ちはやぶる日本史



 戦国時代を再検討する①


応仁・文明の乱

  応仁・文明の乱は、応仁元年(1467)に、京都で起こりました。はじめは畠山家の内紛です。畠山政長は細川勝元の援助を受け、畠山義就(よしなり)は山名宗全を後ろ楯にします。大乱の火ぶたが切って落とされたのは、応仁元年5月26日のことで、両軍合わせて25万人もの兵が京都でぶつかり合ったのです。
 この大乱が終わりを告げたのは、文明9年(1477)のことです。その10年間で京都はすっかり焼けつくされ、日本各地にも波及して各地もすっかり荒れてしまいました。その間のことは、『「室町時代から戦国時代へ」⑦応仁の乱へ』に、すでに記しましたので、憶えているでしょうか。
 乱が収束した文明9年、興福寺大乗院門跡(もんぜき)の尋尊(じんそん)は、大乱によって一変した諸国の状況を、つぎのように区分けして記録しました。
 第1は、幕府の命令にことごとく従わず、年貢をいっこうに進上しない国々。
 第2は、国中でなお戦乱が続いていて、年貢進上どころではない国々。
 第3は、守護は一応下知(げち)に応ずるものの、守護代以下各国の者共が従おうとしない国々。
 大別すると諸国はこの三つのいずれかに属する、というのです。しかし尋尊は、結局は、「日本国は悉(ことごと)く以(も)って御下知に応ぜず、とも記しています。
 実際に応仁・文明の乱後、文明17年の山城国一揆(やましろのくにいっき。次回に詳述)につづいて、長享2年(1488)には、加賀の一向一揆が守護の富樫政親(とがしまさちか)を倒し、門徒たちが国を治める「門徒持ち」の国をつくるありさまでした。権力は、将軍から守護へ、守護から守護代そして国人へ、さらに地侍や民衆へと、しだいに下降分散していき、下剋上の社会状況は深まっていったのでした。
 ともあれ、応仁・文明の乱が収まったことで、諸国の武士たちもぞくぞくと引き上げていき、11年目にしてやっと、京都の町にも平和がもどってきました。京都の住人である公家たちも、ほっと胸をなでおろしたのでした。とはいえ、京都は大半が焼け野原となっていました。平和がもどれば、町人や職人たちももどってきて、京都の町は、急速に復興していきます。しかし、幕府の屋台骨は、すっかりゆるんでしまいました。
 この戦争は、中央での家督争いに端を発したものですが、中味は、地方武士の地盤固めとなり、また諸国の勢力の争いに変わっていったのです。そして、諸国の武士たちにとっては、幕府も守護も、あてにならない存在となったのでした。幕府もそのことはわかっていたのですが、もはや権力をたてなおす実力も気力も失われていました。
 それでも幕府は、なんとかして勢力をもとにもどそうと、はかない努力をつづけます。それが将軍義尚(よしひさ)の六角(ろっかく)征伐です。義尚は近江国の鉤(まがり。現在の滋賀県栗東市)に陣をしきますが、六角高頼を甲賀郡の山中に追ったものの、延徳元年(1489)に陣中で没してしまいました。さて、幕府はどうなるのでしょうか…。


