ちはやぶる日本史



プロローグ

 私たちは過去から未来に向かって、今という時を生きています。ただ漠然と生きているわけではなく、よりよき未来を求めて考えながら歩いています。ですけれど、未来を考えるためには、今を知ることが必要です。そして、今を知るためには過去すなわち歴史を知らなければなりません。今という時は、先人たちが営々と築いてきた、そして今も築き続けている歴史の上に成り立っているからです。
 「歴史を知らずして今を語ることなかれ。今を判らずして未来を語ることなかれ」
 です。
 それでは、今を知るために、そして未来を語るために歴史の森へ分け入ってみることにしましょう。とはいえ、これから語ろうとするのは、小むずかしい学術的な歴史ではありません。教科書などで語られる歴史とは一味ちがった「へえー。そうなの」という、おもしろく興味深い話です。どうぞ気軽におつき合いください。
高橋ちはや

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高橋千劔破
(たかはし・ちはや)

 1943年東京生まれ。立教大学日本文学科卒業後、人物往来社入社。 月刊『歴史読本』編集長、同社取締役編集局長を経て、執筆活動に入る。 2001年、『花鳥風月の日本史』(河出文庫)で尾崎秀樹記念「大衆文学研究賞」受賞。 著書に『歴史を動かした女たち』『歴史を動かした男たち』(中公文庫)、 『江戸の旅人』(集英社文庫)、『名山の日本史』『名山の文化史』『名山の民族史』 『江戸の食彩 春夏秋冬』(河出書房新社)など多数。日本ペンクラブ副会長、 日本文藝家協会理事。



『古代編』全10回

『江戸と江戸っ子編』全8回

『源平時代編』全8回

『鎌倉時代編』全6回

『太平記と南北朝時代編』全6回

『南北朝争乱期から室町時代へ編』全7回

『室町時代から戦国時代へ編 I 』全7回

『室町時代から戦国時代へⅡ東山文化と民衆文化編』全8回

『戦国時代を再検討する』全12回

『戦国の合戦』全11回


『江戸時代を再検討するⅠ』全12回


 江戸時代を再検討する Ⅱ ①


江戸・大坂の海運に携わった菱垣廻船

 江戸時代、多くの物資が海運によって江戸・大坂間を往き来しました。陸路で馬や荷車で運んだのでは、山坂道も多く、いくらも運べません。ですが船であれば大量の物資を運ぶことができました。その海運に、樽廻船(たるかいせん)と共に活躍したのが、菱垣(ひがき)廻船です。
 通称「千石船」と呼ばれた弁才船(べざいせん)で、大和型帆船です。なお弁才船は、中世末期に瀬戸内海で使われ出した輸送船の一船型。弁財船とも書きます。江戸時代の中期以後、海運隆盛時の主要廻船として、全国的に活躍しました。なお「ベザイ」の意味は不明です。五百石積以下の中小型船でしたが、17世紀末には四角帆一枚の主航と船首の弥帆(やほ)という小帆一枚の伝統的帆装ながら、逆風帆走も可能な帆走専用船化に成功して人力航海を不用とさせ、他の型の船より優位に立ちました。
 18世紀には、さらに改良が加えられ、航海の迅速化、船組員の削減、大型船化という海運業の能率改善に大きく貢献しました。そのため、最も経済性の高い廻船として、建造技術が全国的な普及をみました。小はローカル用の百石積級から、大は長距離幹線航路用の2千石積に及び、俗称「千石船」と呼ばれました。この場合の「千石」は石高ではなく、大型の意です。
 さて、樽廻船と共に、江戸と大坂間の海運の主力となった菱垣廻船について述べることにしましょう。
 菱垣廻船は、菱垣廻船問屋仕立ての廻船で、その名は、廻船の玄側(げんそく)の垣立(かきだつ)の下部を菱組の格子で装飾したことに由来します。一見して、菱垣廻船問屋仲間の船であることが判りました。
 菱垣廻船の始まりは、江戸時代初期の元和五年(1619)、泉州堺の商人が、紀州富田浦より250石積の廻船を借り受け、大坂より江戸へ日常物資を積み送ったことに由来します。この後、寛永元年(1624)には、大坂北浜の泉屋平右衛門が江戸積船問屋を開業し、寛永4年に「毛馬屋」「富田屋」「大津屋」「顕屋(あらや)」「塩屋」の5軒が、同じく江戸積船問屋を始めるにいたって、大坂の菱垣廻船問屋が成立しました。この廻船問屋によって、菱垣廻船が仕立てられたのです。
 こうして江戸、大坂間の海運が盛んになり、元禄7年(1694)に江戸の菱垣廻船積合荷主が協議して江戸十組(とくみ)問屋を結成、廻船はその共同所有となりました。同時に十組問屋は、菱垣廻船問屋運航の差配機関となりました。しかし、享保15年(1730)に、十組問屋の仲間から「酒問屋(さかどいや)」が脱退、酒荷専用の樽廻船を独自に運航させました。しかも、その樽廻船は、迅速性、安全性に勝り、低運賃であったことから、菱垣積荷物から樽廻船への洩積(もれづみ)が起こり、菱垣・樽間の紛争が続くことになります。
 洩積によって弱体化した菱垣廻船を強化するため、菱垣廻船積仲間を結成、商品流通の独占強化をはかりましたが、天保改革によって、菱垣・樽両廻船に自由に積み込まれるようになり、以後菱垣廻船は樽廻船に圧倒されて幕末に到るのです。


