源頼朝急死の謎
源頼朝は、日本史上きわめて重要な人物です。源平合戦を勝ち抜いた頼朝は、古代以来の奈良・京都を中心とした朝廷・貴族政治に終止符を打ち、史上はじめて東国の鎌倉に幕府を開きました。武家政権はその後、徳川幕府が倒れて明治の世を迎えるまで約700年間つづきます。まさに頼朝は、新しい時代を拓いた特筆すべき大英雄の一人なのです。しかしその割に、人気は高くありません。それは、源義経の敵役となってしまったからです。
義経はたぐいまれな武人であり、源平合戦で大活躍しましたが、頼朝と対立して奥州に逃げ、悲劇的な最期をとげました。そのため義経は、物語や浄瑠璃などの主人公となり、圧倒的な人気を得て、まさに国民的英雄となりました。いっぽう頼朝は、憎まれ役を演じさせられることになってしまったのです。
頼朝は久安3年(1147)、源義朝の三男として生まれました。母は藤原季範(すえのり)の娘。おそらく京都で生まれ育ったものと思われます。13歳のとき、父頼朝は平治の乱(1159)に敗れ、東国に逃げようとしますが、捕えられ殺されてしまいます。頼朝も捕えられ、14歳から34歳までの20年間、伊豆の蛭ヶ小島(ひるがおじま。現在の静岡県伊豆の国市)で流人として生活します。
しかしこの流人生活が、のちの頼朝に大きなプラスになります。北条政子と知り合い、結婚することになったからです。政子の父北条時政は、伊豆の有力な豪族で平家の一門であり、頼朝の監視役でした。しかし、政子が頼朝を好きになってしまったので、やむなく時政は、頼朝の挙兵を助けることになります。時政が関東の有力な武将たちを必死で説得し味方に引き入れた結果がいかに大きかったかは、その後の歴史が証明しています。
その頼朝が没したのは建久10年(1199=正治元年)1月13日のこと、53歳でした。しかしその死には疑問が残ります。『吾妻鏡』によれば、前年の建久9年末に、相模川に架けられた橋の落成記念に出席した頼朝が、帰路に落馬し、それが原因で亡くなったといいます。しかし『吾妻鏡』には、落馬の理由や、それから死に至るまでの記述が、なぜかありません。そこで後世、暗殺説などがささやかれることになったのです。
頼朝と妻の北条政子の関係は、必ずしも円満ではありません。頼朝の浮気をめぐるゴタゴタ、娘の大姫をめぐるいさかい、静御前の舞いをめぐるけんかなど、夫婦仲が良いとはいえなかった話が、物語などにも多々出てきます。また、その後の歴史の流れを見ますと、源氏が滅び北条氏が100年以上にわたって実質的に天下を掌握しています。頼朝の死が、北条氏に有利に働いたのは事実です。だから、北条氏による暗殺というのは、短絡的にすぎるとは思います……が。
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