ちはやぶる日本史



プロローグ

 私たちは過去から未来に向かって、今という時を生きています。ただ漠然と生きているわけではなく、よりよき未来を求めて考えながら歩いています。ですけれど、未来を考えるためには、今を知ることが必要です。そして、今を知るためには過去すなわち歴史を知らなければなりません。今という時は、先人たちが営々と築いてきた、そして今も築き続けている歴史の上に成り立っているからです。
 「歴史を知らずして今を語ることなかれ。今を判らずして未来を語ることなかれ」
 です。
 それでは、今を知るために、そして未来を語るために歴史の森へ分け入ってみることにしましょう。とはいえ、これから語ろうとするのは、小むずかしい学術的な歴史ではありません。教科書などで語られる歴史とは一味ちがった「へえー。そうなの」という、おもしろく興味深い話です。どうぞ気軽におつき合いください。
高橋ちはや

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高橋千劔破
(たかはし・ちはや)

 1943年東京生まれ。立教大学日本文学科卒業後、人物往来社入社。 月刊『歴史読本』編集長、同社取締役編集局長を経て、執筆活動に入る。 2001年、『花鳥風月の日本史』(河出文庫)で尾崎秀樹記念「大衆文学研究賞」受賞。 著書に『歴史を動かした女たち』『歴史を動かした男たち』(中公文庫)、 『江戸の旅人』(集英社文庫)、『名山の日本史』『名山の文化史』『名山の民族史』 『江戸の食彩 春夏秋冬』(河出書房新社)など多数。日本ペンクラブ副会長、 日本文藝家協会理事。



『古代編』全10回

『江戸と江戸っ子編』全8回

『源平時代編』全8回

『鎌倉時代編』全6回

『太平記と南北朝時代編』全6回

『南北朝争乱期から室町時代へ編』全7回

『室町時代から戦国時代へ編 I 』全7回

『室町時代から戦国時代へⅡ東山文化と民衆文化編』全8回

『戦国時代を再検討する』全12回


 戦国の合戦①


小田原城攻略戦 北条早雲対大森藤頼

 応仁の乱後、守護大名の多くが没落して、代わって守護代や国人(こくじん)衆が台頭して各地の新しい支配者となりました。戦国大名の登場です。戦国大名の多くは、有力な武家の出が多かったのですが、なかには、出自不明の者がいました。北条早雲や斎藤道三が、その代表的な例です。
 北条早雲は、戦国時代の初期、忽然(こつぜん)として歴史の舞台に登場しました。そのときすでに40代の半ばです。それまで何処で何をしていたのか、出身地も氏素性も皆目判らないのです。没したのは永正16年(1519)で、八十八歳であったといいます。逆算すると永享4年(1432年)生まれということになりますが、正確な生年月日は不明です。
 だが、その早雲に始まる小田原北条氏5代が、戦国の100年間、関東の地をほぼ支配して、強力な北条王国というべき勢力を築いていたことは、まぎれもない事実です。早雲は、はじめ伊勢新九郎長氏(ながうじ)と称しました。のちに早雲を庵号とし、入道してからは「早雲庵宗瑞(そうずい)」と自ら記しています。北条早雲というのは俗称です。
 早雲が嫡子氏網(うじつな)を儲けたのは文明18年(1486)、54歳です。次男氏時(うじとき)を得たのは58歳で、三男長綱(ながつな)は62歳のときの子です。当時、ふつうであれば人生を終える年ですが、つぎつぎに子を儲けただけでなく、その後も強大な戦国大名への道を突き進んでいったのです。その旺盛な勢力と精力には脱帽せざるを得ません。
 明応4年(1495)、64歳のとき、早雲は関東への進出を目指し、小田原城を急襲して大森藤頼(ふじより)を攻め、関東進出の第一歩を印しました。このとき早雲は、大森氏に対してあらかじめ、箱根で鹿狩りをするために大ぜいの勢子(せこ)を入れるという了解を得ました。そのうえで、勢子に姿を変えた数百人の武勇に長けた者たちを送り込み、山中にひそませます。夜半、千頭の牛の角に松明(たいまつ)をつけて、石垣山や箱根の山中に追い上げ、小田原城下に火を放ちます。さらに螺(かい)を吹き鬨(とき)の声を上げました。小田原城では不意の敵襲に驚き、周囲の山々に点々と見える火と城下の火事に大軍が攻めて来たと思い、大混乱となりました。その混乱に乗じて、勢子に化けた精鋭が城下に攻め入り、小田原城の奪取に成功したといいます。
 火牛(かぎゅう)の計は、源平合戦のとき、木曽義仲が倶利伽羅(くりから)峠の戦いで用いたことで有名ですが、もとは『史記』列伝に見える斉(せい)の名将田単(でんたん)が用いた戦略です。ともあれ、永正7年(1510)ごろより早雲は相模の名族三浦氏との戦いを開始しました。早雲は三浦半島の出入り口に玉縄(たまなわ)城を築きますが、秀吉の小田原平定まで一度も落城しなかったので、江戸・河越城と並んで関東三名城の一つといわれました。
 相模国を制圧したとき、早雲は85歳になっていました。早雲は88歳で没しますが、その前年の87歳まで、現役の戦国大名として戦い続けたのです。