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 江戸時代を再検討する Ⅱ ②


二代将軍秀忠と娘和子の入内

 江戸幕府の第2代将軍徳川秀忠は、戦国時代真盛りの天正7年(1579年)4月7日、遠江(とおとうみ=現在の静岡県西部)の浜松城に、徳川家康の3男として生まれました。
 その3男が、なぜ徳川家を継ぎ幕府の総帥になったのでしょうか。長兄の信康が自害させられ、次兄の秀康が、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)の養子となったからです。秀康はその後、結城(ゆうき)氏を継ぎ、関ヶ原の戦いでの活躍によって、越前国福井藩67万石の藩主となりました。
 さて、秀忠について語ることにします。天正18年(1590年)正月、秀忠は上洛して秀吉に拝謁(はいえつ)し、秀吉の偏諱(へんい)を受けて「秀忠」と名乗り、元服して従四位下侍従(じゅしいげじじゅう)に叙任されます。まだ11歳の少年です。とはいえ、同19年には正四位下(しょうしいげ)少将を経て参議兼右近衛中将(うこのえのごんのちゅうじょう)となり、翌、天正20年(1592年=12月に文禄と改元)には、従三位(じゅさんみ)権中納言に昇進するのです。まだ、満13歳です。本人は何が何だか解らなかったでしょう。
 慶長5年(1600年)、21歳になった秀忠は父家康に従って、会津の上杉景勝を攻撃するために、先鋒として東北へと向います。これは、石田三成を挙兵させるための罠(わな)でした。案の定、三成は徳川軍の留守を狙って挙兵します。下野国小山(しもつけのくにおやま)で、その報に接した秀忠は、父家康と共に直ちに兵を返して西上します。家康は東海道を、秀忠は東山道をとりますが、8月、秀忠軍は真田昌幸の軍勢に進路を阻まれてしまいます。そのため秀忠は、真田軍を信州上田城に攻めますが、時間を空費し、関ヶ原の戦いには間に合わなかったのです。駆けつけたときには、戦いは終わっていました。秀忠は家康の勘気をこうむりますが、諸将の取りなしで、何とか赦(ゆる)されたのでした。
 こうしたことがあったとはいえ、秀忠は今や、まぎれもない徳川家の後継者です。慶長8年(1603年)2月、家康が征夷大将軍に任じられると、秀忠は右近衛大将(うこのえのたいしょう)となり、自らの娘 千姫を、秀吉の遺児豊臣秀頼に入輿(にゅうよ)させます。秀忠は3月21日入洛しますが、率いた軍勢は10万を超えていました。
 入洛して間もない4月16日、秀忠は徳川氏第二代征夷大将軍に任じられ、同11年9月には、新営がなった江戸城に入城したのでした。とはいえ、この後10年以上にわたって、実質は大御所家康が実権を握り幕府を支配します。諸大名の多くはこれに従いますが、大坂城には依然として豊臣秀頼が君臨していました。形の上では秀忠の娘婿ですが、徳川氏にとっては、秀忠がまぎれもなく滅ぼしてしかるべき存在でした。
 そして、慶長19年から翌、元和元年にかけての大坂冬・夏の陣で、ついに秀頼を自害させて豊臣氏を滅ぼし、元和2年(1616年)に家康が没してからの後は、まぎれもない主権者となりました。
 元和6年、秀忠は自らの娘和子(かずこ、あるいは「まさこ」とも)を後水尾(ごみずのお)天皇に入内(じゅだい)させ、後水尾を退位させると、和子の生んだ孫娘を即位させます。明正(めいしょう)天皇です。元和9年、秀忠は家光に将軍職を譲り大御所となりましたが、なお実権を握り続けました。秀忠は、家康を除けば最も強大な将軍であったのです。