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 戦国時代を再検討する②


山城国一揆

 「国一揆」は、15世紀(室町時代)に、近畿地方を中心に起こった国人(国衆)・土豪層による武装蜂起をいいます。国人というのは、国衙(こくが)の住人たちで、国衙は、律令制下の諸国の政庁をいいます。
 文明17年(1485)、南山城の久世(くぜ)・綴喜(つづき)・相楽(さがら)3郡で起きた大規模な国一揆が、「山城国一揆」です。この年の12月11日、上は60歳から下は15、6歳までの国人が集会し、畠山両軍に対する都からの撤退を要求しました。畠山政長と義就(よしなり)の両軍は、応仁の乱以来、延々と戦い続けていたのです。20年に及ぶ戦いで、都は荒れ果て、それでもなお、いつ果てるとも判らない争いが続いていました。その争いに、ついに都の住民たちが立ち上がったのです。
 彼らは、両畠山軍に対して断固撤退を要求し、退陣しない場合は国衆として攻撃を加えるという強い態度で交渉に臨んだのです。そしてついに、両軍を撤退させることに成功したのでした。
 以後、山城国の支配は、36人衆といわれる国衆が中心となって行われることになります。この組織を「惣国」といいます。「惣国」による自治は、8年間続きました。その間、幕府が、南山城の支配を放棄していたわけではありません。
 幕府は、文明18年(1486)5月と、長享元年(1487)11月に、伊勢貞陸(さだみち)を山城国守護職に補任(ぶにん)しています。しかし、いずれも貞陸は南山城に入部することができませんでした。「惣国」による自治体制が強かったからです。さらに明応2年(1493)にも、幕府は、河内国出陣の準備の中で、再び伊勢貞陸を山城国守護に補任します。しかしやはりこのときも、貞陸は、南山城に入部することができませんでした。
 そこで幕府は、同年(明応2年=1493)8月、山城8郡の諸侍中に宛てて、守護である伊勢貞陸の下知に応ずることを命じます。これを受けて山城の国人衆は、申し合わせた結果、同月(明応2年8月)18日に、伊勢貞陸の支配を認めることにしたのです。しかしその後も、貞陸の入部に反対する声は強く、結局貞陸は、山城国に入部することができませんでした。
 伊勢貞陸は、山城国に入れないことがわかると、大和の豪族古市澄胤(ふるいちすみたね)に、綴喜・相楽2郡の支配をまかせます。当初から南山城を狙っていた古市は、さっそく軍勢を率いて山城へと攻め入ります。山城の武士たちは稲屋妻(いなやつま)城に立て籠り、抵抗を試みますが、すでに内部分裂を起こしており、結局落城してしまいます。古市澄胤は、戦後すぐに大和へ引き上げますが、こののち南山城の2郡は、古市の代官井上氏によって支配されることになります。
 ともあれ山城国一揆が、小勢力による一時的な連合とはいえ、8年間、南山城に自治政権をつくることができたのは、農民や地侍たちの強いバックアップがあったからに他なりません。彼らは戦争に反対し、自分たちの生活を自分たちの手で守ろうとしたのです。


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 戦国時代を再検討する③


室町幕府と細川政元

 室町第9代将軍足利義尚(よしひさ)は、延徳元年(1489)三月に、六角氏退治のため出陣中の近江で、ぽっくりと死んでしまいます。まだ24歳でした。
 足利義政の弟義視(よしみ)は、このことを逃亡中の美濃で知り、子供の義稙(よしたね)を連れて、急いで上京して来ました。我が子義稙に、第10代の将軍職を継がせるためです。前から義視を目の敵にしていた日野富子は、これに大反対ですが、翌年正月に義政が亡くなって、とりあえず義視が第10代将軍につきます。ところが、義視もその翌年に亡くなり、将軍義稙が一人残されることになってしまいました。
 そのころ都(京都)で、もっとも権勢をふるっていたのが、細川政元です。政元は細川勝元の子です。管領となり、摂津(大阪府)と丹波(京都府)の守護を兼ねていたのは、親の七光りによるものです。政元は初め、神妙に若い将軍義稙を補佐していたのですが、将軍が長じてくると、二人は衝突するようになります。
 政元は、堀越公方足利政知(まさとも)の子で僧になっていた清晃(せいこう)を還俗(げんぞく)させ、足利義澄(よしずみ)として、将軍にしようとします。義稙はこれを知って、河内の守護畠山政長に庇護(ひご)を求めました。
 政元にとっては都合の悪いことになりました。政長が義稙をかついで、管領の地位を奪いに来るのが目に見えていたからです。そこを政元はすかさず、赤松政則に命じ、政長を攻めて自殺させ、義稙を京都に連れ戻して、臣下の邸に幽閉したのでした。
 こうして政元は、義澄を将軍にまつり上げ、思うままに力を振るうことになります。将軍義澄は、自らの力の無さをなげき、ひそかに、等持寺にある先祖の足利尊氏の木像に、将軍の威令を取り戻すための経文をささげたりしました。
 いっぽう、政元に押し込められていた前将軍の義稙も、脱出して越中の神保長政(じんぼながまさ)を頼ります。そこで、政元打倒の兵を諸国につのります。自分こそが本当の将軍であると。義稙は、越前で打倒政元の兵を挙げ、近江に攻め入りました。しかし逆に政元の軍に敗れてしまいます。そこで、中国地方の大勢力である周防(すおう)の守護大内義興(よしおき)の懐に飛び込んだのでした。
 いっぽう京都では、政元の専断ぶりが目にあまるようになります。自分でかつぎ出した将軍義澄とも、しばしば衝突しました。それだけではなく、家臣たちからさえ、うらみを買うようになりました。政元が手足とたのんだ家臣の薬師寺元一(もとかず)が、政元の養子の澄元(すみもと)をたてて反乱を起こしたのは、永正元年(1504)9月のことです。決戦には至らず和睦しましたが、今度は政元のもう一人の養子澄之(すみゆき)が反乱を起こします。その結果、養父政元を攻め殺してしまいました。
 権勢並ぶ者のなかった政元も、結局はあっけない最期をとげたのでした。


