三種の神器と後醍醐帝の最期
三種の神器(じんき)というのは、古代天皇の皇位の印(しるし)として、天皇家に相伝さてきた三種の宝物をいいます。ひとつは八咫鏡(やたのかがみ)、それに草薙剣(くさなぎのつるぎ)、そして八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)です。
咫(た)というのは、尺度を表わす語で、標準的な女性の掌(てのひら)の左右の寸法が一咫(ひとあた)とされます。7〜8センチとして、直径5,60センチの銅鏡ということになります。
掌を広げたときの親指の先から小指の先までという説もあり、これだと約倍の長さになります。そんな巨大な鏡があったはずはありません。「八」は、ただ単に大きいと意味にも使われますので、八咫の鏡は、大きな銅鏡という意だと思われます。なお、これまで発見されている銅鏡で最大のものは、文化庁所蔵の内行花文八葉鏡(ないこうかもんはちようきょう)で直径46.5センチです。
草薙剣は、神話によれば、はじめ素戔嗚尊(すさのおのみこと)が八岐大蛇(やまたのおろち)の尾の中から発見し、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)と呼ばれましたが、日本武尊(やまとたけるのみこと)がこの剣で草を薙(な)いで火難から逃れたことによって、草薙剣と呼ばれるようになったものです。
八坂瓊曲玉は、八尺もある大きな曲玉の意です。八坂は八尺で、瓊は玉(ぎょく)のこと、曲玉は人の胎児の形をした曲がった玉で頭の部分に穴が開けられています。おそらく紐を通して装飾に使用したものと思われます。しかし、硬い玉やヒスイの曲玉に、どのようにして小さな穴を開けたのかは、判っていません。なお八尺という大きさは、曲玉一個の大きさではなく、紐で繋び合わせた長さであろうと思われます。おそらく、曲玉一個を所有していても権力や権威の象徴になったと思われますので、八坂瓊ということになれば、巨大な力を持つ者が所有したと思われます。
さて、後醍醐天皇は、三年間吉野の山中に潜入します。しかしやがて「事問はん 人さへ稀(まれ)に なりにけり 我世の末の 程ぞ知らるる」(後醍醐天皇。『新葉和歌集』)という状況になります。それでもなお、後醍醐天皇は死に臨んでなお、「玉骨(ぎょっこつ)はたとへ南山(なんざん。吉野山のこと)の苔(こけ)に埋まるとも魂魄(こんぱく)はつねに北闕(ほっけつ。京の都のこと)の天を望まん」(『太平記』)という気概を持ち続けていたといいます。後醍醐帝の矜持(きょうじ)の原点が、三種の神器にあったことは、いうまでもありません。
ともあれ、南朝の延元4年(北朝の暦応2年=1339年)8月16日、後醍醐天皇は帰らぬ人となりました。53歳、病没でした。
後醍醐帝が亡くなったとはいえ、南朝が滅んだわけではありません。南北朝が合一されるまでには、まだ半世紀という時が必要です。しかし歴史は、京都室町に幕府を開いた足利氏を中心に推移していきます。足利尊氏は、後醍醐天皇の菩提を弔うため、京都の嵯峨に巨大な寺院を建立します。天竜寺です。さて次回は、その天竜寺の歴史を見てみたいと思います……。
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