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 江戸時代を再検討する Ⅱ ③


幕府、キリシタン多数を処刑

 キリスト教が日本に伝えられたのは、戦国時代真盛りの天文18年(1549)のことです。イスパニア(スぺイン)の宣教師フランシスコ・ザビエルによるものでした。
 戦国の三大英雄・信長・秀吉・家康によるキリシタン(キリスト教及びキリスト教徒)政策には、それぞれに特徴があります。
 信長はキリシタンを保護しますが、それは、信仰心の故ではありません。本願寺教団と長期にわたって戦っていたので、敵対する仏教勢力との対抗上、キリスト教を保護したのです。いっぽう、信長の後継者である秀吉は、サン・フェリッペ号事件を契機にキリスト教を大弾圧しました。
 サン・フェリッペ号事件とは、慶長元年(1596)に、遭難して神戸に入港した同船を、秀吉が没収した事件のことです。秀吉は増田(ました)長盛に命じて、同船の積荷及び所持金のいっさいを没収しました。さらに、その時の水先案内人のちょっとした失言から、キリスト教は日本国土征服の手段であるとして、秀吉のキリスト教への弾圧が始まったとされています。秀吉はこのとき長崎で信徒を処刑しましたが、現在もその跡地に記念碑がのこされています。二十六聖人の殉教碑です。
 家康は、幕府の基礎を固め海外諸国との和平交渉を進めるために、当初はその信仰を容認し、宣教師を利用したりもしました。そのため、フランシスコ会をはじめ、布教活動が活発となり、教線は関東から東北地方へと伸びていきました。いっぽう慶長5年、オランダ船のリーフデ号が漂着したことによって、プロテスタントの国であるオランダ、イギリスとの交渉が始まりました。家康の寵愛を受けたイギリス人のウィリアム・アダムス(三浦按針=みうらあんじん)はよく知られています。
 彼によるスペイン、ポルトガルへの中傷、特に、宣教師がカトリックの国々の国土侵略政策の一役を荷ない、信徒を煽動して反乱を起こさせることを謀んでいる、という示唆は、幕府に大きな危惧を与えました。
 幕府は、禁教令を出してキリスト教を禁ずるのですが、宣教師や信徒に対する圧迫・迫害は、江戸、京都をはじめ全国に及びました。
 各地の教会が破壊され、宣教師たちは長崎に集められて、マカオやマニラに追放されてしまいます。いわゆる「大追放」です。このとき、高山右近や内藤如安(じょあん)も、マニラに追放されました。遠藤周作の名作『沈黙』の背景をなす時代です。しかし、大追放にもかかわらず、国内に潜伏する宣教師は跡を断ちませんでした。
 幕府は、「五人組」の制度を設けて互いに監視させ、懸賞金制度をつくり、宣教師や信徒を密告させました。元和8年(1622)には、長崎で、イエズス会のカルロ・スピノラ以下55人の宣教師と信徒を処刑しています。
 三代将軍家光のころになると、禁教方針はさらに厳しくなり、やがて「島原の乱」が起こることになります。結局、幕府によるキリシタン断圧は、幕末まで続くことになります。さらに明治新政府も、これを受け継いでいきますが、諸外国から非難を受け、明治6年(1873)になって、やっと信教の自由が認められたのでした。


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 江戸時代を再検討する Ⅱ ④


紫衣事件により沢庵和尚ら流刑

 吉川英治の名作『宮本武蔵』は、あばれん坊の少年武蔵(たけぞう)を、沢庵(たくあん)和尚が懲(こ)らしめるところから始まります。こうした話は、もちろんフィクションですが、武蔵も沢庵も、れっきとした歴史上の重要人物です。
 武蔵は、兵法「二天一流」の創始者であり、兵法書であると同時に哲学書でもある『五輪書』の作者で、さらに国の重要文化財に指定されている絵画三点の絵師でもあります。そして沢庵は、紫衣(しえ)事件で徳川幕府と真向からやり合った気骨の名僧です。紫衣というのは、読んで字のごとく紫の衣のことですが、勅許を得た高僧しか着ることができません。
 江戸時代の初期、その紫衣の勅許にからんで起こったのが紫衣事件です。
 寛永4年(1627)7月、宗教統制を明確にするため、徳川幕府は、重鎮である土井利勝、板倉重宗、金地院崇伝(こんちいん すうでん)の3人が相談して、5ヵ条の制禁を出します。その制禁とは、禅僧で元和元年(1615)以後に紫衣の勅許を受けた者に対して、これを取り消すなどとしたもので、彼らは「勅許紫衣之法度(ちょっきょしえのはっと)」や「禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)」に違反しているというものです。つまり、朝廷が出した紫衣の勅許に対して、幕府が異議を申し立ててこれを取り消すと通達したのです。
 ですが、寺院の側も負けてはいません。この通達によって、より大きな影響をこうむったのが大徳寺と妙心寺ですが、翌春、沢庵(たくあん)和尚ら大徳寺の強硬派の僧たちが、幕府に抗議文を送ります。かなり激しい内容で、起草したのは沢庵です。その内容は、「大徳寺法度」「妙心寺法度」の第2条に、「参禅修行就善知識三十年費綿密工夫、千七百則話題了畢之上」すなわち30年に及ぶ修行や1700の規則を暗記せよなどというのは現実的ではない、というのです。いっぽう幕府側も、正式に入院の儀を経た者や50歳以上の者の綸旨(りんじ)は許可するなど、既成の事実をある程度まで認め、その代わりに詫状(わびじょう)の提出を求めました。詫状の文案は、あらかじめ幕府が作ったものです。
 ともあれ多くは、詫状を提出して幕府の意に従うのですが、沢庵をはじめ何名かの僧は、なおも従いません。抗議のために元和6年閏(うるう)2月、江戸に下ります。幕府では、この問題に対して、崇伝は厳罰を主張し、天海は軽い処分を主張しました。結局、大徳寺・妙心寺の僧4名は、東北地方に配流(はいる)されることになります。沢庵は、出羽国上山の土岐(とき)氏に預けられましたが、同9年7月に天海の努力によって赦され、江戸に帰ります。しかし、11年9月まで、京には入れませんでした。
 こののち沢庵は、徳川家光の信任を得て、毎年江戸に参上し、紫衣勅許の制限も、緩和されることになるのです。


