7月12日くらいから山鉾の中で、コンチキチンのお囃子が始まり、いっそう華やかになり、16日の宵山、クライマックスの山鉾巡行となり、京都に本格的な夏が訪れます。

新町通りに建てられた北観音鉾

秋になると紅葉狩りで人出が多くなります。特に11月はホテルもなかなか取れないくらいです。今年は紅葉が遅かったので、この時期(12月半ば)でも人が多い。

四条烏丸付近は京都の経済の中心地で、多くの食べ物屋、飲み屋があります。

京都市民の台所といわれる「錦市場」 支社から歩いて十分くらい

昼休みに散歩なんかすると、小さなお寺や現在でも生活している古民家、思いがけない著名な古寺跡なんかに出くわします。中でも多いのは古民家を改装したレストラン、割烹屋、喫茶店などです。

ご存知織田信長終焉の地、本能寺跡。支社からすぐ

関西支社界隈では一番大きなお寺、六角堂

和菓子と佃煮を扱うという珍しい店、永楽屋

何気にゆかしい民家

古民家などでは展示スペースなどがあり、いろいろな催しをやってます。最近見かけたのは「長襦袢の歴史展」という、なんとも艶かしいイベントをやってました。
夜も昼もなかなか楽しい町です。

支社のスタッフがよく行く矢尾定さんとおかみさん。日替わり定食はおすすめ

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2011年11月22日

10月16日、出版健康保険組合主催による第37回ロードレース大会に、
社の有志マラソン部(?!)6人が参加しました。
全員5kmに性別年令別にてエントリー。
(去年は一般10kmに参加しました)

当日の受付は朝9時ということで、ずいぶん早かったです。
そんな中、関西支社長が応援に駆けつけてくれました!(ありがとうございました)

肝心のレースですが、当日は気温が高く、参加者を苦しめました。
私ももれなく苦しみ、5分後にスタートするクラスの上司に
颯爽と抜かれるなどしながら何とかゴールしました・・・。

レース後は、有楽町駅付近にて昼食とレース後の楽しみであるビールで乾杯!!
みんなの健闘を労いました。

来年はもう少し練習して、一般10kmに再チャレンジしたいと思ってます。

(編集R.K.)

大会前のようす

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2011年10月6日

東京本社メンバー集合写真

10月3日、関西支社の開設を祝い、社員とパートタイマーの全員にお祝いが配られました。
(お祝いは紅白まんじゅうでした。私は家で家族といただきました♪)
そのときに記念に撮った一枚です。
普段は2Fと3Fに分かれて仕事をしているのでわかりませんが、集まると結構な人数ですね。
このような顔ぶれで日々がんばっています。
お仕事をくださっているみなさま、担当者はどこにいるでしょうか…!?
(顔が隠れてしまっている人もいますが。。。)

(編集F.S.)

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2010年9月30日

沖縄の小さな離島の夜は、満月の時期がいちばん楽しめる。
島の民宿や集落のあるエリアは外灯もぽつぽつ立っているので、夜でも少し明るいが、集落を少しはずれた道は、月明かりがなければ正真正銘の真っ暗闇で、足元も見えない。部屋でカーテンを閉めて電気を消したのと同じ状態である。

そんな中、満月の明かりはとても強く、サンゴや白い砂で埋め尽くされた道がぼんやり青白く浮き上がって見えるのは、なかなか幻想的である。 月明かりで自分の影が地面にくっきり映っているのを見ると、月の光はこんなに強いのかと思い知らされる。

夜の離島の静けさはとてもいいのだが、その静けさを味わうには、宿泊しなければならない。コンビニなどなく、商店は1軒だけ、4〜5軒ある食事処もすぐに閉まってしまうような島に泊まるのは、わりと物好きの人だけがすることかもしれない。

沖縄の離島は、石垣島から船で10分から20分程度で行ける島もあるので、朝から行って夕方まで遊ぶのでも十分楽しめる。しかし、船は夕方の5時や6時が最終便で、そのあとは行き来できなくなってしまうのだ。
昼間、自転車で島内をめぐっていたり、海で遊んでいたりする人のほとんどが、そこで帰ってしまう。美しい日の入りも、夜の静かな暗闇も、そこで帰らなかった場合だけ味わえる、特別な時間である。

