行列をつくって富士登山
今年、7月〜8月の山開きの期間中、30万人を超える人たちが富士山に登ったといいます。毎日平均5千人もの人が山頂に立ったわけで驚きです。登山道はどれも連日長蛇の列。
この富士登山ブームは、富士山が世界遺産となったからというわけではありません。確かに例年より5割ほど登山者が増えましたが、長蛇の列は、何と江戸時代からです。江戸っ子たちが、我も我もと富士山に登っていたのです。
日本人は山登りが大好きで、昔から多くの人が各地の山に登っていました。ことに江戸時代は空前の登山ブームで、富士山をはじめ立山や白山、木曽の御嶽山などの高山から各地の低山まで、名山といわれる山には、シーズン(夏山)になると登山者の列ができました。
江戸時代中期の宝永4年(1707)11月23日、富士山が大爆発しました。宝永山ができたほどの大噴火でしたが、何と約半年後の宝永5年6月1日(旧暦)の山開きには、多くの人たちが富士山に登ります。突貫工事で登山道を復活させ、山開きに間に合わせたからです。江戸っ子たちは、噴火が鎮まって静寂を取り戻した富士山が、少なくとも何十年かは安全であることを知っていました。噴火が収まったとなれば、登ってみたいと思うのは人情です。
登山者の多くは講に属し、先達に率いられて登りました。神社仏閣に詣でるため、また各地の名山に登るための講社は数多く、社寺参詣で最も多かったのが伊勢講、山では富士講です。富士講は江戸市中だけで、俗に八百八講といわれたほどです。
ところで、富士山の頂上には浅間神社の奥宮が鎮座しています。皆さん、富士山は大昔から「神の山」だったと思っていませんか。じつは、江戸時代まで、日本の名山はほとんど例外なく、神仏習合による山岳宗教の場でした。富士山も例外ではなく、大日寺(大日堂)と浅間宮が一体となった一大山岳宗教の山で、山頂にあったのは大日寺の奥の院です。
大日寺が廃されて、山頂の仏像も取り払われ、山麓の各登山口にあった大日堂や諸坊も壊され、仁王門や護摩堂や鐘楼などが取り除かれて浅間神社となったのは、明治になってから、明治新政府による神仏判然令(神仏分離)によるものです。明治7年には、富士山中の仏教的な地名もすべて改称されてしまい(たとえば山頂の文殊ヶ岳が三島ヶ岳というように)、現在に至っています。
世界文化遺産となったのに、こうした重要な歴史の記憶が語られないのは、おかしいと思いませんか・・・。
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