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 江戸時代を再検討する Ⅱ ⑤


山田長政シャムで毒殺される

 山田長政は、江戸時代の前期、シャム(今のタイ)に渡って活躍した日本人です。そのころ、シャムの都(みやこ)アユタヤ(アユチヤ)には日本人町があって、多くの日本人が在住していました。海外雄飛を試みた日本人が少なからずいたのです。
 長政の出身地は駿河国(するがのくに=静岡県)です。若いころは仁左衛門(にざえもん)といい、一時は沼津城主である大久保治右衛門忠佐(ただすけ)の駕籠舁(かごかき)をしていたといいます。
 しかし駕籠舁は一時のアルバイト、あるいは沼津城主とのコネを得るためだったかも知れません。このころから長政は、海外雄飛を夢見ていたと思われます。誰から、どのようにして海外の知識を身につけたのか判りませんが、当時、海外へ出て一旗挙げようという若者が、少なからずいたものと思われます。
 彼は慶長16年(1611)ごろ、朱印船に乗ってシャムに渡り、アユタヤの日本人町を訪れます。その当時日本人町には、千人以上の日本人が住んでいました。その中で長政は、次第に頭角を現していきます。そのころ、日本人町の長(おさ)として町を束(たば)ねていたのは、城井久右衛門という人物です。久右衛門は、シャムの政府にも重んじられていました。
 長政は、その久右衛門に認められて、港務長から日本人町の長へと、転身していきます。シャムの国使が日本に来朝することになったとき、長政は部下を派遣して、国交親善につとめました。
 長政は、シャムの国王ソンタムの信任を得て、オヤ・セナピモクという、シャム国最高の官位を得ることになります。
 また長政は、日本やマラッカ(マレー半島の南西部に位置した港湾都市)などとの貿易にも従事していました。
 1628年(寛永5年)、ソンタム王が死去しました。すると王位継承をめぐって、争いが起こります。王の弟の派閥と、王子の派閥が争うのです。長政は王子派として、この争いに勝利しました。そして、王子を新たなるシャムの国王に擁立するのです。もちろん、新国王の最も有力なバックボーンが、山田長政です。
 しかし長政は王子派の一族ではありませんから、自らが国王となることはできません。あくまでも王子派を支える有力な外人部隊の司令長官にすぎないということになります。
 とはいえ、その長政が強大な力を持って、王子派の動向を左右していたのです。王子派の中に、そうした長政に対して、不平や不満を持った者がいたとしても、おかしくありません。王子派の実力者で王族の一であったオヤ・カラホムもその一人です。彼は、王位も伺っていました。
 そこで、長政を南方のリゴール(六毘)の総督に任命して、中央から遠ざけてしまいます。リゴールは、隣国のパタニ王国と紛争中でした。長政は、パタニからの侵入軍との戦闘中、足を負傷します。このとき治療したのが、オヤ・カラホムの密命を受けたシャム人で、彼は長政の傷口に毒薬を塗るのです。このため長政は1630年(寛永7年)、死去しました。40歳前後でしたでしょうか。


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 江戸時代を再検討する Ⅱ ⑥


外様大名に参勤交代を命ずる

 参勤交代とは、江戸時代、各大名が隔年ごとに江戸に参勤する制度をいいます。参観交替とも書き、寛永12年6月21日の『武家諸法度』第2条に、「大名小名在江戸交替所相定也、毎歳夏四月中可致参勤」と定められ、正式に制度化されました。
 それ以前、織豊政権下では、織田信長は服属した大名を、岐阜域・安土城に参勤させました。豊臣秀吉は、大坂城・聚楽第(じゅらくだい・じゅらくてい)・伏見城の周辺に諸大名の邸宅を置き、その領国との間を往復させました。また秀吉は、大名の妻子の在京・諸家臣とその妻子が城下に集中することを、全国的規模で強制して、参勤交代制の雛形を作ったのです。
 しかし、すべての大名家が参勤交代したわけではありません。御三家(水戸・尾張・紀伊の徳川家。家康の9・10・11男を藩祖として成立した、大名家のうちで最も格の高い藩)のうちで水戸徳川家は江戸に常住していました。すなわち定府(じょうふ)大名です。参勤交代する必要はありません。また老中・若年寄・奉行なども定府大名でした。
 いっぽう、対馬(つしま)の宗(そう)氏は三年に一勤、蝦夷地(北海道)の松前氏は六年に一勤でした。いうまでもなく、あまりにも遠隔地だからです。
 また、参勤交代を義務づけられたのは、大名だけではありません。交代寄合である旗本三十余家(表札衆・那須衆・美濃衆・三河衆など)も参勤交代をしなければなりませんでした。交代寄合というのは、3千石以上の無役の旗本で、参勤交代をするものたちをいいます。
 享保7年(1722)、幕府は財政窮乏を打開するために、各大名から石高1万石につき百石の上米(あげまい)を徴収します。その代わりに、在府期間を短縮しました。しかしこれは、参勤交代制の根幹にふれる対策でしたので、間もなく旧に復することになります。
 幕末になりますと、内外の情勢が緊迫化します。そこで、文化2年(1862)には、一橋慶喜(よしのぶ)や松平慶永(よしなが。春嶽=しゅんがく)らによる幕府改革で、大名は3年に1年、または100日の在府。また、その妻や嫡子は、在府・在国自由となりました。それまで大名の妻子が江戸定住を強いられたものは、人質の意味もあったからです。
 しかし、こうした大名政策は、幕府の大名統制力の低下によるものにほかならず、結局、幕末の倒壊を早めただけに終わったのでした。
 本来、参勤交代の制度は、幕府体制による幕府の政治的基幹として、諸大名の地方割拠の形勢を抑制して中央集権の実をあげるのに、絶大な効果があったのです。いっぽう諸大名は、江戸と領国との二重生活によって、繁忙と経済的窮乏に苦しむことになります。とくに遠隔地の外様大名は、多大な負担を強いられてきました。
 ですが、水陸交通の整備、宿場町などの発展、江戸文化の地方伝播・庶民文化の発達等、プラス面も少なくありませんでした。