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 戦国の合戦②


河越夜戦(よいくさ)後北条氏対扇谷上杉氏

 日本の合戦史上、いや世界の戦史を見ても、夜戦(よいくさ)は極めて少ないですが、満天の星といった気象条件に恵まれれば、夜に軍勢が行動できないことはありません。とはいえ、せいぜい軍を動かすだけで、敵味方入り乱れての戦いは無理です。軍旗や軍配などの司令は、視覚によるもので、夜目では覚つきません。
 ですが、日本の合戦史上、「河越夜戦」はよく知られています。河越は現在の川越です。河越城は、長禄元年(1457)、太田道灌の父である太田道真(資清・すけきよ)によって築かれた。道真は扇谷(おうぎがやつ)上杉持頼(もちより)の臣であり、持頼の命による築城です。以後河越城は、武蔵国における扇谷上杉氏の拠点として90年間を過ごします。
 しかし天文6年(1537)、扇谷上杉朝定(ともさだ)は、北条氏綱の攻撃を受け、河越城を奪取されてしまいます。その後河越城は、武蔵国における後北条(ごほうじょう)氏の前線基地となりました。なお後北条氏は、鎌倉時代の北条氏とは何の関係もありません。伊勢新九郎長氏(ながうじ・北条早雲)を初代とし、小田原北条氏とも呼ばれます。
 さて天文14年10月、関東管領の山内上杉憲政(のりまさ)は、駿河の今川義元と盟約を結び、河越城奪回のために出陣します。もちろん扇谷上杉朝定との連合軍です。憲政は、関東の諸士に大動員をかけますが、そのためには古河公房足利晴氏(はるうじ)の号令が必要です。晴氏の妻は北条氏です。憲政は強引に晴氏を説得し,関東の連合軍を出動させることに成功したのです。
 連合軍は川越の砂久保(現川越市砂久保)に陣を布き、河越城を包囲しました。しかし城内には北条氏の勇将福島左衛門大夫綱成以下三千の兵が立て籠もり、長陣を布いて頑強に抵抗します。そこで憲政は、兵糧攻めに転じました。川越城を完全包囲して、食料をはじめ物資を城内に搬入させないという戦術です。戦いは半年に及び、同15年4月、北条氏康は、河越城を明け渡すかわりに籠城者たちを赦免してくれるよう、上杉軍に申し出ます。しかし憲政は、この申し出を拒否します。
 北条軍は河越城救援のために出陣しますが、あくまでも和を乞うためという態度を崩しませんでした。しかしこれは、上杉軍を油断させるための作戦でした。4月20日の夜のことです。現在なら5月下旬、初夏です。北条勢は、救護部隊と城内に籠城する兵が連絡を取り合い、突如夜襲をかけて、上杉軍を壊滅させてしまうのでした。夜とはいえ、おそらく満天の星で、夜であってもよく見えたと思われます。当時の人であれば、今の我々とちがい、かなり夜目がきいたにちがいありません。しかも夜襲をかけるため、夜目を馴らしての襲撃であったにちがいありません。上杉軍は決定的な敗北を被ることになります。これが関東の戦国史に名高い「河越夜戦」です。こののち上杉氏は越後に逃れ、守護代長尾景虎(謙信)に関東管領職と上杉姓を譲ることになるのです。