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 戦国時代を再検討する④


将軍・管領の泥仕合い

 永正4年(1507)6月、突然、権勢並ぶ者のなかった細川政元が殺されてしまいました。殺したのは政元の養子の一人細川澄之(すみゆき)。澄之の実父は九条政基です。
 澄之は、ついでに、政元の養子で義理の兄に当たる澄元(すみもと)まで殺そうとします。しかし危機を察知した澄元は、近江国の甲賀郡へ難を逃がれて事無(ことな)きを得ました。ともあれ澄之は、細川政元を除き、強引に細川家の嫡流(ちゃくりゅう)を継いだのでした。ところが間もなく澄之は、一族の細川高国(たかくに)に殺されてしまいます。
 こうしたごたごたがあって、細川政元のあと目を継いだのは、近江から京都に帰った澄元でした。
 いっぽう大内義興(よしおき)の庇護下にあった前将軍足利義稙(よしたね)も、将軍復帰の機会を狙っていました。そこへ、細川家内部が、政元が殺されて、あと目をめぐって揉めているという情報が入ります。好機到来とばかり、大内義興は足利義稙をいただいて軍を起こします。そのころ細川高国は細川澄元と揉めて伊賀に引き上げていましたが、大内義興の軍が義稙を立てて堺に上陸したことを聞いて、これを機に京都に攻め上ろうとしました。そこで将軍義澄と細川澄元らは、近江へと逃げます。
 いっぽう伊賀で機会を狙っていた高国は、堺で義稙を出迎えます。義稙はなんと15年ぶりに京都に戻ったのでした。そして、義稙は将軍の位にも返り咲きます。いっぽう細川高国は、細川宗家を継いで、管領職に任命されます。時に、永正5年の夏のことでした。
 しかし、ほどなくしてまたも争いが起こります。永正8年、細川澄元が、細川高国を追い出すための軍を上げます。播磨の守護赤松氏らに助けられた澄元ですが、高国は大内義興と共に京都船岡山で戦い、大勝利を収めます。澄元が再び京都に攻め入ったのは、9年後の永正17年(1520)のこと。高国はいったん近江に落ちますが、軍を立て直して京都に攻め帰り、澄元の軍を阿波に追いました。間もなく澄元は失意のうちに死亡し、前将軍義澄は船岡山の決戦直前に死んでしまいました。
 こうして将軍位と管領職をめぐる争いは、足利義澄・細川澄元の死によって、30年ぶりに落ちついたのでした。天下は、管領細川高国のものとなります。しかしそうなるとまた、高国と将軍義稙が権威を張り合うようになります。すると義稙は将軍職を放棄して、淡路に引き込もってしまいました。すると高国は、かつては敵であった前将軍義澄の遺児亀王丸を将軍につけます。これが12代足利将軍義晴です。
 このように、将軍家と細川家の入り乱れた家督争いは、まさに泥仕合いの様相を見せて、収拾がつかなくなります。義晴は将軍とはいえ、まったくの傀儡(かいらい)にすぎません。争いは、まだまだ続くことになります。


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 戦国時代を再検討する⑤


古河公方と堀越公方

 嘉吉(かきつ)の乱が起こったのは、嘉吉元年(1441)6月のことです。播磨の守護赤松満祐(みつすけ)が、足利6代将軍義教(よしのり)を殺します。将軍に殺されることをおそれた満祐が、先手を打って将軍を殺したのですが、結局満祐も、細川・山名氏らの幕府軍に攻められて、一族と共に自殺させられてしまいました。これが、嘉吉の乱です。
 その1ヵ月前、すなわち嘉吉元年5月、結城(ゆうき)合戦で捕えられた足利持氏の遺児3人のうち、安王と春王の少年二人は、京都に護送される途中、義教の命令で殺されてしまいます。ところが3人目の永寿王(えいじゅおう)だけは殺されずにすみます。というのは、京都で嘉吉の乱が起こったために、永寿王の処置にかかわっているひまがなかったからです。こうして永寿王は細川持之(もちゆき)のもとで育ちます。彼が、後の古河公方足利成氏(しげうじ)です。
 細川持之は嘉吉2年に亡くなりましたが、嘉吉の乱後、関東の政情は安定しません。何とか、信頼できる鎌倉公方を置く必要がありました。そこで持之は、その大任を永寿王に担わせる決心をして、亡くなったのでした。
 しかし、永寿王が鎌倉にやって来たのは、持氏の死後11年目のことでした。宝徳元年(1449)の8月に京都を発ち、翌月に鎌倉に到着したのです。関東はここに、やっと新公方を迎えたのでした。やがて永寿王は元服し、将軍足利義成(よししげ。義政の初名)の一字をもらって、成氏と名乗ったのです。
 関東の諸氏の多くは、新公方を大歓迎します。結城氏、里見氏、千葉氏、宇都宮氏などです。成氏は、万事これらの諸氏に相談しました。ところが、山内(やまのうち)と扇谷(おおぎがやつ)の両上杉氏は、面白くありません。両上杉は、関東管領として公方を補佐してきた伝統と誇りを持っています。しかも、成氏の相談相手はいずれも、かつての両上杉の敵です。
 こうしたことから、足利成氏と両上杉の間は、次第に険悪になっていき、ついには戦い始めます。幕府の関東安定の意図は、もろくも崩れてしまったのです。結局幕府は上杉家に加担し、駿河の守護今川範忠(のりただ)に、成氏討伐の命令を下します。今川軍が鎌倉に攻め入ったので、成氏は下総(しもうさ。茨城県)の古河に逃れ、範忠は鎌倉を焼き払って帰国しました。康正元年(1455)6月のことです。
 こうして関東の地は、成氏対両上杉の戦場となりました。幕府は最後の手段として、将軍義政の弟政知(まさとも)を派遣します。政知は廃虚となった鎌倉を避け、伊豆の堀越(ほりこし)に居館を構えました。これが堀越公方です。政知は成氏を討ちますが、勝敗は決せず、関東は、いつ終わるとも知れぬ長期戦の地となったのでした。


