ちはやぶる日本史



プロローグ

 私たちは過去から未来に向かって、今という時を生きています。ただ漠然と生きているわけではなく、よりよき未来を求めて考えながら歩いています。ですけれど、未来を考えるためには、今を知ることが必要です。そして、今を知るためには過去すなわち歴史を知らなければなりません。今という時は、先人たちが営々と築いてきた、そして今も築き続けている歴史の上に成り立っているからです。
 「歴史を知らずして今を語ることなかれ。今を判らずして未来を語ることなかれ」
 です。
 それでは、今を知るために、そして未来を語るために歴史の森へ分け入ってみることにしましょう。とはいえ、これから語ろうとするのは、小むずかしい学術的な歴史ではありません。教科書などで語られる歴史とは一味ちがった「へえー。そうなの」という、おもしろく興味深い話です。どうぞ気軽におつき合いください。
高橋ちはや

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高橋千劔破
(たかはし・ちはや)

 1943年東京生まれ。立教大学日本文学科卒業後、人物往来社入社。 月刊『歴史読本』編集長、同社取締役編集局長を経て、執筆活動に入る。 2001年、『花鳥風月の日本史』(河出文庫)で尾崎秀樹記念「大衆文学研究賞」受賞。 著書に『歴史を動かした女たち』『歴史を動かした男たち』(中公文庫)、 『江戸の旅人』(集英社文庫)、『名山の日本史』『名山の文化史』『名山の民族史』 『江戸の食彩 春夏秋冬』(河出書房新社)など多数。日本ペンクラブ副会長、 日本文藝家協会理事。



『古代編』全10回

『江戸と江戸っ子編』全8回

『源平時代編』全8回

『鎌倉時代編』全6回

『太平記と南北朝時代編』全6回

『南北朝争乱期から室町時代へ編』全7回

『室町時代から戦国時代へ編 I 』全7回

『室町時代から戦国時代へⅡ東山文化と民衆文化編』全8回

『戦国時代を再検討する』全12回

『戦国の合戦』全11回


 江戸時代を再検討する Ⅰ ①


家康、征夷大将軍となる

 慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原合戦に大勝した徳川家康は、いよいよ天下人への道を歩み始めます。もはや家康に対抗できる勢力はいません。とはいえ、大坂城には、秀頼を頂天に頂く豊臣政権が、厳然として続いていました。関ヶ原の戦いは、その政権下における五大老筆頭の家康と、五奉行筆頭の石田三成による主導権争いでもあったのです。
 三成は、あくまでも豊臣政権を維持しようと考えていました。しかし家康は、形の上では豊臣政権を立てていますが、実質的には、いよいよ徳川の時代が始まった、と考えていたに違いありません。
 家康は慶長6年の1月、東海道への伝馬(てんま)制度を整備します。京と江戸を結ぶ重要な街道を、徳川氏の管理下に押さえたということです。また、徳川氏の譜代の家臣たちを、次々に関東や東海の大名に封じます。そして3月、家康は大坂城を出て、京都伏見の自らの城に移るのです。同時に、関東地方を検地します。自らの覇権の地を、京・大坂から距離を置いた関東の江戸にしようと考えていたからに他なりません。この年の10月、家康は江戸に帰っています。
 しかし、翌年1月には再び伏見に戻ります。島津氏の薩摩・大隅・日向の所領を安堵し、朝廷に赴いたり、二条城と伏見城を修復したりします。6月には交趾(コーチまたはコーシ=現在のベトナム北部)の船が備前にやって来て、家康に孔雀・象・虎などを贈っています。佐竹氏を水戸から秋田へ転封したのも、この年のことです。またこの年に、中山道にも伝馬制を設けています。さらにこの年、佐渡や石見(いわみ)の鉱山から、多量の金銀が採掘されました。それらもまた、徳川氏の財政を支えたことはいうまでもありません。
 さて、慶長8年1月1日、家康は62歳の新春を迎えます。そして1月21日、家康のもとに、勅使の権大納言広橋兼勝が訪れました。家康を征夷大将軍に補任(ぶにん)するという内旨を伝えに来たのです。家康は使者に、黄金三枚と小袖ひとかさねを贈っています。それから3週間後の2月12日、家康は後陽成(ごようぜい)天皇の勅使である参議勧修寺光豊(かじゅうじみつとよ)から、将軍宣下(せんげ)を受けました。その内容は、右大臣・征夷大将軍・源氏長者・淳和奬学(じゅんなしょうがく)両院別当に任じ、牛車(ぎっしゃ)・兵仗(へいじょう)をゆるすというものでした。これほど多くの宣旨を同時にもらったのは、史上徳川家康だけです。
 「鹿苑日録」(ろくおんにちろく=京都鹿苑院の僧の日記で、戦国史の重要史料)によれば、その日は早朝から雨でしたが、午前8時ごろには晴れたということです。日録は、内府(家康)が将軍宣下を受ける日なので、天も雨天を晴天にしたのであろう、と記します。
 そして3月21日、家康は衣冠束帯(いかんそくたい)姿で参内(さんだい)し、将軍拝賀の礼を行なったのでした。また3月27日には、勅使を迎えて将軍宣下の賀儀が行なわれました。こうして家康は江戸に幕府を開き、以後265年間続く、徳川15代将軍の初代となったのです。