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 江戸時代を再検討する Ⅱ ⑦


天草の乱とキリシタン禁制

 江戸時代初期の寛永14年(1637年)から翌年にかけて、肥前国(熊本県)と、同唐津藩の飛地肥後国(同)天草の地で、大規模な百姓一揆が起こりました。
 一揆勢の首領は天草(益田)四郎時貞。まだ十代半ばの少年でした。キリシタン一揆とされますが、宗教的な意味合いは濃くありません。たしかに、一揆勢の多くはキリシタンでしたが、教義をめぐる争いが一揆に発展したわけではありません。当初、一揆勢の要求は、あくまでも重税に対する抗議と、年貢減免等を求めた百姓一揆でした。天草の乱として知られますが、歴史用語としては「島原の乱」です。
 寛永14年の10月25日、一揆は島原半島南部に端を発し、翌日には島原城を攻めます。あわや落城というほどの猛攻でした。島原藩では、藩主松倉勝家が参府中(参勤交代で江戸詰め中)でした。ともあれ島原藩では、藩主に急使を出すと共に、近隣諸藩に救援を求めました。しかし諸藩は、幕府の指示を待って動きませんでした。一揆勢は、つぎつぎに寺社を焼き、27日には島原城を猛攻したのです。一揆は島原藩全域に拡大していきました。
 このころ、天草でも益田四郎(天草四郎)の出身地大矢野島を中心に一揆軍が蜂起し、島原勢と合流します。3~4千人となった彼らは、本渡(ほんど)での戦いで富岡城代の三宅藤兵衛重利を敗死させ、さらに天草地方のほぼ全域を一揆に巻き込んで、11月19日から4日間、富岡城を攻撃するのです。しかし、落城寸前まで追い込んだのにもかかわらず、ついに本丸を抜くことができずに、撤退を余儀なくされたのでした。
 一揆の報が江戸にもたらされると、幕府は、キリシタン一揆として、事態を重視します。そこで幕府老中の板倉重昌(しげまさ)を上使として、佐賀・久留米・柳河の三藩に出動を命じ、重昌も島原に赴くのです。さらに幕府は、重ねて上使として、老中の松平信綱を派遣します。これを知った板倉重昌は、信綱の到着前に何とか一揆を平定しようと、寛永15年1月1日、強引な総攻撃を命じ、自らも戦場に赴いて、討死してしまうのです。
 いっぽう一揆勢は、2万数千人。といっても、老若男女合わせての人数です。
 1月4日、松平信綱は着陣すると、戦術を変えます。無理攻めをせずに、兵糧攻めに転ずるのです。その間、投降勧告、オランダ商館による砲撃、金掘役を使った爆破計画などで、一揆勢を揺さぶり続けます。そしてついに、2月28日・29日の総攻撃で一揆勢を破ります。幕府側に寝返った絵師の山田右衛門作(えもさく)一人を除いて、一揆勢は全員が殺されました。
 1990年ごろの秋、遠藤周作さんと一揆勢が籠った原城跡を訪ねたことがあります。城跡には大きな穴がありました。「ここに籠っとんたんや」遠藤さんはいいます。「真冬に着るものものなく、ここで皆が肩を寄せ合っとんやろな」「それにしても、オシッコやウンチはどうしたんやろ」籠城戦では、いつもそのことが気になるといいます。あまりにも日常的なことだから、記録には残りません。しかし廃城となっていた原城に籠った一揆勢は2万7千7百数十人といいます。毎日の排泄物だけでも、厖大な量であったに違いありません。戦いの勝ち敗けや、戦術・戦略ではなく、最も人間的な日常を思う遠藤さんに、教えられたことを思い出します。
 ともあれ幕府は、この後、禁教を強化し、農民統制を強め、ポルトガルとの貿易禁止に踏み切って、鎖国へと向かっていくことになるのです。