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 戦国時代を再検討する⑥


太田道灌と江戸城

 太田道灌が江戸城を築いたのは、長禄元年(1457)、道灌25歳のときといいます。その10年後に京都で応仁の乱が起こり、戦国時代の幕が開きます。
 道灌の築城以前、江戸郷には、平安以来の名族江戸氏の居館があったといいます。ですが、居館の位置など、江戸氏の遺構はまったく判っていません。それどころか、じつは、道灌時代の遺構も残こされていないのです。とはいえ、当時とすれば大城郭で、室町時代後期における関東有数の名城であったろうと思われます。
 文明年間(1469~87)に江戸城を訪れた禅僧の正宗龍統(しょうしゅうりゅうとう)や万里集九(ばんりしゅうく)の記録によれば、自然の地形を利用した壮大な城で、石垣はまだありませんが、三重の構造を持っていたことが判ります。城内に静勝軒(せいしょうけん)と名づけられた道灌の館があって、西に富士、東に海、南に原野が眺望できたといいます。いまの皇居内の富士見櫓のあたりが静勝軒跡と考えられています。
 太田道灌は、戦国時代初期の関東における有数の武将であると同時に、第一級の文化人でもありました。京都や鎌倉から禅僧や文化人を盛んに招いて、歌会を催すなどの文化イベントを、たびたび行っています。もちろん江戸城は軍事拠点でしたが、いっぽう一大文化サロンでもあったのです。また、城下では毎日のように市が開かれ、諸国の物資が行き交っていました。江戸の地は、水陸交通の要衝(ようしょう)であり、道灌のころすでに、相当な賑わいを見せていたのです。
 徳川家康が入城したとき、江戸の地は葦(あし)の茂る海辺の寒村であった、というのは、伝説にすぎません。
 江戸と江戸城の出発点は江戸氏、発展の基礎を築いたのが道灌です。その後江戸の地は、およそ100年間、関東に君臨した後北条氏(小田原北条氏)の重要な拠点でした。だからこそ家康は、秀吉に協力して後北条氏を滅ぼした後、自ら望んで江戸に入ったのです。秀吉に従ってやむなく葦の茂る寒村に入国したわけでは、ありません。
 とはいえ、江戸城を日本最大の城郭につくりかえ、江戸を日本最大の都市に発展させたのは家康であり、子の秀忠です。しかしその基礎は、100年以上も前に太田道灌によって、しっかりと築かれていたのです。
 太田道灌は、永享4年(1432)に、扇谷(おおぎがやつ)上杉氏の重臣太田道真(どうしん)の子として相模国(神奈川県)に生まれました。幼時より鎌倉五山に入って学問に励み、20歳のころには五山無双の学者になったといわれました。しかし時代の流れに従って道灌は、父と共に扇谷上杉家に仕え、武将としての道を歩くことになります。
 道灌は、武将としての才能にも恵まれ、「道灌がかり」という築城の名手でもありました。江戸城につづいて武州岩槻城や河越城(ともに埼玉県)も、道灌の築城によるものです。また攻め取った城も多数にのぼるといわれています。