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 江戸時代を再検討する Ⅰ ②


幕府、外様大名に参勤交代を命ず

 関ヶ原の戦い(慶長5年=1600年)によって徳川家康が勝利し天下の覇権を握ると、外様大名などのうち、江戸に参勤する者が現われます。さらに、家康が征夷大将軍になると(慶長8年)、その傾向に拍車がかかります。幕府(徳川家)に忠誠を誓うためにほかなりません。
 家康は、外様大名の江戸参勤を奨励し、参勤の大名には屋敷地(大名屋敷)のほか、刀剣や書画、鷹や馬、糧米(りょうまい)などを下賜し、大大名の場合は、東海道は高輪(たかなわ)御殿、中山道は白山御殿、奥州街道は小菅御殿まで出迎えるなど気を使っています。しかし慶長16年、家康は豊臣秀頼を京都二条城に謁見して、豊臣氏以下全国の大小名との主従関係を確定させます。
 大坂夏の陣(元和元年=1615年)後、徳川幕府は「武家諸法度(ぶけしょはっと)」によって、諸大名の徳川氏への参勤規定を掲げ、事実上、隔年の江戸参勤をさせます。そのことを踏まえて、寛永12年(1635)の「武家諸法度」において、「大名小名在江戸交替所相定也、毎歳夏四月中可致参勤」と、各大名は毎年4月交代で江戸に参勤することを規定したのです。さらに寛永19年、譜代大名にも参勤を命じ、全国すべての大名が、江戸と自領の間を往ったり来たりすることになったのです。旗本30余家にも、隔年の参勤が義務づけられました。
 もっとも例外もありました。北九州と朝鮮半島の中間に位置する島国対馬(つしま)の宗氏は三年に一度、蝦夷地(えぞち=北海道)の松前氏は五年に一度の参勤でした。また、水戸徳川家や、幕閣として重要な役割を担う大名は定府(じょうふ=一年中江戸に滞在)でした。
 参勤のときの行列が、「大名行列」です。「下に、下に」といいながら整然と行列を作って歩きました。もともとは軍時の行列すなわち行軍が始まりですので、当初は槍隊や鉄砲隊などを中心として質実剛健なものでした。しかし、時がたつに従い、家格を誇る華美なものへと変化していきます。もっとも何百人もの藩士ほかが移動するわけですから(加賀前田家などは二千五百人を超える大行列であったといわれます)、経費も大変です。弱小の大名家の場合、宿場町を通るときと江戸に入ってから以外は、ほとんど駆け足であったといいます。
 なお、行列したのは大名とその家臣のみです。大名の妻子は江戸常住が義務づけられ、領地に帰ることはできませんでした。つまり、大名の家族は、人質として江戸に留め置かれていたということです。ともあれ多くの大名は、江戸と領国との二重生活によって、繁忙と経済的窮乏に苦しむことになります。もっともそれが、幕府徳川家の狙いでした。しかし一方で、街道の整備、宿場町の発展、物資だけでなく文化の移動などによる庶民文化の発展をもたらしました。この制度が実質的になくなったのは、幕末の文久二年(1862)のこと。幕府が弱体化したからにほかなりません。