誰にも会わず、自分の足音しか聞こえない。

昼間だけ干潮になって歩けるマングローブ林。

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2010年8月30日

白鳥の湖

今年の夏はほんとうに猛暑だった。あくまでも主観だが、最も暑さが不快だったのは東京都新宿区ではないかと思う。
夜、調布の会社を出たときは、昼の暑さが少しマシになったなぁと思うのだが、新宿区に着くと「むわっ」とする熱気に襲われ、最寄り駅から自宅までにひと汗かいてしまう。

そこで、夏の行楽はどこか涼しいところへ・・・と思って行き先に選んだのが、山中湖である。
山中湖の近くにある「忍野八海」という富士の湧き水が出ている村へ、去年、紅葉を見に行ったのだが、11月の頭だというのに、気温が真冬なみだったのだ。
コートを着るにはまだ早い時期だった当時、最高7℃最低0℃という気温予報を見て、筋肉のような最強のダウンジャケットを着てニット帽もかぶっていったのに、夕方から気温がさらに下がると、手がかじかんできて、予定より早く帰った記憶がある。

そんな場所だから、真夏に行っても涼しいだろうと予想して行ってみたところ、やはり涼しかった。
曇っていたせいもあるが、気温20℃だったのである。
山中湖は、実は標高1000メートル近い場所にあるのだ。標高が上がれば、気温が下がるのも当たり前である。そんなに涼しければ歩き回る気にもなるし、山梨グルメの「ほうとう」を食べようかという気にもなる。

しかも、富士五湖はじつは東京から簡単に行けるのだ。新宿から高速バスに乗って、2時間程度で着いてしまう。
高速バスは、安いうえに早く、当たり前だが自分が運転しなくていいし、乗り換えもなく寝ていれば着いてしまうという点で、かなり魅力的な交通手段である。

ちなみに忍野経由、山中湖行きのバスの乗客の90%はわいわいにぎやかな少年少女たちなのだが、みんな忍野の少し手前の停留所でおりてしまう。彼らはバスをおりたら、次は「ええじゃないか」や「FUJIYAMA」という別の乗り物に乗るのだ。
そのあとバスに残っている4〜5人は、のんびりと忍野で名水そばをすすったり、山中湖畔でほうとうをすすったりしようと計画しているアダルトな人たちだ。

10メートル下もはっきり見える忍野八海の池。

このほかに足こぎボート型の白鳥もいます。

そういうわけで、東京から車で2時間の山中湖は、かなり手軽なおすすめ避暑地で、かつキャンプ地でもあるので、アウトドア派も楽しめる。
温泉のある高級旅館でゆっくり過ごしたい場合は、河口湖がオススメ。

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2010年5月18日

簡易ベッド

さて、この写真はどこで撮られたものだと思われるだろうか。
東南アジアの仏教寺院ではないし、両側に並んで横たわっているのは袈裟を着た修行僧ではない。

ここはオランダの空の玄関口・アムステルダムにある「スキポール空港」の中である。
そして、両側に並んでいるのは、赤いブランケットをかけて簡易ベッドに寝ている旅行者たちだ。

4月中旬にアイスランドで火山が噴火し、ヨーロッパ中の空港が何日間も閉鎖になったニュースは、ある程度日本でも報道されたのだろうか。
私はこのニュースが、日本でどの程度の報道をされていたかを知らない。なぜなら、このときまさしく私はヨーロッパにいたからである。
私もこの簡易ベッドで寝た1人なのである。

火山が噴火した日、私は飛行機に乗ってオランダへ向かっていたのだが、アムステルダムの空港へ着いてそのニュースを知ったときには、すでに空港内の発着スケジュールの画面には、すべて「canceled」の文字が並んでいた。
私は隣のベルギーの首都ブリュッセルへ行く予定だったのだが、もちろんブリュッセルへの乗り継ぎ便もcanceled。飛行機でたった40分先の目的地へ、行くことができないのである。
夕方になっても明るいヨーロッパの空はきれいに澄み渡っていて、火山灰など少しも見えていない。