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 戦国時代を再検討する⑦


下剋上する成出者

 戦国時代の幕明けとなった応仁の乱後、文明17年(1485)の山城国一揆(やましろのくにいっき)に続いて、長享2年(1488)には加賀の一向一揆が守護を倒して、「門徒持ち」の国をつくります。権力は将軍から守護へ、守護から守護代・国人(こくじん)へ、そしてさらに地侍・民衆へと自然に下降分散して、下剋上(げこくじょう)の社会状況が深まっていきました。
 下剋上というのは、下位の者が上位の者に剋つ(かつ)ことです。すなわち家来が主人を倒したり、仕用人が支配者を殺したり追放したりして身分が転倒する状態で、この時代、下剋上が多くなったということです。
 「下剋上」の語は、鎌倉時代以降、栄んに用いられますが、建武の新政の混乱期に書かれた「二条河原落書」に「下剋上スル成出者(なりでもの)」と出てくることで、よく知られています。「二条河原落書」は、建武元年(1334)8月・京都の二条河原に立てられた政治批判の落書です。「落書」というのは、「落首」とほぼ同義語で、政治や社会を風刺したり批判したりした短文で、人目につきやすい場所に立てたり貼ったりしたものです。いわば近現代の「壁新聞」といったらいいでしょうか。二条河原の落書の多くは七五調で調子よく、物尽くし形式で作られています。「此比(このごろ)都ニハヤル物」で始まり、全八十八句から成ります。一部を紹介しますと。
 「此比都ニハヤル物、夜討強盗謀綸旨(ようちごうとうにせりんじ)、召人早馬虚騒動(めしうどはやうまからそうどう)」
 に始まり、
 「天下一統メツラシヤ、御代(みよ)ニ生レテサマザマノ、事ヲミキクソ不思議共、京童(きょうわらしべ)の口スサミ、十分一ソモラスナリ」
 と結ばれています。また、
「器用ノ堪否沙汰モナク、モルゝ人ナキ決断所」
 と、新政府の役所のいいかげんさを批難したり、
「犬田楽(いぬでんがく)ハ関東ノ、ホロフルモノト云(いい)ナカラ、田楽ハナホハヤル也」
 と、犬田楽は関東ではやっているようだが、いずれ滅(ほろ)ぶものといいながら、それでもなぜかはやっていると、世相を風刺し、さらに、
「京鎌倉ヲコキマセテ、一座ソロハヌエセ連歌、在々所々の歌連歌、点者にナラヌ人ソナキ、譜第非成ノ差別ナク、自由狼藉ノ世界也」
 と、そのころ京都でも関東でも大流行していた連歌(れんが)について、多くはエセにすぎない、とケチをつけているのです。「京童」の口を借りて、建武政府の実態と矛盾を、しっかりと批判しており、なかなかの知識人たちが、寄り集まって作ったものであろうと、考えられています。なお、河原は自由の場ですが、二条河原は、後醍醐天皇の政庁(二条富小路)に近い場所でした。この落書を作り、掲げた知識人たちの思いが伝わってきます。


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 戦国時代を再検討する⑧


守護大名とその限界

 「守護」というのは、鎌倉・室町時代の職名です。はじめは、源頼朝が、源義経と源行家(ゆきいえ)を捕えるために、地頭(じとう)と共に、国ごとに設置したものです。諸国に所領を持つ有力御家人が任命されました。
 職掌は、大番役の御家人の召集、謀反人・殺害人の検断(大犯三箇条(だいぼんさんかじょう))など軍事および警察権を持ち、小規模ながら役料として守護領を有しました。やがて彼らは、鎌倉末期には国内の地頭・御家人を支配し、荘園に侵略するなどして、領主化の方向に進んで行きます。室町時代になると、足利幕府は国ごとに守護職を設置します。守護職たちは次第に領主化していき、やがて彼らが守護大名へと変質していくことになります。
 さらに室町時代、守護職には、前記の「大犯三箇条」のほかに、他人の知行(ちぎょう)の作毛を実力で刈り取ることを取り締まる「刈田狼籍(かりたろうぜき)」と、幕府の判決を執行する「使節遵行(しせつじゅんぎょう)」の二つの職権が加えられます。
 守護大名というのは、将軍足利氏によって任命され、その国の支配を委任された守護のことです。
 南北朝争乱期の過程で、豪族出身の守護の多くは没落していきます。生き残っていくのは、細川・仁木・畠山・斯波(しば)・今川・桃井・一色氏らの足利一門、それに上杉・高(こう)氏ら鎌倉時代以来の被官を中心に、早くから足利尊氏と行動を共にした赤松・土岐・佐々木・山名氏ら少数の外様の家々に、守護国が集積されていきます。
 このような室町時代の守護を、吏僚的な性格の強かった鎌倉時代の守護と区別して、「守護大名」と呼ぶのです。もっともこれは、戦後(第二次世界大戦後)から学術用語として使われるようになったものですが、歴史用語ではありません。
 足利将軍は、守護補任(ぶにん)権を行使して、守護家(守護大名)の内部問題や領国支配に介入し、守護大名を牽制します。また国人領主もしばしば新興の守護大名に抵抗して、その支配を排除しようとしますが、なかなかうまくいきません。守護大名は、幕府の役職を兼ねて、財政面でも幕府を支えていました。有力な守護大名は、「重臣会議」と呼ばれる幕府の政策決定の評議にも参加するようになります。こうした守護大名の幕府政治への関与によって、必然的に守護大名たちは、京都の将軍の御所の周辺に屋敷を構えることになります。45ヵ国の守護21家が御所同辺に屋敷を構え、「二十一屋形」と呼ばれました。
 さて、応仁・文明の乱後、幕府の衰退と共に、守護は独自の領国支配の方向を強めていき、戦国大名に転化することに成功したものも登場してきます。一方で、守護代などが強大化していくなか、没落していく守護大名もしだいに多くなっていきます。幕府と深く結びついたことによって、幕府と運命を共にせざるをえない、ということになったのです。