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 江戸時代を再検討する Ⅱ ⑧


キリスト教を禁じて鎖国する

 江戸幕府における鎖国は、オランダ人を長崎の出島(でじま)に強制移住させた、寛永18年(1641)に始まりました。その後、安政元年(1854)に米国のペリーが来航し、日米和親条約が調印されて開国するまで、200年余の間、日本は鎖国していました。
 とはいえ、その間日本が世界から、まったく孤立していたというわけではありません。出島にはオランダの商館があり、少なからずヨーロッパの文物や情報が、幕府にもたらされていました。また、朝鮮とは国交が開かれており、中国とは交易がつづけられていました。
 幕府の草創期、家康は積極的に海外諸国との交易を推進します。しかし、宗教すなわちキリスト教の布教に関しては、取締まりを強化するのです。これは、家康の政治顧問であった金地院崇伝と天海が、共に仏僧であったことと関係が深いと思われます。
 慶長18年(1613)12月、すでに将軍は、2代秀忠となっていましたが、依然実権は家康が握っていました。家康はキリシタン禁教令を発布して、全国的にキリスト教徒の取締まりに着手するのです。
 そして、家康が75歳で没した元和2年(1616)、2代将軍秀忠によって、家康以来の懸案であるキリシタン禁教令が発布されたのです。同時に、ヨーロッパとの商取引き地は、平戸・長崎の両港に限定されました。それまで自由であった国内での商取引きは、一切禁止されたのです。
 やがて3代将軍家光の代になり、いよいよ鎖国は加速されて、ついに寛永16年(1639)7月5日、17カ条の条文をもって、鎖国政策は完成しました。寛永10年から5段階にわたって鎖国令は発せられるのですが、その条文はほぼ似通っています。大まかに要約しますと、以下の通りです。
 第1条から3条までは、日本人の海外往来の禁止、第4条から8条までは、キリスト教の禁止および伴天連(バテレン)追放令、9条以下は、外国船との貿易取締まりの規定です。また寛永12年の令では、日本船の海外渡航と、海外在住の日本人の帰朝を絶対無条件で禁ずるのです。同13年の9月には、ポルトガル人やその混血児など287人をマカオに追放します。
 さらに寛永16年になると、それまでおとがめのなかったオランダ人や中国人に対しても、その居住地に制限を加えるなど断圧をします。この取締りに基づいて日本在住のオランダ人やその混血児など30数人がジャカルタに追放されました。その中にいたジャガタラお春の話は、よく知られています。ともあれ天文以来1世紀つづいたポルトガル船との交易は、こうして完全に禁止されたのでした。
 しかしオランダは、日本の対ヨーロッパ貿易の独占に成功し、中国も長崎を通じて交易していました。ですが、キリスト教を媒介として導入されかけたヨーロッパの合理的精神の芽はつみ取られ、中国からの漢籍の輸入も厳しく制限されてしまいます。鎖国は、結局前後215年にわたって続きましたが、そのために失なったものは少なくありません。また逆に日本独特の江戸時代の文化の発展をうながしたことも事実です。


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 江戸時代を再検討する Ⅱ ⑨


ポルトガル船を禁じ鎖国を完成

 ポルトガル船が種子島(たねがしま)に来航したのは、戦国時代真っ盛りの天文12年(1543年)のことでした。ヨーロッパでは、コペルニクスが地動説を発表した年です。
 6年後の天文18年、フランシスコ・ザビエルが鹿児島に来航して、日本にキリスト教が伝来します。
 織田信長は、宣教師によってもたらされた知識や文物に、大いに興味を示します。また地球儀を見て、並いる日本人は理解できませんが、信長だけは、地球が丸いということを理解したといいます。信長こそは、唐(から=中国)、天竺(てんじく=インド)、そして日本以外の新しい世界と文化の存在を認識した最初の為政者でした。
 豊臣秀吉は、当初こそ信長のやり方を継承しますが、天正15年(1587年)6月、九州を平定すると、5ヵ条からなるキリスト教禁教令(伴天連追放令)を発し、さらに宣教師の追放令を出します。キリシタン信徒たちが、神社仏閣を破壊したりした行為を非難し、キリスト教を「邪法」として、その布教を禁じ、宣教師たちを追放したのです。しかしこの禁令では、神仏を妨げないかぎり、我が国と「きりしたん国」の往来と貿易は自由でした。
 秀吉は天正16年(1588年)7月、海賊禁止令を公布して、徹底した私貿易の取締りに乗り出します。そして文禄5年(1596年)、「サンフェリペ号事件」が起きます。土佐に漂着したイスパニア(スペイン)船サンフェリペ号の船員が、キリシタン伝道は、国土侵略の手段であると語った事件です。
 これによって禁教が強化され、長崎において26人の信徒と宣教師が処刑されました。現在長崎には、26聖人の碑があり、キリシタン聖地の一つであるとともに、観光名所ともなっています。
 さて、徳川家康はキリスト教に対して、どう対応したのでしょうか。
 慶長5年(1600年)3月、オランダ船の「リーフデ号」が、豊後(ぶんご=大分県の大部分)に漂着します。これを機に、プロテスタントの国オランダ、イギリスが日本に進出することになります。リーフデ号の航海士ウィリアム・アダムスが、外交顧客として家康に仕えることになったのが、契機です。
 アダムスは、三浦按針(みうらあんじん)の日本名を得て活躍します。家康は、ポルトガル、オランダ、イギリスなど西欧諸国と、東南アジア諸国に対し、朱印船貿易に基づいて広く対応していくのです。しかしキリスト教に関しては、一貫して「邪教」観を持ちつづけます。二代将軍秀忠も、これを引き継ぎ、幕府は、キリシタン弾圧を強化していきます。同様に、海外との交易もせばめられていくのです。
 そして三代将軍家光の代になり、日本は、朝鮮と中国、長崎の出島を通じてのオランダを例外として、鎖国体制に成立させるのです。寛永18年(1641年)に確立した鎖国は、安政元年(1854年)に、ペリー艦隊来航のもとで日米和親条約(神奈川条約)が結ばれるまでの213年間、つづいたのでした。