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 戦国の合戦③


桶狭間の戦い 今川義元対織田信長

 永禄3年5月19日、西暦に換算するならば1560年6月22日、歴史上忘れることのできない大事件が起こりました。駿河・遠江(とおとうみ)の守護大名で、天下人にもなり得た今川義元が、上洛の途次、織田信長の奇襲を受けて殺されたのです。この時点で信長は、まだほとんど無名の存在でした。しかし、以後歴史は、信長を中心に動くことになります。
 今川義元は、まず三河を掌中に収めて、ついで北条氏・武田氏と三国同盟を結び、西上を目指していきます。永禄元年(1558)ごろから、まずは尾張への侵入を開始します。尾張は織田信長の領地です。義元は、笠寺(かさでら)・鳴海(なるみ)・品野(しなの)・大高(おおだか)を前線基地としました。信長もまた城塞を築き防備を固めました。とはいえ、尾張の信長軍は、家臣団の統制も十分ではなく、守勢でした。
 そしてついに義元は、5月12日、上洛の軍を起こし、駿河府中を出陣したのでした。軍勢は4万とも2万5千とも(あるいは1万とも)いいますが、ともあれ1万としても大軍です。17日には、三河の池鯉鮒(ちりふ)に陣し、さらに三河・尾張の国境に進出しました。そして18日、鷲津(わしづ)・丸根を攻撃すると共に、徳川家康に対して、大高城への兵糧入れを命じました。19日、義元自らは本隊を率いて桶狭間方面に進み、桶狭間の北約2キロの田楽狭間(でんがくはざま)に陣取ったのでした。
 いっぽう信長は、清州城で宿老たちと会議を開いていました。この事態にどう対処するか。宿老たちの意見の多くは、守りを固めての籠城戦でした。しかし信長は、宿老たちの意見を斥け、野戦に決し、18日深夜、僅かの手兵を率いて出陣したのでした。翌19日、丸根・鷲津の陥落を知った信長は、善照寺(ぜんしょうじ)の砦に2千の兵を集結させました。さらに相原(あいばら)方面に進出しました。ここで信長は、義元の本隊が、田楽狭間で休止しているという情報を得たのでした。
 桶狭間一帯は丘陵地帯です。ゆるやかな起伏に富み、隘路(あいろ)が続きます。大軍は伸び切り義元の本陣も大した人数ではありません。信長は、ただちに襲撃を決意しました。襲うなら今しかないと。天が信長に味方してくれました。折から驟雨(しゅうう)となるのです。どしゃ降りの雨が、甲冑(かっちゅう)の音や馬の声を消してくれました。信長軍は、その驟雨の中を、今川軍に察知されることなく、義元の本営に迫ることができたのです。そして、雨が止みます。
 雨が止んでほっとした瞬間、義元の本隊は大混乱となりました。信長軍が急襲したからです。今川軍は大混乱となり、3千に及ぶ兵を打ち取られて敗走を余儀なくされました。そして、今川義元もまた、信長軍の一兵卒毛利新介に討ち取られたのです。
 この戦いは、典型的な奇襲戦ですが、たまたま運がよくて信長軍が勝利したわけではありません。地型も、梅雨時の気象条件も、おそらく信長は熟知していたにちがいありません。まさに信長は、勝つべくして勝ったのでした。


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 戦国の合戦④


川中島の戦い 武田信玄対上杉謙信

 武田信玄と上杉謙信が一騎討ちをしたという川中島の戦いは、戦国合戦史上、もっともよく知られた戦いの一つです。
 川中島とは、北信濃の千曲川と犀川の合流点付近一帯をいいます。今の、長野市の郊外です。中世より、肥沃な穀倉地帯であり、交通の要衝でもありました。この地で、天文22年(1553)から永禄7年(1564)にかけて、12年の間に、信玄と謙信が5回戦ったのです。
 この地をめぐって両雄が鎬(しのぎ)を削ったのには、わけがありました。領土拡大のために信濃に進出した信玄は、まず天文11年(1542)に諏訪の地を手に入れ、同14年には高遠(たかとお)城を陥れ、伊那地方も勢力下に収めました。しかし、北信濃への進出は思うようになりませんでした。北信濃には村上義清が頑張っていて、容易に信玄を近づけなかったのです。信玄は天文17年の上田原の戦いと、天文19年の戸石城の戦いで、村上軍に大敗しています。しかし、天文22年になって信玄は、やっと村上義清を追って、北信濃の地を手に入れました。
 いっぽう義清は、越後春日山城の長尾景虎(のちの上杉謙信)のもとへ逃げて行き、救けを求めました。信玄と謙信の、因縁の対決が、こうして始まったのです。
 謙信にとって信越国境間近の川中島の地は、関東進出のために確保しておかなければならない要衝でした。名分を重んじる謙信にとっては、村上義清が救けを求めて来たことは、信玄を叩くための絶好の理由となりました。かくして、双方にとって譲りがたい土地である川中島をめぐって、幾度となく戦いが繰り広げられることになったのです。
 なかでも、もっとも有名な戦いが、両雄一騎討ちで知られる永禄4年9月10日の戦いです。決戦に至るまで、約10日間、妻女山に陣した上杉軍と、海津城に陣した武田軍は、眺み合いを続けました。動いたのは前日の夜です。武田軍は二隊に分かれて、別働隊が妻女山を奇襲して上杉軍を追い落とし、待ち構えた本隊がこれを迎え撃って、前後から上杉軍を叩くという「啄木鳥(きつつき)戦法」で戦うことに決しました。考えたのは軍師山本勘助です。
 いっぽうの上杉勢は、深夜妻女山を下り、雨宮(あめのみや)の渡しで犀川を徒渉して、夜明けと同時に武田軍に襲いかかるという戦法をとりました。9月10日は、朝から濃い霧が、川中島一帯を覆っていました。上杉軍は、夜霧の中を行動して犀川を渡りました。のちに頼山陽が、「鞭声粛々(べんせいしゅくしゅく)夜河を渡る」と詠った名場面です。川中島の八幡原に本陣を移した武田軍に、上杉軍が攻撃をしかけました。上杉軍は「車懸(くるまがかり)の陣」、武田軍は「鶴翼(かくよく)の陣」で戦ったといいます。しかし決着がつかず、双方兵を退きますが、このとき、上杉謙信がただ一騎、武田の陣に斬り込み、武田信玄が謙信の太刀を軍配で受けたといいます。いまも八幡原の地に、馬上から切りつける謙信とこれを受ける信玄の像、および「三太刀七太刀」の碑が建っています。