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 江戸時代を再検討する Ⅰ ③


幕府、諸街道を整備し、一里塚を築く

 一里塚というのは、一里(約4キロ)ごとに、道路の両側に塚を築き、主に榎(えのき)などの樹木を植えて、旅程の目印にしたものです。
 徳川家康が、二代将軍秀忠に命じて、慶長9年(1604)、江戸日本橋を起点として、東海道、東山道、北陸道に榎を植えた一里塚を築かせて、全国に普及させました。地方によって榎ではなく松の場合もありますが、なぜ榎なのかというと、榎は根を深く張って広がり、塚を固めるからだということです。すなわち榎の一里塚は崩れにくいのです。
 なお一里塚の起源は古代中国だといいます。日本でも古くから国境の目印に塚が築かれていたといいますがはっきりとせず、室町時代に将軍足利義晴(あしかがよしはる)が、諸国に命じたのが始まりだといいます。その後織田信長・豊臣秀吉の時代から三十六町を一里として塚を築き諸国に普及していきました。一町(一丁とも)は、約109メートル。三十六町すなわち一里は、正確には3924メートルということになります。
 豊臣秀吉は、一里ごとに五間四方の塚を築きましたが、新たに定めた度量衡制の全国的普及を意図したものでした。しかし、制度として確立したのは、前記したように、江戸時代の初期、徳川家康によってです。
 一里塚の築造に際して家康すなわち幕府は、まず東海道および東山道の奉行として、永井弥右衛門白元と本多佐太夫光重をあたらせて、ひきつづいて北陸道は、山本重威(しげたけ)と米田正勝が築造に従いました。また、江戸の町年寄、樽屋藤左衛門や奈良屋市右衛門らがこれに属し、大久保長安が総轄しました。
 なお大久保長安は、もとは武田信玄に仕えた猿楽師ですが、武田家滅亡後徳川家に仕えて、幕府の金銀山奉行として強大な権力と莫大な財産を有しました。しかし長安の没後、生前に不正があったとして、全財産を没収され、大久保家は断絶させられました。
 なお筆者は、NHK大河ドラマになった新田次郎の「武田信玄」の連載を15年間にわたって担当し、その後「続武田信玄」として「武田勝頼」も担当しました。さらに「続々武田信玄」として「大久保長安」を書き始めたとき、新田次郎は急逝しました。新田次郎は、ライフ・ワークとして、信玄と勝頼さらに大久保長安を書くことによって、武田家の栄光と滅亡とその後を書こうとしていました。勝頼までですでに二十年を擁し、三部作が完結するにはじつに四半世紀がかかるという超大作です。新田次郎の享年は68歳。まだまだ書ける年齢でした。
 さて、一里塚に話を戻しましょう。
 一里塚は、旅人にとって、なくてはならない場所でした。まずは里程の目安です。その日どれぐらい歩いたか、一里塚によって知ることができました。また旅人は、荷物を人馬に托しましたが、その賃金の目安ともなりました。さらに、植えられた榎の木陰は、旅人たちの憩いの場ともなりました。しかし、18世紀後半ごろより、一里塚もさほど必要とされなくなり、明治以降、鉄道の発達と共に廃れていきました。いまは、一部が史跡として残るだけです。