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 戦国時代を再検討する⑨


朝倉敏景と文明の乱

 応仁の乱(1467)は、武士たちが大きく飛躍する絶好の機会となりました。主家を追い、新たなる支配者となるという下剋上がまかり通っていきます。朝倉敏景は、主君斯波(しば)氏に代わって、ついに越前(福井県)の守護職(しゅごしき)を手に入れました。
 文明3年(1471)5月21日付けで、朝倉敏景あてに、将軍足利義政から守護任命書が発せられたのです。越前の守護となることは、敏景の宿願でした。守護に成り上がった敏景の得意は、想像に余まりあります。敏景はさっそく、居城を黒丸城から一乗ヶ谷に移します。そこに壮大な館と施設を築き、自ら守護を称し、立烏帽子(たてえぼし)・狩衣(かりぎぬ)といったいでたちで、殿上人(でんじょうびと)に治まりかえったのです。ところが、こうした敏景の態度に、在地の武士たちが反発します。彼らはことごとく敏景に背いてしまうのです。
 そうした勢力の中心にあったのが、もともと朝倉氏と敵対関係にあった甲斐氏です。文明3年7月21日、甲斐方による朝倉勢攻撃の火ぶたが切って落とされました。当初朝倉勢は、兵力が少なかったこともあり、一敗を喫してしまいます。しかしその後盛力を盛り返し、甲斐を中心とする西軍と、敏景を中心とする東軍の、越前一国をかけた死闘が繰り広げられていくことになります。
 文明4年(1472)になると、朝倉方が俄然有利になり、3月には甲斐方の有力な武将の甲斐八郎次郎と甲斐八郎が切腹を余儀なくされます。さらに同8月の戦いでも甲斐方は敗れ、隣国の加賀(石川県)に落ち延びました。その後も戦いは続きますが、結局、朝倉方が勝利したのでした。
 名実共に越前の守護になった朝倉敏景は、文明4年8月、全越前の寺社領などに対して、半済(はんぜい)実施を宣言します。半済というのは、寺社本所領・国衛(こくが)領の年貢の半分を武士に与えるというものです。
 しかし、文明5年(1473)になっても、両者のいざこざは止みません。そうした戦いの中にあっても、朝倉氏の越前支配は着々と進み、ついに朝倉一族が越前全土を支配することになったのです。
 やがて、朝倉氏のために領地をことごとく奪われた荘園領主たちや越前の守護職を奪われた斯波氏の一党らが、甲斐氏と連合して朝倉氏に最後の決戦を挑みました。文明11年(1479)閏(うるう)9月3日のことです。戦いは文明13年(1479)にまで及びました。しかし、斯波・甲斐側はついに敗れ、加賀に逃れることになります。しかし文明13年7月26日、朝倉敏景もはれ物をわずらって亡くなってしまいました。
 結局、越前国守護代朝倉、遠江国守護代甲斐、尾張国守護代織田、主人は斯波義廉(しばよしかど)ということで落ち着きます。しかし、実際には、斯波氏の領国は、朝倉・甲斐・織田の三氏によって奪われ、三氏はそれぞれ新しい時代の支配者である戦国大名として天下を競うことになるのです。