結局私は、上の写真の中の1人となって空港で一夜を過ごし、翌朝になってもまだ状況が変わらないということが分かって、ついに預けたままの荷物を放置して、オランダへ入国し、電車でブリュッセルへ向かうことを決意したのだ。
ブリュッセルに着いて最初にしたことは、もちろんスーパーでの着替えや歯磨き等の買い物である。

地続きのヨーロッパ国内が最終目的地であれば、私のようにさっさと空港を出て電車で移動できた人も多かったろうが、たとえば日本へ帰る前日に噴火が起こった、という人もいたことだろう。
目的地がベルギーだった私は、本当にラッキーだった。

そして、ラッキーだったことはもう1つある。
私の旅行の出発日は、本当は1日遅かったのだ。16日に出発という予定で旅行会社に予約を頼んだのに、間違えて15日出発の便が予約されてしまっていたことが、出発の直前に分かったのである。
その早まった1日目の宿泊代は旅行会社もちで、しかも5つ星ホテルを取ってくれたのだった。
ただ、無料で5つ星ホテルに泊まれることがラッキーだったと言いたいわけではない。

出発が1日早まっていなければ、私はそもそもオランダへ渡航できなかったのだ。
あの手違いがなければと思うと、ゾッとするとともに、手違いをした旅行会社に感謝をせざるを得ない。
結果として、無料で泊まれることになった5つ星ホテルは幻となり、マイナス5つ星ぐらいの簡易ベッドで寝るハメになった。あのホテルとは縁がなかったということなのだろう。

(T.N.)

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2010年4月12日

サスペンスドラマのすすめ

私は旅行が好きである。海外は1年に1回は行くし、国内もたまに行く。

海外の場合、行きたい国リストというものが頭の中にできあがっていて、それは何年分も先まで埋まっている。 海外旅行というものは、飛行機の便が埋まってしまえばどうがんばっても行けないので、早めの計画が必要である。

一方、国内の場合は、1〜2泊の短い旅行であれば、いつでも行こうと思えば行けるので、そういうリストは頭の中にはできあがっていないし、前々から計画を立てるということもない。
なので、国内旅行をするときは、急に決めてパッと行ってしまうことが多い。

しかし、何かのきっかけがなければ行くことはないわけで、私の場合、そのきっかけは何かというと、テレビの2時間ドラマ(つまりサスペンスドラマ)である場合が多い。

最近好きでたまに見ているのだが、なんでもよいというわけではない。
ずーっと法廷の場面しか出てこないようなものは、あまり見たいと思わない。見たいのは、どこか東京以外の地方が舞台の、旅情あふれるドラマである。

そういったドラマはたいていの場合、その地域の名所がいくつか写される。刑事が事件の関係者と歩きながら話しているとき、背景はたいていそういう名所である。
ホテルのロビーで待ち合わせしたにも関わらず、不自然にそういうところばかり歩いているように見えることも多い。

そういう名所を見ていると、ちょっとだけ旅をしたような気分になるし、「あそこはどのへんにあるんだろう?」と思って、調べたくなることもある。
そして史跡や自然と並んで映される、要チェックなものが、ホテル・旅館である。 ああ、ここいいなと思ってメモをとって、遊びに来る客、泊まりにくる客がいるかもしれない。
いや、実際いるのである。ここに。

そういうわけで今年行ったのが、会津若松と京都である。
京都なら、行けるならいつでも行きたいと思っているし、実際にもう何度か行っているのだが、会津若松はまさしく、ドラマで刑事が泊まっていた旅館がとてもよさそうだったというのと、事件が起こってパトカーが走っている場面の風景がすごくよかったから、というのが行きたくなった理由である。
そのパトカーが走っていたのは、「大内宿」という江戸時代からそのままの姿を残している宿場町だったということは、あとのリサーチで分かることになる。(ちなみにパトカーが走っていた道は、実際は車両乗り入れ禁止だった。)

豪雪の大内宿

京都の桜はやっぱりきれい

私たち編集者の仕事は、基本はデスクワークである。遠くへ出かけて、非日常を味わう日はやっぱりあったほうがいい。

チラリと旅行したいがどこへ行ったらわからないという方は、まず9時からサスペンスドラマを見てアタリをつけてはいかがだろうか。

(T.N.)