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 江戸時代を再検討する Ⅰ ④


徳川秀忠、二代将軍となる

 秀忠は、徳川家康の3男です。それがなぜ、徳川家を継いで2代将軍になったのでしょうか。
 家康の長男は、岡崎三郎の通称で知られた信康です。織田信長の女(むすめ)徳姫を妻とし、元亀元年(1570)11歳で岡崎城主となりました。しかし徳姫の讒言(ざんげん)によって、天正7年(1579)、信長の命を受けて自殺させられてしまいます。次男は、秀吉の養子となり、さらに結城(ゆうき)家を継いだ結城秀康です。そこで、3男の秀忠が徳川家を継ぐことになったのです。
 とはいえ、すんなりと将軍位を継げたわけではありません。慶長5年(1600)、秀忠は父家康に従って、会津の上杉景勝を攻撃するために、東北へと進軍します。しかしこれは、石田三成に挙兵させるための罠でした。果たして三成挙兵の報が、下野(しもつけ)小山(おやま)まで進んだ徳川軍に届きます。徳川軍はすぐさま、西へと軍を返します。
 このとき、家康は東海道を、秀忠は東山道を通って、決戦地である関ヶ原へと向かいました。ところが秀忠軍は、信州に至ったところで、真田昌幸率いる真田一族の軍勢に、行手を阻まれます。そこで、秀忠軍は、昌幸の籠る信州上田城を攻めるのですが、そのために時間を空費してしまい、関ヶ原に到着したときには、すでに戦いが終わっていたのでした。このため家康の勘気をこうむることになりますが、諸将の取り成しによって、やっと赦されます。
 3年後の慶長8年、家康が征夷大将軍に任じられ、秀忠は右近衛大将となりました。この年、秀忠の長女千姫が6歳で、16歳の豊臣秀頼のもとに入輿(じゅよ)しています。政略結婚にほかなりません。
 そうして慶長10年2月下旬、家康と秀忠は、10万余の大軍を率いて上洛し、4月上旬、家康は将軍職を秀忠に譲ることを奏聞し、4月16日、秀忠が徳川家の第2代征夷大将軍に任じられたのでした。秀忠はすでに31歳になっていました。秀忠は、源氏長者・正二位内大臣に任じられ、翌年の9月、新営がなった江戸城に入城します。次いで慶長12年には朝鮮通信使が来日して拝謁を受け、同14年には、島津氏の琉球侵攻を許可しています。しかしこの時代は、実際には大御所家康が仕切っていて、秀忠は主に東国の大名統率に当たっていたに過ぎません。
 慶長19年、秀忠は従一位右大臣となり、この年の大坂冬の陣と翌年の夏の陣で、家康と共に出陣し、ついに豊臣氏を滅亡させます。さらに翌年(慶長20年=元和元年)家康が没し、秀忠が名実共に徳川幕府のトップに位置したのです。その後の秀忠は、苛烈な将軍として辣腕(らつわん)を振るい、のべ41家の大名を取りつぶし、また自分の女(むすめ)和子(まさこ)を後水尾天皇に入内(じゅだい)させ、紫衣(しえ)事件によって天皇を退位に追い込んで、幼女の孫娘を天皇につけます。明正天皇です。元和9年(1623)、家光に将軍職を譲りますが、なお江戸城西の丸にあって、大御所として実権を振るいました。亡くなったのは、寛永9年(1632)正月24日、54歳でした。