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 江戸時代を再検討する Ⅱ ⑩


由比正雪と丸橋忠弥の慶安事件

 江戸時代前期の慶安4年(1651年)7月、由比(由井)正雪、丸橋忠弥、加藤市郎右衛門、金井半兵衛らを主謀者とする牢人(浪人)たちの反乱計画が露顕しました。慶安の変、由比正雪の乱ともいいます。
 関ヶ原の戦いの後、徳川幕府が成立しますが、幕府は多くの外様大名を改易したり減封したりしました。そのため主家を失った武士、すなわち牢人が多数発生するということになりました。太平の世になったため、武士としての士官は思うにまかせず、鎖国となって、海外へ雄飛する道も閉ざされ、彼らの生活は大いに困窮することになったのです。
 当時、軍学者として名を知られていた由比正雪は、士官の周旋を望む牢人たちを数多く集めていました。そんなとき、三河刈谷(かりや)藩主の松平定政が、上書(じょうしょ)して幕政を正そうとしたのですが、改易されてします。慶安4年7月18日のことです。世上、幕閣の不統一が喧伝され、政局は不安定な状況となりました。正雪にとっては、まさに好機到来です。正雪は彼らと語らって、叛乱を起こしたのです。
 江戸では、丸橋忠弥を指揮官として、江戸の各所に火を放って火の海と化し、その騒ぎに乗じて江戸城内に侵入し、将軍を奪って正雪らの拠る駿河の久能山(静岡市)に急行する。佐原重兵衛、長山兵右衛門の率いる一隊は、譜代大名の屋敷に火薬を投じて乱入、柴原又右衛門の率いる一隊は鉄砲三百梃を用意し、将軍を奪った忠弥らを追撃する兵を喰い止める。また京都では、加藤市郎右衛門、吉田初右衛門を指揮官に、江戸からの吉報を待って同様の手段で二条城を乗っ取り、大坂では金井半兵衛、石橋源右衛門を指揮官に、正雪からの報らせを待って市中各所に火を放ち、諸大名の蔵屋敷を急襲して米穀を奪い、大坂城に立て籠る。正雪自身は、久能山の金銀を奪って、駿府城を攻略し、将軍を擁立して天下に号令する。以上が正雪の計略でした。
 正雪は、3千人あるいは5千人の兵を集めたといいますが、7月23日の夜に、数人が訴人したことによって計画は露顕し、失敗に終わってしまいます。
 幕府は、すぐさま正雪追捕の使者を駿府に急派すると共に、南北両町奉行所の与力・同心と捕り方を差し向けて、忠弥とその一味を召し捕りました。そして、7月26日、駿府茶町(静岡市)の旅宿に、紀州家の家中と称して宿泊していた正雪以下を取り囲んだのです。しかし、一味の多くは自刃して果てました。7月30日、正雪は、改めて駿府で獄門にかけられ、8月10日には、忠弥以下35人ほどが江戸の鈴ヶ森(東京都品川)で処刑されました。9月18日には、正雪の親族らが集められ、駿府で、磔刑もしくは斬首されて、事件は落着をみたのでした。
 正雪の乱の目的は、正雪自身による幕政改革説、林羅山によるキリシタン説、また近代以降は牢人救済説等があります。この事件以降、幕府は、牢人の発生源である大名家の改易や減封に手心を加えていきます。その結果、大名・旗本の改易や減封は激減し、牢人問題も落ちついていったのです。この事件はまた、武断から文治へと幕政が転換する端緒ともなり、政治史上の画期的な事件となったのでした。