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 戦国時代を再検討する⑩


武田信玄と上杉謙信

 お互いに張り合う存在、すなわち好敵手(ライバル)は、日本史上いつの時代においても少なくありません。ライバルがいてこそ、その時代が生き生きと語られることになるといえるでしょう。天智天皇と天武天皇、弓削道鏡(ゆげのどうきょう)と藤原仲麻呂、紫式部と清少納言、源頼朝と平清盛、足利尊氏と新田義貞、山名宗全と細川勝元、淀君と北政所、宮本武蔵と佐々木小次郎、西郷隆盛と大久保利通、福沢諭吉と大隈重信等々、枚挙(まいきょ)にいとまがありません。
 なかで武田信玄と上杉謙信は、史上もっともよく知られたライバルといえます。信州川中島は、両雄の決戦の舞台となったところですが、川中島の八幡原(はちまんばら)と呼ばれる小さな林の中に、「三太刀七太刀」の古碑と、馬上から斬りつける謙信、それを軍配で受ける信玄の像が建てられています。
 川中島とは、千曲川と犀川(さいかわ)の合流点付近一帯をいいます。肥沃な穀倉地帯で、東西交通の要衝(ようしょう)でもありました。この地で、天文22年(1553)から永禄7年(1564)にかけて12年間の間に、信玄と謙信は5度戦ったといわれます。
 信玄が支配していた甲斐国(今の山梨県)は、山に囲まれた小国で貧しい国でした。いっぽう信濃(今の長野県)は、大きく豊かな国でした。信玄は信濃に侵出(しんしゅつ)して行きます。まずは諏訪地方を配下に治め、続いて佐久地方を支配することに成功します。そして、北信濃に軍を進めたのでした。
 いっぽうの謙信は、義の人といわれます。北信濃の支配者であった村上義清が、越後の謙信に援けを求めます。そこで謙信は、侵略者信玄を追い、村上義清を援けるために出陣したというわけです。もっとも謙信は、上杉憲政から上杉の名跡(みょうせき)と関東管領職をゆずられ、関東の地を支配する名分を得ていました。ところが、関東と越後の間には信濃がありました。
 信玄は川中島の近くに海津(かいづ)城を築き、着々と北信濃の支配をすすめていました。謙信は信玄の軍を一掃しない限り、関東へは進めません。
 こうして永禄4年(1561)9月、川中島をめぐって両軍が激突することになったのです。9月10日の早朝、妻女山に陣していた上杉軍は、朝霧にまぎれて山を下り、雨宮(あめのみや)の渡しを徒渉(としょう)して、信玄の本陣を突きました。この戦いで謙信は、萌黄(もえぎ)の胴肩衣(どうかたぎぬ)を着、白布で兜頭をつつみ、月毛の馬を駆って単身武田軍の本陣に斬り込みました。信玄は床几に腰かけたまま、これを待ち受けます。全軍固唾(かたず)を飲んで見守るなか、謙信は、三太刀、七太刀と馬上から信玄に斬りかかり、信玄は鉄の軍配でこれを防いだのでした。『甲陽軍鑑』などに記された、信玄、謙信一騎打の名場面ですが、史実とはいえないでしょう。しかし、戦国史上のライバルを語るとき、欠かせぬエピソードです。


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 戦国時代を再検討する⑪


戦国大名と金銀山

 戦国大名にとって大切なのは、何といっても軍事力です。強大な軍事力を有した者が、他を制することになります。では、どのようにして軍事力を保持することができるのでしょうか。それには、経済力を有することです。
 武器・武具を購うにしても、兵を顧うにしても、必要なのは経済力、イコール金銀です。戦国大名たちは、戦いのいっぽうで、必死に金銀を得るための経済活動をしていました。特産品の交易や銅や鉄の鉱山開発ですが、もっとも手っ取り早いのが、金銀山の開発でした。
 上杉謙信が力を持ったのは、佐渡の金山開発です。佐渡金山は、徳川時代になってからも江戸幕府によって、金銀が採掘され続けました。謙信のライバル武田信玄は、甲斐黒川の金山、さらに信濃や武田領となった駿河の金山などから金を得ました。武田勝頼のときに武田氏が滅びたのは、武田の金山を掘り尽くしてしまったからだという説があります。
 なお、採金は初め、砂金によりました。やがて山金、すなわち岩の中にある金鉱脈を掘るようになります。金鉱を探すのは山師の仕事です。鉱脈が見つかると、金子・掘大工らの坑夫・板取・吹大工などの選鉱製練人ら専業稼働人たちが多数登場してきて、坑道穿鑿(せんさく)の技術も進歩していきます。犬走りと呼ぶ斜坑とともに、水平坑道が併用され、䟽水坑・煙抜坑などの大規模なものが切られていきました。また探鉱法は、鉱脈に直角に切り当てる横相や、方位をたてて掘る寸法切りが行なわれるようになりました。
 16世紀中期から末期にかけて、すなわち戦国時代から安土桃山時代には、越前・加賀・能登・越中の金銀山が開発されます。伊豆の金山は16世紀の後期に開かれますが、17世紀になってからは多量の銀を産出しました。佐渡相川の金銀山は、16世紀末の鶴子銀山の発見に端を発し、慶長6年(1601)に開発され、17世紀前半には、最大の産銀がありました。
 こんな話が伝えられています。
 武田勝頼が、奥秩父山中にあったという金山を閉鎖するときの話です。勝頼は、大きな淵の上の崖上に、巨大な楼閣を造らせました。金山には何百人もの坑夫たちが働いており、遊女町まで造られていました。その坑夫や遊女たちを崖上の楼閣に集め、大宴会を催したのです。閉山する最後の記念にと。そして宴たけなわのとき、楼閣を支えていたすべての綱や支柱を切って、坑人や遊女たちすべてを、崖下の淵に沈めてしまいます。鉱山の秘密を守るために。
 これ以後、淵は「おいらん淵」と呼ばれるようになり、濃い霧の日などには、霧の中から遊女のすすり泣く声が聞こえてくるのだといいます。
 なお、金銀山もいずれは掘り尽くしてしまうことになります。そこで閉山することになるのですが、各地の金銀山跡には、似たような鬼哭啾啾(きこくしゅうしゅう)たる話が、語り伝えられています。もちろん、史実というわけではないでしょうが、濃い霧の日などには、ふとそんな気にさせられます……。