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 江戸時代を再検討する Ⅰ ⑤


幕府、宇喜多秀家を八丈島に流刑

 宇喜多秀家は、元亀3年(1572)、宇喜多直家の嗣子(しし)として、備前国岡山に生まれました。戦国時代の真最中で、この年、織田信長が浅井長政の近江に攻め入り、上杉謙信は越中の一向一揆と戦い、武田信玄が三方ヶ原の戦いで徳川家康を破っています。
 天正7年(1579)、直家は毛利氏から離反して羽柴秀吉に帰順します。以後、秀吉の中国地方経営に従って、備前・美作(みまさか)の各地で毛利氏と戦いますが、同9年、岡山城で病没しました。その直家の嗣子が秀家ですが、秀家の「秀」は、秀吉から与えられたものです。
 直家が没したとき、秀家はまだ10歳の少年でしたが、秀吉の斡旋によって、信長から父の遺領相続を許されました。その後、秀家は、秀吉に寵遇(ちょうぐう)され、秀吉の養女(前田利家の娘)を妻に迎えて、豊臣家・前田家と縁戚関係になり、秀吉の四国征伐、九州征伐、また小田原征伐にも従軍して活躍しました。
 このころから秀吉は、非情なる独裁者へと変貌します。天下人になったのはいいのですが、その考えはまさに誇大妄想です。日本を統一したのでは気がすまず、大陸に攻め入って明(みん)国を攻め取ろうというのです。そのためには、まず朝鮮半島に攻め入らなければなりません。
 文禄元年(天正20年=1592)、秀家は渡海して、小早川隆景や黒田長政らと共に明軍と戦い、碧蹄館(へきていかん)の戦いで大勝利を収めました。また、慶長2年(1597)の再度の朝鮮出兵にも従い、遠征軍を監督しています。この間、天正18年から岡山城の大改築を行ない、慶長2年には天守閣を竣工、城下町を形成すると共に、商工業の育成や新田開発にもつとめています。備中早島から倉敷にかけて潮止め堤防を築き、児島湾干拓事業の先蹤(せんしょう)ともなっています。今でも「宇喜多堤」の名が残されています。
 また、慶長3年には、秀吉から五大老の一員に任じられ、秀吉没後も徳川家康らと共に、政務の中枢に位置して、豊臣政権を支えました。
 しかし慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いが起こります。まさに天下分け目の大合戦で、日本史上有数の戦いです。徳川家康を総大将とした東軍と、石田三成と毛利輝元による西軍が、美濃国の関ヶ原(岐阜県不破郡)で激突します。関ヶ原は、古代から不破(ふわ)の関が置かれた、東西交通の要衝です。
 9月15日、小雨もよいの中で行なわれた大合戦ですが、東軍が圧勝しました。西軍に属していた小早川秀秋らが寝返り、また毛利氏が参戦しなかったために、本来互格であったはずの戦力が、東軍に圧倒的な有利をもたらしたからです。秀家は1万6千の兵を率いて関ヶ原に臨んだものの、敗れて伊吹山中に隠れ、その後薩摩に落ちのびて島津氏を頼ります。しかし同8年に捕えられ、同11年に八丈島に流罪となりました。嫡子の孫九郎ら13人での渡島でした。その後、50年間八丈島で暮らし、明暦元年(1655)11月20日、病没しました。84歳でした。今も八丈島に墓碑が残されています。


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 江戸時代を再検討する Ⅰ ⑥


朝鮮通信使、はじめて江戸に来る

 はるか古代から、大陸の先進文化は、朝鮮半島を経由して日本にもたらされました。歴史的にみて概(おおむ)ね、朝鮮半島の方が、日本より文化度が高かったといえます。ただ中世になると、軍事力に関しては、しばしば日本が半島を上回わります。
 これはその間、日本が戦闘国家だったからに他なりません。平安末期の前九年・後三年の役に始まって、保元・平治の乱、源平合戦、文永・弘安の役、南北朝の争乱、そして応仁・文明の乱を経て戦国時代へ突入します。この間、日本はまさに戦争に次ぐ戦争の争乱国家でした。
 やがて、およそ100年を経て織田信長が登場し、戦乱の世は収束します。信長は本能寺の変で横死しますが、その後を受けて、豊臣秀吉が日本統一を果たしました。しかし秀吉は、平和国家日本をつくろうとはせず、何と大陸に攻めて行って明国を支配下に収めようという、とんでもない計画を立ててこれを実行します。文禄元年(1592年)と慶長2年(1597年)のことです。
 文禄の役で秀吉は、16万人もの日本兵を動員し、まずは朝鮮半島に攻め入って、中国との国境に迫ります。しかし朝鮮水軍の李舜臣(りしゅんしん)の反撃を受け撤退を余儀なくされます。ところが日本軍は、朝鮮半島から多くの文物を略奪する共に、農民や学者や陶工などを拉致(らち)してくるのです。慶長の役でも、結局日本は撤退することになりますが、結果として、日本に朱子学や印刷技術の発展がもたらされ、有田焼などの磁器生産が始められることになります。逆に朝鮮では国家の発展が、およそ100年間遅れたといわれます。
 江戸時代になりますと、日本と朝鮮は友好関係となります。徳川家康の求めに応じて、国交が回復したからです。
 朝鮮通信使は、応永20年(1413年)の第1回に始まり、文化8年(1811年)まで20回日本にやって来ました。江戸時代に入ってからは、慶長12年(1607年)、2代将軍徳川秀忠のときが最初です。寛永16年(1639年)、日本は完全に鎖国体制に入ります。中国・オランダとの「通商」と朝鮮・琉球との「通信」という狭い範囲での国際関係に限定するのです。ですが朝鮮だけは別で、幕府は正式な外交関係を結んでいました。
 朝鮮通信使の一行は、400人前後におよぶ大使節団で、釜山(ぷさん)から対馬を経て、関門海峡から瀬戸内海を大坂に達し、各大名による川船で淀川を遡り、途中から陸路を京都へ入りました。さらに各大名が一行のために新しく作った朝鮮人街道を辿って、東海道を江戸へ進んだのでした。
 幕府は一行を大歓待し、華麗な饗応を行ない、また客館に於て、栄んな彼我の学者や文人の交流が行なわれました。学者や文人や医師たちは、使節の一行との交流によって、新知識を得、また多くの異国の文物が、日本にもたらされたのでした。