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 戦国の合戦⑤


三方ヶ原の戦い

 武田信玄が、2万5千という大軍を率いて甲斐府中(山梨県甲府市)を出発したのは、元亀3年(1572)10月のことでした。西上を果たして京都に武田の旗を立てる、すなわち天下掌握を目指しての出兵です。
 このころ、戦国大名たちの天下取りレースは、熾烈を極めていました。信玄・謙信・信長・秀吉・今川義元、それに若き家康らが、虎視眈耽と京都を窺っていたのです。なかで、最も天下人に近かったのが武田信玄です。ですが、信玄には病気という大敵がいました。記録によりますと、信玄はよく志摩の湯(湯村温泉)に逗留していますが、おそらく病気療養のためであったろうといわれています。その病いとは、結核と癌の2説があります。NHK大河ドラマとなった新田次郎の「武田信玄」では、結核説となっています。なおこの作品は、月刊「歴史読本」に15年にわたって連載され、同誌の編集長であった筆者が担当しました。
 さて、甲斐を出発した武田軍は、信州(長野県)の諏訪から伊那を経て、遠江(とおとうみ。静岡県)へと進撃を続けます。遠江に入った武田軍は、二俣城を攻略し、12月の下旬には天竜川を渡り、家康の遠江経営の拠点である浜松を目指します。なお二俣城の戦いでは、徳川方の本多平八郎忠勝が大活躍した話が、大久保彦左衛門が記した『三河物語』などに記されています。それによれば、武田軍は忠勝のことを、
「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭(かしら)に本多平八」
 と誉めそやしたといいます。
 その後武田軍は、家康の籠る浜松城には向かわず、三方ヶ原台地に軍を進め、さらに下ろうとします。家康をおびき出すための陽動作戦です。浜松城の軍議では、優勢な武田軍に対して籠城すべし、という意見が強かったのですが、家康は、敵が浜松城を素通りして三河に侵入しようというのに、一矢も射ずに許すのは武門の恥辱であると、出馬に決したと、いわれています。このとき、徳川軍は織田信長からの援兵を加えて1万1千、武田軍は3万から4万(史料によっては6万)といい、圧倒的に武田軍が優勢でした。
 戦いは武田軍からの石つぶてで始められました。多くの石を用意していて、これを一斉に投げるというのは、有力な戦法でした。石ころを投げつけられて憤激した家康の軍勢は、挑発に乗って三方ヶ原へと攻めて行きます。しかし、戦いは武田軍の一方的な勝利で、家康は命からがら浜松城へ逃げ帰ります。馬上、恐怖の余り糞尿をたれ流したといわれます。浜松城に逃げ帰ったときの姿を家康は絵師に画かせ、座右に置いて、いましめとしました。今もこの絵は、名古屋の徳川美術館に残されています。
 しかし、その家康が天下取りレースの最終的な覇者となり、武田家が滅亡したことを考えると、まさに歴史の綾といえましょうか。


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