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 戦国時代を再検討する⑫


戦国大名の城と城下町

 城下あるいは城下町というのは、文字通り城郭を中心として成立した都市のことですが、名称として一般化するのは江戸時代になってからです。中世には、領主の居所(居城)の回りに成立した集落や町場を、堀之内・根小屋・山下などと呼びました。
 こうした集落や町場は、戦国大名が、統一した自らの領国を、兵農分離に伴って、直属の武士団および商人や職人らを城の回わりに住まわせることによって、成立しました。見方を変えれば、そのことによって、各大名たちの領国内の政治や商業・交通の中心として、城下町が発展していったのです。
 しかし、戦国時代の城は、基本的には戦いの要塞です。ですから最初は山城、次いで平山城、そして平城というように移行していきます。時代が下るに従って、要塞より領国統治の中心地、すなわち政治経済の中心地になっていったのです。
 戦国時代に形成された、代表的な城と城下町は、大内氏の山口、武田氏の甲斐府中(甲府)、織田氏の安土、豊臣氏の長浜・大坂、また徳川氏の駿河府中(駿府・静岡)などです。それらの城下町の居住者は、武士と僧侶、商人と職人、そして農民も少なからず住んでいました。城下によっては、中心地でも田畑が少なくなかったといいます。
 しかし、兵農分離、また商農分離が進んでいくと、農民が武家奉公人になったり、商人や職人になったりすることが禁じられ、さらに城下に居住している農民は郷村へ帰されてしまいます。こうして城下は、武士と町人すなわち商人・職人の主たる居住地域となり、村落とは異なる地域となるのです。
 たとえば、天正16年(1588年)に伊勢(三重県)の松坂では、武家屋敷と町屋の混住は原則として認めない、という法令を出しています。関ケ原合戦の後、新大名が登場し、元和元年(慶長20年=1615年)潤6月には、一国一城令が定められました。この年は、5月に、大坂城が落城して豊臣秀頼・淀君らが自殺しています。
 さて一国一城令によって多くの小城郭が破却され、大規模な城下町の建設が進んでいきます。寛永時代になると、外様大名(かつての戦国大名)の分地による城下町や陣屋町なども形成されていきます。また、この時期になると、町割が行なわれるようになります。同時に、城郭内の、大名及び武士の居住地と町人の居住地が、木戸とか溝によって区画されて、往来も制限されるようになります。
 仙台(伊達藩)の場合、中級以上の武士の住む町を「丁」、足軽や商人・職人の居住区を「町」と書いて区別しています。同じ「ちょう」ですが、漢字表記することで分けられたのです。また城下の末端に、非差別民の居住区や遊郭などを配置しました。
 なお、戦国時代の城下町は、武士の屋敷地が、住民の半数以上を占めていて、道路は狭く、丁字型とかカギ型になっているところが少なくありませんでした。これは、戦いの際、侵入者の進攻を防げ、弓矢や鉄砲の射通しを難しくするためです。また「ひだ」といって、隣家との間をすこしずらして建て、そのずれたところに身を隠したのだともいいます。松坂や佐賀などに、今もその名残りが残されています。


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