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 江戸時代を再検討する Ⅰ ⑦


京都方広寺の鐘銘事件

 京都東山方広寺は、天正14年(1586年)に豊臣秀吉が、豊臣一族の繁栄を願って建立したものです。ところがこの寺がのちに、豊臣家を滅ぼすことになります。秀吉は考えもしなかったにちがいありません。
 方広寺は、慶長元年(1596年)閏7月の大地震(慶長大地震)で壊われました。このとき、6丈3尺(約19メートル)の巨大な木像仏もつぶれました。やがて秀吉が没し(慶長3年)、方広寺は壊われたままになっていましたが、慶長7年、家康は豊臣母子(淀殿と秀頼)に、再建をすすめます。母子は秀吉の遺志を継ごうと、その気になり、今度は金銅仏にすることにして、着工します。しかし工事なかばで火災にあい、堂宇は全焼して仏像も溶け落ちてしまいました。とはいえもはや大仏建立は、豊臣母子の悲願です。
 慶長14年から再建工事が開始され、同19年の春に、やっと完成するのです。費用は莫大なもので、秀吉が大坂城にたくわえ大金塊を使うのですが、現在の価格に直すなら100億円ぐらいといわれます。さすがに、淀殿は妹の徳川秀忠夫人を通じて、幕府に資金の援助を求めますが、もちろん幕府は応じません。大坂城の金塊は、万一の場合に備えた軍用金です。いざ戦争となれば、多くの場合、お金を持っている方が勝ちます。家康は何とかそのお金を減らそうと、大仏殿建立をすすめたのです。お金を貸すはずはありません。世間では、「さすがの太閤の貯金もこれで払底したろう」と噂されたといいます。
 ともあれ、慶長19年8月、盛大に大仏の開眼供養が行なわれることになりました。供養の日をめぐっても、豊臣方を代表する片桐且元と家康の間で、すったもんだがあったのですが、家康は、さらなる難題をつきつけてくるのです。新築なった方広寺の大鐘に、不吉な文字があるというのです。
 その文字というのは、鐘銘に刻された「国家安康」と「君臣豊楽」という熟語です。前者は、家康の名を二つに切ってこれを呪うものであり、後者は、豊臣氏を君としてこれを末ながく楽しむという意味だというのです。
 もちろんこじつけですが、これを考えたのは金地院崇伝といわれています。林羅山も、「鐘銘は、徳川家を呪い、豊臣家の繁栄を祈る気持をたくみに書きこんだものだ」と記しています。いずれも、御用学者の曲学阿世(きょくがくあせい)といわなければなりません。鐘銘を書いたのは、当時の高名な学者清韓文英(せいかんぶんえい)です。
 当時の落首に、「鐘の銘韓長老の諸行ぞや無常となりて大坂滅亡」というのがあります。
 ともあれ幕府の批難に、大坂城から片桐且元が弁明のため駿府に飛んでいきますが、20日あまり待たされて、結局家康との面会をゆるされませんでした。それだけではなく、家康は、「秀頼が江戸に参勤するか、淀殿が人質として江戸にくるか、または秀頼が大坂を出て地方に国替するか」という難題をつきつけるのです。家康とすれば、大坂攻めのための、いいかえれば豊臣家を滅亡させるための口実を得るためですから、あえて無理難題をつきつけたわけです。結果として、家康の計画は成功し、大坂冬、夏の陣を経て、豊臣家は滅亡することになります。


