足利義政と銀閣寺
足利義政は、24年間、征夷大将軍職にありました。ほぼ四半世紀の間、武家政権のトップに位置したことになります。しかしその間、義政が将軍として政務を司ることは、ほとんどありませんでした。実権を握って庶政を見たのは、管領の畠山氏や、山名氏などの有力大名、また政所(まんどころ)執事の伊勢氏らです。
応仁・文明の大乱が引き起こされたのも、もとはといえば義政の政治力のなさによるものです。大乱の前後、さらに渦中、義政は何をしていたのでしょうか。応仁の乱が勃発したのは応仁元年(1467)のこと。そのあと文明の乱と続いて、都での乱が一応収まったのは文明9年(1477)のことです。しかし戦乱は次第に地方へと広がっていき、全国的な規模となっていきました。
だが義政はこの間、文明5年(1473)、子の義尚(よしひさ)に将軍職を譲り、引退してしまったのです。義尚はこのとき、数え年で9歳でした。引退してどうしたかというと、京都の東山に山荘を建て、ここに移り住んで東山殿と称されるのです。文明17年(1485)に剃髪し、延徳元年(1489)山荘内に慈照寺を建立しました。その遺構の一部が、今にのこる銀閣です。このことに因み、15世紀後半の文化は「東山文化」といわれます。
足利義政は、政治力はまったくなかったものの、芸術的才能には恵まれていました。宏大な東山山荘の建物の配置、庭園のたたずまいや庭石の位置まで、自ら示指したといいます。ダメ将軍である足利義政が後世に名を残したのは、じつにその文化によってでした。「東山文化」が、日本における文化史の中で、燦然と1ページを画することは、義政にとって望外の喜びであるにちがいありません。
この時代、足利将軍家に近侍した芸能・芸術の者たちを忘れてはなりません。彼らは同朋衆(どうぼうしゅう)と呼ばれ、多くは阿弥(あみ)衆がその任に当たりました。阿弥衆というのは、中世以降、時衆(じしゅう)教団に従属した半僧伴侶で、諸芸に従事した者たちをいいます。猿楽や唐物奉行、書道や茶の湯、立て花などの芸能に関わった者たちです。やがて絵画や連歌(れんが)の宗匠たちも登場する東山文化において、同朋衆の役割は、きわめて大きいものでした。
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