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2010年3月9日

終わりなき「教育」の幻想と学習者の責務

人格を形成する要素の一つとして,小学校とそれを取り巻く体験を意識することがよくある。人によってその要素は様々だろうが,私にとっては幼少の頃の家族との生活と同程度の重みを持つ。普通といえば普通のことである。その意識は,ここ数年の公教育の変化と,それによる児童の生活・教育環境の変化への意識ともあいまって,自分の中で非常に重みを増している。小学生の子供を持っていることも多分に影響していると思われる。

社会に出るとその人の能力を含めた人格に対して判断・評価が下される。曰く「学校で何を教わってきたんだ」曰く「親の顔が見たい」という発言の中には,明らかに当該人物だけではなく,誰彼を取り巻いていた環境と時代への解釈が加えられている。その意味で言えば,ある人に社会的に与えられているプラスの評価は,その人を取り巻いていた環境へのプラスの評価であり,マイナスの評価はその逆であると言い換えることができる。

今でも思い出されるのは,毎日の早朝マラソンである。学校の周りを周回するものだが,現在であれば様々な理由で実現するのは難しいであろう。早朝マラソンを行うことになったいきさつを,機会があれば当時の先生方に聞いてみたいところだが,いずれにせよ毎日の早朝マラソンの実施と,私がそれに健気に欠かさず参加し,子供ながらに続けることと苦難に耐えることへの価値を見いだそうとしていたことは間違いのない事実である。この毎日の早朝マラソンがそうだとは言わないが,私の小学校時代とそこで成されていた教育は,今考えてみるとかなり信じられないことだらけであった。現在であればたぶん問題視されるようなことも平気で行われていたことも事実である。しかし驚くべき?ことは,社会人になって自覚した自らの「武器」の多くは小学校時代にすべて与えられ,獲得したものだということだ。ドーナツ化現象が進み,6年間を同じメンバーで過ごした私だが,そのことがもたらしたプラスの事柄も多かった気がする。例えば,各シーズンに特徴的なスポーツをクラブ活動として行うことができた記憶がある。つまり春はバスケットボール部であり,夏は水泳部であり,秋は陸上部であり,冬はサッカー部であった。「広く浅く」の精神はこの頃から変わらない。

戦時中は人殺しは英雄で,敵前逃亡は蔑まれた。ペスト患者は隔離された。プロ野球の先発投手完投信奉は,役割分担が当たり前となった。今でも一部の指導者の間では,心の病は根性で治ると思われている。別にいいのである。時代は移り考え方は変わる。受験戦争でもゆとり教育でも良いのだが,新たに歩みを始める小学校が,大人になったときの「生きる武器」を与えられる教育現場であって欲しいし,子供たちはそこから多くを学び取れる学習者であってほしいと願うばかりである。

『ある小学校の廃校にあたって書かれた寄稿文より転用』
(J.N.)

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2010年1月25日

オフサイドとられて考えた

もうずいぶん前、妻と公園へ散歩に行ったときのことだ。持っていったサッカーボールで遊んでいたところに近所の子供たちが乱入し、時ならぬミニサッカー大会になった。
相手は小学生だから、へたくそな僕でもドリブル突破もボールキープも思いのままだ。大人げなく夢中で攻める僕を突然、相手チームの子供のひとりがとがめた。

「オフサイド!」

ええっ、こんな10メートルか20メートルのフィールドでオフサイド? 見逃してくれよとばかりに抗弁したが、その子の主張に僕は驚いた。

「オフサイドがなければサッカーじゃない」!

オフサイドは、たかが公園のミニゲームを決して楽しくはしない。その子は単に、遊びのサッカーに「本物っぽさ」を求めただけなのかもしれない。
しかし、オフサイドという抑圧的なルールをかいくぐってこそゴールの快感がある、といった道理を小学生にして学びとっているとしたら君はすごいぞ、と僕は勝手に感動したのだった。
低いレベルの楽しみをガマンすれば、高いレベルの楽しみが手に入る。かもしれない。これこそ世の親たちが教えるのに苦労していることではないか。

先生の指示が「ボールに群がるなーっ」しかなかった「キャプテン翼」世代とは隔世の感だ。
(E.H.)

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株式会社カルチャー・プロ