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 江戸時代を再検討する Ⅰ ⑧


平戸にオランダ商館ができる

 オランダ商館は、江戸時代、平戸(現長崎県平戸市)および長崎にあったオランダ東インド会社の日本支店です。オランダと徳川幕府との交流は慶長5年(1600年)にオランダ船「リーフデ号」が豊後(大分県)に流着したことに始まります。そして慶長9年(1604年)、オランダとの国交が開始されたとき、商館が置かれたのが平戸でした。
 オランダは、ヨーロッパ諸国のなかで最も早くから日本と交渉を持った国のひとつです。また鎖国中も、欧米では唯一の交易国でした。ヨーロッパの文物は、もっぱらオランダを通じて輸入され、諸科学などもオランダ語で紹介されました。それらの学問は「蘭学(らんがく)」と称され、蘭学を学ぶ日本人も少なくありませんでした。
 なおオランダの呼称は、ポルトガル語の「Olanda」に由来しています。日本では、阿蘭陀、和蘭陀などと表記されました。
 さて、家康は海外との交易を官許制とします。すなわち、貿易に従事しようと望む者は、必ず家康に願いを出て、その承認を得なければなりませんでした。その承認のしるしとして、朱の印を押した「異国渡海朱印状」がさずけられました。これを携行した商船は、公海、領海を問わず侵犯されることはなく、交戦国の港湾の出入りや封鎖線の通過も許されたといいますので、その法的効力はとても大きなものだったのです。
 さて、その朱印船貿易に従事した貿易家は105家、派遣された船は356隻であったといわれます。大名では島津家久、松浦鎮信(まつらしげのぶ)、有馬晴信、鍋島直茂(なべしまなおしげ)、加藤清正、細川忠興(ただおき)など8家、それに角倉了以(すみのくらりょうい)、茶屋四郎次郎(ちゃやしろうじろう)、亀屋栄任(えいにん)、末吉孫左衛門(すえよしまござえもん)、尼崎屋又次郎(あまがさきやまたえもん)、木屋弥三右衛門(きややそうえもん)、末次平蔵(すえつぐへいぞう)、荒木宗太郎、高木作右衛門(さくえもん)、長谷川藤広(ふじひろ)、長谷川藤正(ふじまさ)などが、当時活躍した豪商たちです。
 朱印船の渡航先は、台湾、澳門(マカオ)から、東はモルッカ諸島、南西はマレー半島に及ぶ地域です。はるか太平洋上のこれらの国々へ、よくも小さな帆船で往き来したものだと、感心します。おそらく難破したり漂流を余儀なくされた船も、少なからずあったことと思います。ともあれ、インドシナ半島の交趾(コウチ=ベトナム)、柬埔寨(カンボジア)、暹羅(シャム=タイ)、呂宋(ルソン=フィリピン)などで活躍する者が多く、これら各地には日本人町がつくられました。
 シャムでは、日本人傭兵の隊長から六毘(リゴール)王にまでなった山田長政、台湾では、商権をめぐってオランダ人と争った浜田弥兵衛(やひょうえ)の話などが、知られています。
 ところでオランダ商館は、寛永18年(1641年)に平戸から長崎の出島に移転させられました。なお日本は、寛永16年から鎖国体制となりますが、ヨーロッパでは唯一オランダだけが、長崎の出島にあって日本と交流をつづけました。また、長崎市の「出島オランダ商館跡」の史跡や出島資料館で、往時をしのぶことができます。


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