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 江戸時代を再検討する Ⅱ ⑪


明暦の大火「振袖火事」起こる

 「てやんでえ、べらぼうめ」江戸っ子は気が短い、喧嘩騒ぎは日常茶飯事でした。その喧嘩騒ぎと同様に多かったのが、火事騒ぎです。「火事と喧嘩は江戸の華」です。
 江戸に火災が多発したのには、原因があります。家屋が木と紙で造られていて、しかも急激に人口が増えたので、都市計画も何もなく、人家が密集していたからです。しかも当初は、屋根も草(藁)葺きでした。そのうえ、冬期には、乾燥した烈しい西北の季節風が吹きました。
 江戸には、諸国から食いつめた浮浪者などが集まってきます。当然、火元の取締りなどは悪く、放火なども少なくありませんでした。ひとたび火事が発生すると、大火になることが多かったのです。江戸時代を通じて、大火と教えられる火災は、80数回にのぼっています。嚆矢(こうし)は、慶長6年(1601年。家康が幕府を開いたのは慶長8年)閏11月2日の駿河町火事でした。当時、町屋のほとんどは草葺き屋根でした。このため、江戸の町のほとんどが延焼することになったのです。大火後、江戸町奉行から、町屋は板葺きとするよう達しが出ました。さらに後には、町屋の多くは瓦葺きとなり、また火除け地が造られたりしましたが、「江戸の火事」は「喧嘩」と同様、なかなか減りませんでした。
 江戸の三大大火として知られるのは、明暦3年1月の「振袖火事」、明和9年2月の「行人坂(ぎょうにんざか)火事」、文化3年3月に芝で起こった「丙寅(ひのえとら)の大火」です。
 明暦の大火は、明暦3年(1657年)正月18日から19日にかけて、江戸の各所で起こった3つの火事の総称です。第1の火災は、本郷丸山の本妙寺が火元で、大施餓鬼(おおせがき)の火に投じた振袖が燃え上がり、折からの風に乗ってあちこちに飛び火し、江戸の町の大半を焼きました。そのため、「振袖火事」と呼ばれます。もっともこれは、後年につくられた俗説で、当初のころの資料には、どこを見ても「振袖火事」の名称は出てきません。
 ともあれ、本妙寺から出火したのは、午後2時ごろでした。強風に煽(あお)られて、本郷、湯島、駿河台へと延焼し、さらに下町の神田から日本橋へと及びました。夕方になると、風向きが西風に変わり、鎌倉河岸(かまくらがし)の辺りから東に火線が移って、茅場(かやば)町、八丁堀、さらに霊岸島から佃(つくだ)島までの下町一帯を焼き尽くすことになります。このとき、霊厳寺が焼けて多くの死者を出し、また浅草橋の見付(みつけ)の門が閉じられていたため、逃げ場を失った多数の江戸市民が犠牲になりました。
 第2の火災は19日午前11時過ぎ、小石川の武家屋敷からの出火、これも強風に乗って神田から京橋、さらに新橋のあたりまで延焼しました。このとき、江戸城中に飛び火し、天守閣をはじめ、西の丸を除く多くの建物を焼失しました。以後、江戸城には、現在に至るまで天守閣がありません。大老の保科正之(ほしなまさゆき)が建てさせなかったのです。たまに将軍が登って江戸の町を見下ろすぐらいの役割しかない天守閣を再建するなら、その金を江戸の町の復興に使うべきであると。
 第3の出火は麹町(こうじまち)5丁目の町屋が火元で、東に延焼して、外神田から西の丸下の大名屋敷を総なめにし、日比谷から愛宕下、芝方面におよび、やっと火がおさまったのは、20日の朝でした。被災地は、現在の千代田区と中央区のほとんどで、当時の江戸市街の大半に及びました。一説に10万人に及ぶ焼死者を出したといいます。
 焼死者は、本所の辺りに大きな穴を掘って埋葬しました。のち、その地に、焼死者供養のために建てられたのが、回向院(えこういん)です。


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 江戸時代を再検討する Ⅱ ⑫


伊達騒動。原田甲斐、伊達安芸を斬殺

 伊達騒動(だてそうどう)というのは、江戸時代前期の寛文11年(1671年)、奥州仙台藩の伊達家で起こった「お家騒動」のことです。
 江戸時代の中期にはすでに、歌舞伎狂言の「伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)」となって人口に膾炙(かいしゃ)し、多くの人たちに知られていました。現代になってからは、山本周五郎が「樅(もみ)の木は残った」という小説に仕立て、さらに1970年には同作がNHK大河ドラマとなったことによって、ドラマとしても小説としても大ヒットしたのです。
 では、事件の経緯を見てみましょう。
 仙台藩主伊達綱宗(つなむね)が幕府から隠居を命ぜられたのは、万治3年(1660年)のことでした。江戸小石川堀の普請に際して不行跡があったというのです。100万石の加賀前田家に次ぐ日本で二番目の大藩である仙台藩伊達家62万を継いだのは、何と僅か2歳の幼児亀千代(のちの綱村)でした。しかし2歳の幼児に藩政を司ることなど、できるはずはありません。そこで叔父の伊達兵部少輔宗勝(だてひょうぶしょうゆうむねかつ)と、庶兄(しょけい)の田村右京宗良が、それぞれ3万石を分知されて後見人となり、また幕府の国目付が毎年伊達家に派遣されて、藩政が行なわれたのです。
 当初、権勢をふるっていたのは、伊達家の奉行奥山大学常辰(つねとき)ですが、伊達兵部は寛文3年(1663年)、奥山大学を罷免してしまいます。そして、幕府老中の酒井忠清と姻戚関係を結び、奉行の原田甲斐(はらだかい)や側近たちを重用(ちょうよう)して、反対派を大弾圧するのです。17名が斬罪切腹となり、120名が処分を受けました。
 その後、仙台藩伊達家のごたごたは、まだまだ続きます。寛文6年には亀千代毒殺未遂のうわさが立ち、医師の河野道円父子が殺害され、寛文8年にも似たような事件が起きます。これらの事件の背景には、伊達兵部らの陰謀があるのではないかという、うわさが立ち、兵部への非難が高まります。またそのころ、伊達一門の伊達安芸宗重と同じく宗倫が、知行地をめぐる境界線争いを続け、伊達兵部の裁定に不満を持つ者たちが、何と幕府に上訴するのです。
 寛文11年、大老酒井忠清のもとで審議が開始されることになりました。ところが、同年3月27日、酒井忠清邸での審議のさなかに、兵部派の敗北をさとった原田甲斐が、やにわに伊達安芸を斬殺し、乱闘のなかで自らも斬死してしまうのです。兵部と田村右京は、当然のことですが、任を解かれ配流・閉門という処分を受けました。
 以上が事件のあらましですが、この伊達家のお家騒動は、実録本や講談、歌舞伎、人形浄瑠璃などに広く取り上げられることになります。それらの作品群を総称して「伊達騒動物」といいます。それらのなかで、現代につづく名作が「伽羅先代萩」というわけです。


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